2013年8月13日火曜日

When We Were Orphans を読んで・・・ ②

続き・・・





KAZUO ISHIGURO





��.「小説」の観点からみた場合



  When We Were Orphans を読んだ。全体的印象として、フィッツジェラルドの「華麗なるギャツビー」の感じ。もちろん内容とかストーリーとかは全然違うがなんとなくそんな感じ。わたしの感想では、純文学(?)とエンターテイメント小説の中間か。彼の第三作「日の名残り」はブッカ―賞を受賞。また、アメリカで映画化もされている。アンソニー・ホプキンス主演。だから彼の立ち位置はこのゾーンということか。わたしは彼の言う小説の「普遍的テーマ」に異議がある。つまり、平均ゾーンにいるすべての人を読者として求めなければ、狭い範囲で特殊な事を題材としても純粋な小説として成り立つ。例えば、最近読んだバルガス・リョサの『緑の家』。ペルーの「狭い範囲」の小説である。ペルーのいろいろな状況にある人たちの入り組んだ人間関係そして過去と現在も見事に入り乱れて不思議な空間を作り出している。この本が「外的な支えが何もなくても文体の内面的な支えだけで独り立ちしている作品」と評されているように、例えイギリスの片田舎の金持ちの男性と貧しい境遇の若い女性の恋のような使い古されたシチュエーションの小説であっても、描写によってはどんな国の人にも共感を得ることができる作品がいくらでも書ける。



グローバライゼーションとは、逆に辺境の地を蘇らせるとも言える。つまり、辺境のマイナーな地域はより大きな地域への統括によりそのアイデンティティーを失っていったが、統括された地域がもう一つ大きなものに飲み込まれる時(グローバル化)、先に飲み込まれた地域が吐き出されるのだ。中間層がアイデンティティーを失うことによる辺境の復活である。わたしとしてはこの濃密な空間の小さなお話の方がグローバル化で薄められた得体のしれない誰にでも通用するようなお話よりよほど好きである。



このグローバル化していく世界を牽引している英語、そしてその英語を使って小説を書くことははじめからアドバンテージを享受していることになり、逆説的に中身の濃い小説を書くためにはより多くの努力が必要となるのではと感じる。







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