2013年8月13日火曜日

「学ぶ」ということ・・・『日本辺境論』 (2)



以前、英会話の先生とお話ししていたら、彼が合気道を学んだことがあるとわかりました。それで、「日本の武道の鍛錬にはいろいろ理不尽と感じることがあるでしょうね。人にお辞儀をするのは理解できると思いますが、『道場』にお辞儀するのをどう思いましたか。」と尋ねてみました。でも、合気道を学んでいたのだから、その心はわかっているだろうナ~~~、と思いつつです。すると、しかめっ面をして、「耐えられないね。だからやめた。」と。



また、違う先生ですが、お話をしていて、わたしが「科学の進歩で、ほんとうはそれぞれの種族のDNAの傾向により性格とか秀でている能力とかはわかっているらしいが、人種的偏見と混同されるので科学者はそれを公にしないと聞いたことがありますよ。それで日本人の傾向はDEPRESSIONだとか。」と言うと、「じゃあ、イギリス人はどうなの。」と。わたしは、「さあ、なんでしょうね。」と答えましたが、私見としてそれについて思っている事はあります。ENGLISH SPEAKERS についてです。



常々思っている事は、英語圏の人々(最初はイギリス人ですが)の××フロンティアスピリットと××合理主義と××功利主義です。このそれぞれの言葉の前に形容詞をつけたいのですが、あまり「ひどい」形容詞もつけられないので、今回は××で。それで、この××合理主義と××功利主義が前述の合気道などの「理不尽な学び」を妨げているのではと。



物事をスパッと割り切ってしまう世界では、切り捨てられたものが実は重要なものだったという事も。日本の合理的でない功利的でない文化は、禅とか武士道とか、または茶道とかに現れていると思いますが、それがどういうものかを説明する能力がわたしにはありませんでした。それで、この「日本辺境論」を読んで、なるほどこのように説明したらいいのかと思いました。





「学ぶ」とは、人が何かを学ぶ前にその効能を教えること(語ること)はできない。なぜなら、学ぶ前に、その事を理解することはできないのだから。あかちゃんが言葉を学ぶのと同じである。赤ちゃんは何か言葉を学ぶ時、「これはこういう時に役立つから学んでおこう」とは思わない。与えられたものを受け入れるだけ。



そこで、英語圏の「学び」を考えると、学び始める前にこれを学ぶとどういう有用性があるかどういう意味があるのかという開示を求める。学校でも学期初めにシラバスが必要。知識や技能の習得に先だって、それが会得するに値するものであることを説明しなければならない。論文を書く場合も、序論で全体の構成と結論をあらかじめ示し、読む価値のある論文である事を提示する。著者である内田樹さんはこの事について「はじめから学ぶものを設定されるとそれ以上のことは学べない。」と言っている。



英語圏でない国では、そこまで合理的でないと思う。論文の書き方についても、「大陸式論文」というものがあると書かれてあった。はじめに、どういう結論になるかと提示しないで書き始めるものらしい。仏教や武道の修行となると究極的に合理的でないと思うのだが。何故、修行をする時に無意味と思われる事をしなければいけないのか。それは、その意味を自分に問い、自分自身で考えるためと言う。それにより「学び方」を会得し、「学び方」を身につけることによって、なにからでも学ぶ事ができるようになる。たとえ自分が師事した人が「先生」に値しない人でも、そこから何かを学び取ることができる。オープンマインドであること、それが肝要な事である。予め学ぶ事柄が限定されていると、それだけ学んだら、「はい、知りたいことはわかりました。では、さようなら。」と言う事になりかねないと。





どうでしょうか。うまく説明できたでしょうか。







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