2013年8月13日火曜日

「ノー」と言えない日本人



英会話学校で先生が「質問はありませんか」と言うと、たいていの場合生徒は返事をしない。ネイティブの先生は少々おかんむりである。なんで日本人は「ノー」と言えないのかと。あまり度々言われるので、真剣に考えてみた。



この場合、わたしたちは「イエス」とは言える。それは、質問がある場合はそれが100%真実だから。質問があれば「はい」と言って質問すれば良いだけである。しかし、「ノー」はどうか。この場合100%「ノー」はありえない。先生の言う事を100%理解してその上で「ノー」と言わなければならないからだ。理解したと思うけどひょっとしたらしていない事がまだあるかもしれないし、今は思いつかないけど、あとで質問を思いつくかもしれないし・・・等など。つまり、日本人って完璧を求める傾向にあるのかな。だから、はっきりわからない事は返事を避けて、沈黙のうちに曖昧にしてしまうのかな。または、イエスともノーとも言えない事をグダグダと取り留めもなく話して、結論を曖昧にしてしまうのかな。



日本人の先生の場合は、「質問ありませんか。」と生徒をひと渡り見回して、反応がなければ「ありませんね。では、次に移ります。」となる。わたしはこのあいまいさをこれはこれで我々の文化(?)慣習(?)なので「良し」とするものでありますが、海外に出ると事情は違ってくる。とりわけ世界の基準は西洋文化基準なので、日本人は苦労するだろうなと想像する。また、もうひとつ日本人の性質に「権威に文句をいわない」ということもあると思う。世界基準が我々の基準に合わなくてもそれが基準なのだからと、素直に受けいれて従おうと努力する。「わたしたちは違う考えを持っているのだ。違う基準で行動しているのだ。」と主張すればいいのにとツクヅク思う。



上海で暮らしていた時、しばしば答えに詰まる事があった。そんな時わたしの友達は、「とりあえずイエスと言え」と言っていた。この「イエス」と言えというのは、事情により「ノー」の場合もある。つまり、善し悪しとか真実ではなく先ずは自分の利益を考えて判断するのである。例えば、なにか仕事を頼まれた場合、自分ができるならイエスであるし、できそうになかったらノーであるが、彼らの場合は自分の能力あるいは時間的余裕などに関係なく、それが自分の利益になるならイエス、ならないならノーである。「イエスと言って、あとで考えればいいのよ。」と友達の言。レストランで「もういいですか」とお皿を引かれそうになっても答えは「ノー」。食べても食べなくとも一応お皿は手元に置いておくのである。結局お腹いっぱいで食べなくともネ。彼等は強い。いくら西洋諸国にナンノカンノ言われても、「中国は違う」と主張していくんだろうなと。



だから、結論は何?日本人の文化である「あいまいさ」を克服し、世界に打って出ること?わたしは我々の特徴を残し、それが世界に通用しなければ、世界に打って出なくともいいと思うけどな。









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