2014年7月27日日曜日

『謎の独立国家・ソマリランド』――2


次回につづく…、などと書きましたが、実際、あまり書く事がなく、と言うのは、もうすでに2回ほどこの話題で書いているので…、今回は、あっさりと、ということでお願い致します。

 

今回は、英語のプライベート・レッスンのためですから、日本語では述べたいことを書いたけど、英語にするには、少々難しいなあ、と。で、ウィキペディアの英語版で調べてみました。

 

他の国には認められていない国…、という事で、英語では、次のような記述がありました。

 

self-determination as the Republic

Somaliland’s self-proclaimed independence remains unrecognized……

 

これで、まあまあ、ソマリランドの成り立ちは説明できそうかな~~~、

 




 

次に、わたしの計画では、「リアル北斗の拳」と著者が著しているソマリアのことについて述べる覚悟です。それから、「リアル・ワンピース」と書かれているプントランドの事に移ります。ここでの海賊行動は、全く政治的な思惑はなく、単なるビジネス・ライクであるということ。まともに、軍隊を出すようなケースではないよですよ~~~。

 

それから、何故ソマリランドは、独立を果たすことができたかという問題。著者は、彼らの政治形態を「ハイパー民主主義」と言っています。つまり、西洋では民主主義は「個人」が主体となっていますが、ここではCLAN(氏族)単位であること。このことは、英語でこんな風になっています。

 

It has a hybrid system of governance under the Constitution of Somaliland, combining traditional and western institutions.

 

ソマリランドでは、議院は2院制になっています。まあ、どの国でもそんなもんですが。違うところは、日本で言う「参議院」は、氏族によるものです。

 

The Parliament’s House of Eldersです。

 

The government became in essence a “power-sharing coalition of Somaliland’s main clans,” with seats in the Upper and Lower houses proportionally allocated to clans according to a predetermined formula, ……

 

 

個人ではなく、CLAN(氏族)による意思決定を、先生がどのように受け止めるか…興味深いところであります。民主主義の権化のようなイギリス生まれの彼がね。ちょっと、意地悪かしら。

 

 

また、興味深いことが起こりました時は…、後日に!

 

 







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2014年7月26日土曜日

『謎の独立国家ソマリランド』


この本のお話は以前にも取り上げました。その文章と重複するかもしれませんが、もう一度考えました。次回の英語のプライベート・レッスンの話題にしようと思うからです。あまり政治的な話をレッスンでしたくありませんが、「どうせ」なら興味のあることを話す方が楽しいでしょう。今度の先生はとても温厚な方なので、真剣な政治の話にはならないと思われます。それから、『謎の独立国家ソマリランド』は政治的な本じゃないしネ。冒険ドキュメンタリーなのだあ。

 

 

近年、欧米の威力が衰えつつあるのにともない、いろいろな状況が生まれています。また、そのような状況に鑑みいろんな観点からの本の出版があります。例えば、エマニュエル・トッド氏の『帝国以後』、『人類五万年文明の興亡――なぜ西洋が世界を支配しているのか』イアン・モリス著などなど。フランスの経済学者トマ・ピケティの書いた『21世紀の資本論』は、その渦中のアメリカでベストセラーになっているとか。『政治の起源』(フランシス・フクヤマ著)もおもしろそう。

 

つまり、この二~三百年、世界を導いてきた西欧民主主義、資本主義が曲がり角に来ているということ。このままこれらの概念に新しい息吹を吹き込むのか、あるいは全く新しいパラダイムを生みだすのか…、がどうやら現時点の問題らしい。ついこの六月にアルカイダ系のイスラム過激派組織イラク・シリア・イスラム国が「イスラム国」の成立を宣言しました。また、西欧民主主義を体現していない「中国」が世界第二位の経済大国になっています。違う体制でも、人類は発展できるということでしょうか。

 



 

という訳で、「西欧民主主義敗れたり!」のキャッチコピーを持つこの本『謎の独立国家ソマリランド』なのです。ソマリアは無政府の内戦状態にあり、今回の集団的自衛権の議論にもしばしば現われる「海賊」の横行する海域にあります。その「西欧が国境を定めたソマリア」の一部、旧英領ソマリランドが勝手に独立しソマリランド共和国を設立しました。しかし、事実上は独立国家として機能しているものの、現在のところ国際的にはソマリアの一部であると見なされており、国家として承認されていません。

 

海外諸国/国連から国家として承認されていなくとも、そこでの生活は平和が保たれており(南部ソマリアは戦闘状態、武器を携行しないと歩けない)、独自の通貨もあり~の、経済的にも安定しています。学校もあるし、物資も海外から入って来ます。そこで、この本の著者高野秀行氏は、どのようにこの国が運営されているのかと興味を抱き、入国に必要なビザもないまま旅立ちます。だって、国と認められていないのだから、日本ではビザは手に入らないよね。

 

もちろん彼は、現地での取材のための根回しは日本で行っています。いろいろな伝手をたどって、日本にただ一人ソマリランド共和国人がいることを発見するのです。ソマリランドの独立の英雄とかで、イブラヒム・メガーグ・サマターさん。彼にソマリランドで信頼できる人を紹介してくれるようにお願いすると、大統領、与党の党首、第一野党の党首、大統領スポークスマンの名前と肩書を上げ、居場所は行ってから誰かに聞けばわかるというもの。それから、ビザはエチオピアの首都、アジスアベバで手に入るという情報も得て、即、羽田空港から飛び立つのでした~~~。そして、陸路エチオピアからソマリランドへ。

 

 

次回につづく。






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2014年7月22日火曜日

まだ読みかけですが――『イエス・キリストは実在したのか』について


今、『イエス・キリストは実在したのか』という本を読んでいます。原題は『Zealot---The Life and Times of Jesus of Nazareth』なので、日本語の題との違和感がありますが…。第3部までの構成ですが、第2部まで読み終えました。まだ、最後まで読んでいませんから、今日のところは「何故わたしはこの本を読んでいるのか」ということについて書きます。

 

まず、著者であるレザー・アスランがムスリムであるということです。この本文の前の「本書の執筆にあたって」で、彼は次のように書いています。彼は、イランで生まれ「自分はペルシャ人だからムスリムなのだ」という思いしかなく、宗教的伝統のある社会に生まれた人にとって、宗教は肌の色と同じくらい生来のもので特に感慨はないと書いています。考えてみれば、我々は仏教徒ということになっていますが(あるいは神道か)、自分自身で決めたことではありませんね。

 

彼は、1972年にテヘランで生まれ、1979年イラン革命時に家族とともにアメリカに亡命したということ。サンタ・クララ大学で宗教学を学び、ハーバード大学院で修士号を取りました。またアイオワ大学で創作小説の修士号も取得しており、宗教学者で作家であります。

 

彼がイエスと出会ったのは、15歳の時の福音伝道キャンプでだと書いてあります。すっかりキリスト教に魅せられて、キリスト教に転向したようです。しかし、聖書を深く読めば読むほど、イエス・キリストの人物像に矛盾を感じ、宗教学を学ぶようになりました。研究するにつれて、それは確信に変わり、精神的な拠り所をなくしキリスト教を捨てました。「わたしは騙されて高価な偽文書を買わされたような気分になって、腹が立ちキリスト教信仰を捨てた。」と書いています。

 

そして、自分の祖先の信仰と文化を再考するようになり、自分の肌身に合った親近感をその中に見出したようです。それでも学者として宗教学の研究を進め、イエスを歴史上の人物として再考し、実際にどのように生きた人であるのかに焦点を当ててこの本を書き上げました。ですから、福音書やその他の資料を精査し、どの部分に歴史的意味が含まれているかを判断して、いわば「歴史書としてのキリスト教について」が書かれていると言えます。この本の本文は277ページありますが、原注として70ページほど割いています。自分の偏見が入らないように、忠実に資料を研究したという意思が窺えると思います。

 



 

この本はアメリカでベスト・セラーと聞きました。今や、キリスト教を体現している数少ない国と思われるアメリカにおいて、「本書がベスト・セラーになるとは」という驚きもこの本を読んでいる理由のひとつです。訳者あとがきでエピソードが紹介されています。

 

アメリカでの刊行のすぐあと、2013年に右寄りのテレビ番組がこの著者アスランにインタヴューをしました。

 

「なぜ、ムスリムのあなたがイエスのことを書いたのか?」

 

これに対するアスランの答えは、

 

「自分は宗教学者、歴史家、著述者としての学位を持ち、その知識と綿密なリサーチによって、歴史上の人物としてのイエスの側面を20年に渡って研究した集大成として本書を上梓した。これに対する賛成論、反対論については、その理由を添えて、巻末に50頁以上にわたってできるだけ公平に付加している。また、キリスト教徒の学者がイスラームの歴史やその始祖ムハンマドについて書いてはいけない、あるいは書けるはずがないと決めつけるのはおかしのと同様、ムスリムがイエスのことを書くことを疑問視するのは妥当ではないのではないか。」

 

わたしは、まだこの本を読書中ですが、1世紀当時のパレスチナで数多いた「メシアと名のる人」の一人であったイエスが、どのように神格化されて世界中に信仰者を得るまでになったのかというお話から、日本での「アマテラス」が天皇家にとってどのように重要な物になったのかという本、『アマテラスの誕生』と『伊勢神宮の謎を解く』を読んだ時と同様のワクワク感を得られました。どの国でも為政者は自分の正当性を確保する為にいろいろでっちあげるものですネ。

 

 

また、今のパレスチナとイスラエルの戦争状況を考える時、2000年以上も前からの歴史の積み重ねが関係しているのかと思うと、複雑です。






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2014年7月16日水曜日

Lafcadio Hearnの『KWAIDAN(怪談)』


さて、明日の読書会の当番はわたしです。月一回の英語の読書会です。わたしは、Lafcadio Hearnの『KWAIDAN(怪談)』からOF A MIRROR AND A BELLを選びました。10ページ程度のお話――という決まりなので、それで選んだようなものですが、理由があるにはあります。

 

 

話としては、単純です。ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は『今昔物語』に興味があったようで、このお話も平安時代のものです。昔、お寺の鐘を鋳造するのに庶民から銅製の鏡を寄贈することを求めたそうです。彼によれば、明治期にもまだこの風習は残っていました。それで、いったん鏡を寄贈した女性が、これは先祖代々伝わるものであると、寄贈したことを後悔し返してくれるように頼みます。しかしそれは許されません。

 

寄贈された鏡はお寺の境内に山のように積まれます。そして、いよいよ鋳造する段になると…、ああら、不思議。ひとつだけ溶けない鏡があります。この鏡は不浄な想いがこもっているから溶けないのだと、誰が寄贈したのかと、問い詰められます。そこでその女の人が寄進したものとわかり、彼女は恥と怒りのうちに呪いの言葉を残し憤死します。

 

その呪いが何かと言いますと、「わたしが死ぬことによって、鏡は溶けて鐘は鋳造できるでしょう。その鐘が吊るされた時、強い力で打ち鳴らし鐘が壊れたら、その打ち壊した人にはたくさんの黄金がもたらされるでしょう。」というもの。その後、人々はその言い伝えに踊らされて、鐘を打ちに来ます。しかし、誰も叩き壊すことはできません。それで、お寺の住職は、この騒ぎにうんざりし、鐘を池に沈めてしまいます。もう二度とその鐘は浮き上がって来ることはありませんでした。

 




 

話はここでお仕舞いではありません。その後のエピソードも書かれているのですが、その間に、ハーンの解説が挟まれています。その解説文が、わたしがこの話を選んだ理由です。

 

彼が解説しているのは「nazoraeru」という日本語についてです。

 

Now there are queer old Japanese beliefs in the magical efficacy of a certain mental operation implied, though not described, by the verb “nazoraeru.”The word itself cannot be adequately rendered by any English word; for it is used in relation to many kinds of mimetic magic, as well as in relation to the performance of many religious acts of faith. Common meanings of “nazoraeru”, according to dictionaries, are “to imitate,” “to compare,” “to liken;” but the esoteric meaning is to substitute, in imagination, one object or action for another, so as to bring about some magical or miraculous result.

 

これに続いて例を上げています。寺を建立するお金がなくても、「心を込めて」石を積み上げれば、それは、お寺と同じ意味を持つ、あるいは、6771巻ある経典を読むことはできないが、経典鐘を回転させると一巻読んだことになる、というようなこと。

 

ハーンは、日本の文化に共感と興味を持っていました。だから、日本文化の側に立って翻訳ができると思います。現代の日本人にはもうわからないような事も、彼の翻訳によって再確認することもあるかと。

 

もうひとつ思ったことは、日本の文化には「nazoraeru」ということが、よく見られるのではないかということ。例えば「石庭」、「盆栽」、「落語の扇子」、「文楽」などなど。「なぞらえる」というのは、「わら人形」にも見られるように、アニミズムからきているもの。キリスト教などの一神教に比べ、日本の神道はアニミズムと言われます。このような先進国で未だに原始的宗教を信じている国は珍しいとも。そういう点からして、わたしはこれらを、アニミズムを文化にまで昇華させた例だと思うのですが…、どうでしょう。

 

 

さて、このお話の続きは、”strike and break objects imaginatively substituted for the bell”です。人々は、せっかくの宝を得るチャンスを逃してはならないと、いろいろなものを例の鐘に「なぞらえて」叩き壊し、黄金をえようとします。その一人が「梅が枝」。平家の落ち武者、梶原 景季(かじわら かげすえ)と関係しています。梅が枝は銅製の手水鉢をその鐘になぞらえて叩いて壊します。すると300両の金が現われたということ。

 

この話もまたレジェンドとなります。そして、いつもの昔話の如く欲張りな人が現われます。彼は、

 

Having wasted his substance in riotous living, this farmer made for himself, out of the mud in his garden, a clay-bell, and broke it, ---crying out the while for great wealth.

 

で、結果は、a white-robed womanが現われて、大きな壺を与えます。家に帰って、妻とその壺を開けてみると……、壺の縁まであるものがいっぱいに満たされていましたが…、

 

But,no!-----I really cannot tell you with what it was filled.

 

ですと!!!





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2014年7月12日土曜日

『火星のタイム・スリップ』


先日英語のプライベート・レッスンのトピックはBBCニュースだった。先生がトピックを持ってくる番だったので、彼の選択であった。内容は、MITが編集出版している長く続いている科学雑誌があるが、2011年に有名なSF作家達に依頼して、未来のテクノロジーとそれがどのようにわたしたちの生活に実現あるいは役立っていくかということを書いてもらったというもの。

 

先生とのトークの間にわたしがSF小説好きだということがバレて、「一番好きなSF小説は?」と聞かれた。わたしが好きなSF小説家にフィリップ・K・ディックがいる。幸いなことに彼はディックのことを知っていたので、彼の作品で一番好きなものを答えた。『火星のタイム・スリップ』だ。

 

JG・バラードも好きだが、「SFで」と聞かれた時はいつも『火星のタイム・スリップ』と答えることにしている。しかし情けないことに、ずっう~~~と以前に読んだので、内容をあまり覚えていない。ただ、「とても感動した」ということだけ、とても深く深く心に残っている。で、先生にそう言ってしまった行きがかり上から、もう一度読み直してみた。

 

おもしろいことに、文庫本の中にレシートをみつけた。若い時は栞代わりによく買った本のレシートを使っていたので、そのまま残っていたのだろう。63とあったので、1963年かと思ったが、わたしの歳を考えたらそんな筈はないだろう。それで「昭和か」と気付いた。昭和63年5月13日、440円で買っている。一気に一日で読んだ。

 
 
 
 

この本のあらすじなんて書かない方が良いだろうと思う。ディックの作品のあらすじなどを書くととてもハチャメチャなコミック本のようなものになってしまうからだ。彼の作品にはたいてい「精神的に問題がある」人々が出てくるが、この本も「例にもれず」である。

 

わたしは、彼の伝記本を持っている。伝記の類はキライだが、英語の勉強と思って(いくら英語の勉強でも興味あるものを読みたいよね)、購入した。まだ、半分くらいしか読んでいないが、その本の作者によるとディックは双子として生まれたようだ。彼の双子の妹は、幼い時に死んでしまった。ディックの方が健康で妹の方は病弱だったのだ。彼の母親は、母親として未熟だったようで、ディックの方を大切にしたので妹は衰弱死したらしい。ディックはそのことを幼い頃から自分の所為だと思い始めた。彼の作品にはよく「生まれなかった双子の兄妹」が出てくる。生まれなかった双子はもう一方の身体の中に宿っている。映画『トータル・リコール』にも出てきたように。そんなこともありディックは精神的に問題を抱えるようになった。最後にはドラッグ中毒で亡くなっている。作家によくある話ではあるが。

 

彼の作品には同様に精神にダメージを受けた人々が書かれている。というか、メインは大抵問題を抱えた人々だ。分裂病、自閉症、偏執、多幸性などなど。『アルファ系衛星の氏族たち』では、地球=アルファ星系の星間戦争の後、アルファ系衛星に取り残された病院の精神疾患を持った人々が活躍する。彼らは、星間戦争後その衛星に取り残された忘れられた存在であった。しかし、彼らはそこで独自の文化を築き上げる。そして、政治形態などなどを。そこに地球側が調査部隊を送り込む。そして、またまたハチャメチャな抗争が繰り広げられるという算段だ。

 

『火星のタイム・スリップ』では、自閉症の10歳の少年が重要な役割を果たす。その彼の最後は涙なしには語れない、なんて。わたしも泣いてしまいましたよ~~~、「歳のせい」もあると思うが。ディックが言いたいのは、「彼らこそ正常な人々である」ということ。つまりこの自然界からかけ離れてしまったストレスフルな人間社会では、「正常な人」なら正常な生活を送ることは困難だということ。こんな「人間らしくない」生活をなんの困難もなしにスムースに送れる人こそ「正常ではない」ということ。そんなところだと思う。この本に「精神病とは必要にせまられてなされた発明である。」という一節がある。この社会のシステムに同調できない人々を「精神病」という言葉に押し込めたのだ。

 

火星には「ブリークマン」という原住民がいる。例の如く、人間は彼らを差別する。しかし、この誰にも心を開かない自閉症の少年は、ブリークマンだけを「美しい人間」とみなす。ブリークマンのこんな会話がある。

 

「この子の考えは、わたしには、プラスティックのように見通しです。この子にも、わたしの考えが手に取るように見えるでしょう。わたしたち、二人とも囚人です。ミスタ、敵地にとらえられた。」

 

フィリップ・K・ディックは彼の伝記によると、「純文学の作家として認めてもらいたい」という願望を生涯持ち続けた。しかし、彼の作品はまぎれもなく「現代文学」だ。わたしは、そう評価いたしますよ。もうディックには聞こえないかあ。






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2014年7月8日火曜日

補足UP



<その1>

 

先日のUPで、「AIは次代の人類の究極の進化の形だ」と少々エキセントリックな結論を出してしまい反省しております(結論を翻しはしないが)。AIを恐れるにしろ人類の後見者と見做すにしろ、まだ先の話でありますから今現在の問題点は何かと考えてみました。

 

一番の身近な問題は、人間の失業でしょうか。「テクノロジー失業」などと呼ばれています。つまり、人の代わりに機械が働くようになると人間の仕事を取り上げてしまうことになるのです。歴史的に見れば、イギリスの第二次産業革命の時がそうでした。あぶれた失業者達が仕事を得るために(生活の支えを得るために)新大陸を目指して旅立ったのです。

 

その後、機械化により多くのタイピストたちが職を追われましたが、概ねタイピストが女性だったため社会的問題にはなりませんでした。能力のないものが職を失うのは当然と「自己責任」が問われたのでした。しかし男性までが機械に職を奪われつつある現在、これは社会問題として扱われます。(人生はいつも不条理だ)。

 

日本のAI研究のひとつに「東ロボくん」があります。国立情報学研究所などの研究で人工知能「東ロボくん」に東大入学をさせようという試みです。7年後の東京大学の合格を目指しています。今のところ、80%の日本の有名大学に合格できる実力のようです。そのプロジェクト・リーダーの新井紀子教授が指摘しているのは、「人工知能の弱点を把握し補うことができる人間の役割」です。「人工知能にできること、人間にできること」を差別化し、その役割を担うことができる人間の育成をする。つまり、教育の問題です。そして、人工知能と人間の棲み分けを計るということ。

 
 
 

 

<その2>

 

先日紹介したBBCニュースでは、MITが創刊した科学雑誌があるが、2011年にSFジャンルの有名な作家達に依頼して、新しいテクノロジーとその我々の生活にもたらす影響と言う特集号をだしたと書かれていた。つまり、今までもいろいろなSF作家が未来を予言するようなテクノロジーを本に書いているということかららしい。その例として、ヒロシマの一年前に原子爆弾の作り方を示したSFを上げている。

 

しかし、SF作家達が自分のイマジネーションだけでそれらの新しいテクノロジーを発明したとは考えにくい。彼らはたいてい科学系の教育を受けた人たちである。物理とか数学とか医者とか…だ。しろうとの我々にはつかみ辛い情報を彼等は早い時期に入手していると思う。先の原子爆弾についても、ドイツも日本も同時期に研究していた。アメリカが一歩先を行っていたというだけの話だ。つまり言いたいことは、原子爆弾が実際に発明される何年も前から、そんな物ができるであろうという雰囲気は漂っていたに違いない。科学者は、「確実な事」しか言えない。しかし、作家は「好きな事」が言える…、ただそれだけの違いのような気がする。

 

例えば、AIなんていうものが実現する前に多くのSFがそのようなものを扱っている。安部公房然り…。科学の世界はコンピュータが発明された時からすでにAIを目指すというような方向に行っていたに違いない。また、フィリップ・K・ディックの『虚空の目』は1950年代に書かれたと思うが、巨大な陽子ビーム偏向装置がサンフランシスコにあったということになっている。(さすがですね)。そして、今ようやく陽子線治療とか重粒子線治療が話題になっているが、その時からその芽はあったのだと想像する。

 

以前にも小栗虫太郎のことを書いた。明治期に生まれた推理小説家である。昭和初期に活躍。彼の作品で共感覚のことが取り上げられていた。それも犯人を示す重要な役割で。共感覚とは、五感の感覚がリンクしているもの。何かの匂いをかぐと特定の色(例えば黄色)が見えるというような。見える気がするというのではなく、実際に見える人がいるのだ。つまり、心臓が右にある人がいるというと同じ現実である。この共感覚のことをわたしは7~8年前に新聞記事で読んだ。しかし、この概念は未だに人々の間でポピュラーではないと思うが如何。

 

そんな感じで、時代の雰囲気をすばやく汲みとることができる人々が存在する。そんな人がSF作家なのである。SF作家が作りだしたものの後を世間(科学)が追っているのではない。





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2014年7月6日日曜日

『働かないアリに意義がある』と言う本


「働かないアリに意義がある」と言う本を読んだ。(アリのうち)7割は休んでいて、1割は一生働かない・・・というのがキャッチコピーである。あまりの軽さに胡散臭さを感じていたが、何回も目にするうちに試しに読んでみようかと思い買ってしまった。内容はコピーの軽さに比べて、少々難しい。生物学の問題である。最新の。こんなキャッチコピー誰が付けたんだろうね。確かにセンセーショナルで人の目を引き付けるが、売らんかな、の意図が少々見える。と言ってこのコピーがなかったら、わたしもアリの生物学的な話の本なんて買わなかっただろうナ。本自体については、読んで良かったと思う。

 

さて、なぜ7割のアリが休んでいるのかという理由は、働きたくなくて休んでいるのではなく、個々によって働こうと感じる「時」が違うからだということだ。個々の感性の問題。人の社会は社長とか組織のリーダーがいて、誰がどのように働くかという命令系統があるが、アリの社会は仕事全体を見渡して指令を出しているものはいない。そのために全てのアリが働くと不測の事態の時、例えばでっかい砂糖の塊が見つかったとか、その事態に対処するアリがいなくなる。そこで、そういう場合に「働こうか」とやっと感じるアリが動き始めるということだ。つまり仕事に対する反応が敏感なものから働き始め、鈍いものが続く。

 

アリはこの非効率な形態を選んで生き延びてきた。実際、研究によると働き続けるアリばかりの場合は、その時は効率よくアリのコロニーは発展していくが、ある時から衰退の方向に傾いて行く。つまり、あるひとつの仕事(例えば卵に風を送る等の)は適度なところでやめなければいけないところを、過剰過ぎて生活環境が正常に保てなくなる事態になるからだ。働く事に敏感でないアリがいれば、適度にサボり始める。だから能率の悪い規格外のメンバーをコロニーに抱え込んでいることが必要という事になる。

 

 

 

だから、何がいつ役に立つかは誰にもわからないということだね。今は役に立たなくても、それが役に立つ時が来るかもしれないということなんだ。今は役に立たない「小さなネジ」をどれだけネジを小さくできるかという楽しみ(自己満足)のためだけで作り続けることも将来極小ネジが必要という時が来れば役に立つ。そんなオタクの多い日本で作り出された変なものが世界の進歩に貢献していることも・・・アリなのだ。

 

 

 

もうひとつ「1割は一生働かない」ということについては、「社会的生物には血縁選択が働いている」と言う事実で説明されている。

 

生物は自分の利益になる行動をする。つまり如何に自分のDNAを数多く残すかということ。そして、その利益をあげる行動のみが進化していく。そしてコロニーを作るという選択がなされる。個体が自らの欲を消してコロニーのために働くのも、コロニー自体の利益が自らの利益に直結しているからだ。自分自身ではなくともその子孫(自分の遺伝子をたくさん持っているもの)が恩恵を受ける。しかしながら、「個体が貢献してコストを負担することでまわっている社会」というシステムが常態化すると、そのシステムを利用し社会的コストの負担をせずに自らの利益だけを貪る裏切り者が出てくる。働かなくても周りに依存することが可能になるからだ。一人で暮らしていてはそうはいかない。「メンバーが利他的に振る舞う社会では、フリーライダーが現れる」と著者は表現している。

 

 

進化においては、いかに多くの自分の遺伝子コピーを残すかが最大の問題だと述べた。今、一部のアリは働きアリが無性生殖していることが明らかになっている。単為生殖で自分のクローンを産むことによりコロニー全体が自分なのだ。しかし、無性生殖できるにもかかわらず、女王アリはオスとつがい有性生殖している。これは自分の遺伝子を半分失うということだ。何故そんな事をするのか。

 

コロニー全てが同じ遺伝子を受け継いでいるということは、同じ性質を受け継いでいるということだ。例えば伝染病が繁栄した場合、同質の個体は一斉に死滅してしまう。また、先に述べた通り、労働刺激に対する反応の違いがコロニーを維持するのに必要だ。同質個体では同じ反応をしてしまう。このような点で、コロニーには適度な異質性が必要と言うことだ。

 


 

 

アリの話と人間社会の話を同一視は出来ないが、現在の世界のグローバル化も全世界が単一化していくという意味で脆さを露呈しつつある。経済のグローバリズムは地域ごとに分かれていた経済圏を一つにしつつある。今までは、一つの地域経済が傾き始めると、その地域だけが滅びるかあるいは他の経済圏との関連で立ち直ることができた。例えば、ギリシャの経済が傾いていってもギリシャの通貨だけが安くなり、他の富裕なヨーロッパ圏の国が、例えばドイツ人が、たくさん観光にやって来てギリシャが立ち直る等とか。しかし、今は同じユーロ圏であることにより、ギリシャの失敗が他のユーロ圏にも飛び火することになった。

 

また、利己的なチーター(社会的コストの負担をせずに自らの利益だけを追求する裏切り者・cheater)がある社会に増えるとその社会が食べつくされるまで繁殖していき、その社会は死滅する。しかし、世界が一つになれば食い止める枠がなくなり全世界が滅びるまでその勢いは止まらない。モノの生産と流通を伴わないヘッジファンドなどにひとつになった経済圏全体の経済基盤が弱められてしまうとか。

 

 

 

生物は自己の適応度をあげるために日々進化している。これが生物の存在目的だ。最後にとても興味深い一文があった。

 

『「完全な適応」が生じれば進化は終わる。全能の生物が生まれれば、その生物しかいなくなるからだ。』

 

と言うことである。そのような生物は絶対生まれないしその理由もあると著者は述べているが、その答えはこの本では述べられていなかった。人類も「神への道(完全な個体)」を求めつつ進化し続けていくのかあ~~~。





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2014年7月5日土曜日

人間はどこへ向かうのか…


安部公房は大好きな作家で、若い時分からよく読んでいました。彼が亡くなって、未発表の短編集が出版され、即買いましたが、未だ読んでいません。もう彼の新作は出版されないと思うとさみしい…。

 

彼の本を何冊持っているのかと本棚を見てみると、11冊ありました。2冊は英訳されたものなので、勘定に入れない方が良いかな。残りの9冊で、一番最近読んだものは『砂の女』です。蟻地獄のような砂の家に閉じ込められて、世話をやく女をあてがわれた男が、脱出しようと試みるが、脱出できる最後の瞬間に外に出る勇気が湧かない、あるいは「閉じ込められた空間」に安らぎを覚えるという、「感動的な」物語でした。

 

と言うものの、情けないことに他の本の内容はあまり覚えていません。そこで、一番古い本からもう一度読み直すことにしました。昨日から『第四間氷期』を読み始めて、今朝読み終えました。この作品は、1958年に出筆されたもののようで、わたしは、1970年に文庫本になってから買ったらしいです。高校生の時に読んだみたいなの…。

 

ずいぶん昔に世に出た本ですが、現在の世界にとてもリンクしていることに驚きました。それは、今話題のAI(アーティフィシャル・インテリジェンス)や世界の温暖化のようなことです。そしてまた、今受けている英語のプライベートレッスンのクラスともリンクしました。

 



 

円城塔の『Self-Reference Engine』から始まって、『自由か、さもなくば幸福か? 二一世紀の<あり得べき社会>を問う』と続いた「AIは人間の知性を超えるのか」という問題です。さらに次回は先生がトピックを持ってくる番で、彼はBBCニュースの『Should we fear the robots of the future?』を選び、メールでリンク先を送って来ました。興味のある方は、こちら…

 


 

来週話しあいます。

 

MITが編集出版している長く続いている科学雑誌があるのですが、2011年に有名なSF作家達に依頼して、未来のテクノロジーとそれがどのようにわたしたちの生活に実現あるいは役立っていくかということを書いてもらいました。つまり、SF小説は我々が現実に手に入れる前に、新しいテクノロジーを小説の中で実現しているからです。予言ですか(?)。

 

つい最近読んだ新聞記事でも指摘されていましたが、2050年までにはAIは人間の知能を超えるということです。この雑誌の中でもそのようなことが指摘されている模様。

 

BBCの記事では、このように書かれています。

 

Meanwhile, some futurologists—notably the American Ray Kurzweil—are busy predicting that moment out in the 2050s when artificial intelligence might—they argue—at last outstrip its human counterpart, and then go on getting better.

 

または、

 

“When we have machines that are as intelligent—and then twice as intelligent as we are,” says Mr. Sawyer, “there is no reason why that relationship cannot be synergistic rather than antagonistic.”  He adds that the single biggest flaw with people being fearful of future clever computers or robots “is the idea that a superfast, super powerful intelligence that is not human will share human rapaciousness.”

 

 

しかし、わたしは例えAIあるいはロボットが人間以上の知能を持つ存在になっても恐れることはないと思っています。なぜなら、ロボットこそ人間の次の段階の進化だと思うからです。(もちろんそれを望む人々の)。人間は自然に無いものを作り出して進化してきた。そして、自然に自らの運命を握られていることに我慢できないようです。ヒトの「高貴な魂」は、肉体(自然)に囚われているのです。そこから逃げ出す道が、ロボットということ。究極の人工による人間のための「人間」です。

 

 

そして、話は元に戻って、このことが安部公房の『第四間氷期』とリンクしているのです。1958年にこの作品が書かれたなんて感動的!

 

先進国は人工知能を作り出した。もちろん日本も。で、それに何をさせたらいいのかわからない。予算を得るために何かをさせなければならない。そして、未来を予知させることにした。そこに、なぞの団体が絡んできます。彼らは胎児の段階で哺乳動物を処理し、水棲哺乳類を作り出しました。もちろん人間も。(しかし、日本の組織なので日本人だけ。興味あるわあ。)。そして、その未来の姿を見極めたくて、この人工知能に接触してくるの。

 

この本の題名通り、第四間氷期が終わるのです。世界は、水没します。これは、人工知能が予測した未来の世界ですが。そこで、人間は水棲人を受け入れられるのか。本からの引用です。

 

自然との闘いが、生物を進化させたことは確かです。―――しかし人類はついに自然を征服してしまった。ほんとの自然物を、野生から人工的な物へと改良してしまった。つまり進化を、偶発的な物から、意識的なものに変える力を獲得した訳です。―――次は人間自身が、野生から開放され、合理的に自己を改造すべきではないでしょうか。―――これで、闘いと進化の環が閉じる・・・もはや、奴隷としてではなく、主人として、ふたたび故郷である海に帰っていく時がきた・・・。

 

「だが、水棲人をそんなふうに認めることは、自分を否定することじゃないのか。地上の人間は、生きながら過去の遺物になってしまう。」

「耐えなけりゃなりませんよ。その断絶に耐えることが、未来の立場に立つことです・・・」

 

大部分の母親が、少なくとも一人は、水棲人の子供を持つようになったとき・・・水棲人に対する偏見が、本質をゆがめる恐れがなくなったときです。その頃はもう洪水の不安が現実のものになっていて、・・・・・・・水棲人を未来の担い手として認めるか、選ばなくてはならなくなっているはずだ・・・

 

 

たいへん長い引用になってしまいましたが、水棲人をロボットに置き換えれば・・・、納得できませんか。この本の締め括りはこんな感じです。

 

 

親子喧嘩で裁くのはいつも子供の方にきまっている・・・たぶん、意図の如何にかかわらず、つくった者が、つくり出された者に裁かれるというのが、現実の法則なのであろう・・・

 



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