2014年10月30日木曜日

『奇跡の大河』   J・G・バラード著


J.G.BALLARDの原題、THE DAY OF CREATIONを読みました。バラードはわたしの大好きな作家です。この本は、昭和63年に買ったようです。そうなんですが、つい先日読み終えました。この本も「老後の楽しみ」のために買っていた本だったと言うことです。フィリップ・K・ディックの本と同様に、目についた時にとりあえず買っておいた…、という塩梅。

 

彼の初期の作品は、シュールレアイスティックな作風で、主に短編小説を書いていました。そのシュールな内容は、その頃のはやりでした。SF小説に分類される物の、「現代小説」の風格がありました。そして、少々難解。しかし、少々、お話の方はわからなくとも、その奇妙な雰囲気は、十分に魅力的でした。

 

その後、彼は、長編小説を書きます。彼のテクノロジー長編三部作と言われる『クラッシュ』『コンクリート・アイランド』『ハイ-ライズ』は、内容は、かなりシュールであるものの、話の筋は簡明で理解可能です。



 




 

この『奇跡の大河』は、長編であるとともに、後者の流れをくむものと思われます。内容はとても奇妙だけれど、話の流れは、「冒険・探検」ものと言った感じです。舞台はアフリカ。サハラ砂漠の南の方と思います。ポール・ラ・ヌーヴェルと言う所です。名前の感じからも推測できるように、以前フランス領だった所。今は、いつもの如く、盟主国が去った後の政府とゲリラの内戦状態。主人公のマロリーは、WHOから派遣された医師ですが、なんやら胡散臭そうな人物。

 

彼は、干上がったコト湖を灌漑しようと努めています。そのため、フランス軍が置き去りにしていったトレーラーでコト湖を探索していた所、切り株に衝突し、トレーラーが地面に陥没します。そこで、あ~~~ら、不思議、そこから、水が噴き出してきました。それは、あれよあれよというまに、大河になって、サハラ砂漠に流れ込んで行きます。第三のナイルの登場です。

 

主要な登場人物は、政府軍の将軍、ゲリラの親玉、獣医であるローデシア人の取り残された未亡人、ゲリラでマロリーを射殺しようとした13歳の少女、そして日本のテレビ局にドキュメンタリーを売り込もうとしているサンガー教授(オーストラリアの血を引くたぶんイギリス人)、その科学顧問インド人のミスター・パル、日本人の女性カメラマン、ミス・マツオカです。これらの人物が、雑然と絡み合って物語が進んで行きます。

 

マロリーは、政府軍の将軍から強制退去を命じられていましたが、船を盗み、自らが作り出した(?)川に逃げ出します。彼の目的は、この大河を抹消すること。川の源まで辿り枯渇させようとの思惑です。「なぜか」とは、聞かないでください。彼のあやふやな妄想から来たものなのかな~~~。そして、彼を殺そうとした、13歳の少女と付かず離れずの生活。お互いに惹かれあっているのか、目的が同じなのか???

 

 

粗筋を書いたところで訳がわからないと思いますが、思うに、以前読んだ『コンクリート・アイランド』の登場人物のように、人が文明から逃避するうちに薄汚れて行き、人の尊厳も無くなっていく……、そしてそこがその人の棲みかとなってしまうということでは。現実と妄想の世界も混濁し、どちらがどちらかわからなくなっていく……。もうひとつ、「残忍な少女」というのも彼のキーワードではないかと思います。少女と大人の間の微妙な生物。そして、若さ故の残虐性。

 

解説で浅倉久志氏は、次のように述べています。

 

「さて、この新作は、60年代の名作、『沈んだ世界』や『結晶世界』のころに回帰したような作品である。サハラ砂漠のまんなかに突如として出現した第三のナイルという魅力的な設定に加えて、砂丘や、熱帯の密林や、陸揚げされた船や、軍事基地の廃墟など、あの懐かしいバラード風景がぞろぞろ現われるのもうれしい。現実なのか、それとも高熱にうかされた主人公の幻想か、区別のさだかでない事件が連続するが、語り口は克明な写実描写で一貫している。これぞ魔術的リアリズムのラテン・イギリス文学という感じ。」

 

実際、わたしもこれを読んで、リョサの『緑の家』を思い起こしました。しかし、魔術的リアリズムといえど、ラテン・アメリカの得も言われぬ「どろどろ性」とは違った洗練された「イギリスの魔術」のようなさらっとした趣きでした。

 







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2014年10月28日火曜日

香港問題から…


近頃、西欧民主主義、自由主義、合理主義の矛盾点が、いろいろなところに現われてきたように思う。誤解を恐れずに言えば、特に英語圏の国々(アメリカ・イギリスというアングロサクソン)が支配する世界での矛盾である。英語がグローバル社会の共通言語となって、英語圏の考え方(言語は文化であるから)が、当然の如くグローバルになってきた。

 

「イスラム国」もそのひとつと思う。民主主義、自由主義を御旗にしながら、イスラムの独裁者と手を組んだ欧米の矛盾が噴出した形だ。政治の問題とは関係なさそうだが「エボラ出血熱」のグローバルな広がりも、基となるアフリカの国々の欧米諸国に対する不信感が影響している側面もある。

 
 
 
 
 

そこで、今日、興味深い社説を読んだ。学生たちが中心街を占拠して一カ月になる香港の問題について述べられたもの。『米中対立か階級対立か』というタイトル。オバマ米大統領は、「香港市民の志を支持する」と声明を出したが、中国・香港政府の思惑は、米国と同じなのだという指摘だ。

 

香港の行政長官が20日に英米メディアに語った。

 

学生らの主張通り立候補制限を緩めれば、人口の半数を占める月収1800ドル未満の市民が選挙を支配するようになる。香港は財界が支配している。そして、財界が香港政府、中国共産党と結びついている。行政長官選挙の指名委員会も財界主導で、親中派の候補者しか選ばない。そうしないと低所得者の代表が立候補して勝ってしまう。……という、驚くべき率直さを表明したのであった。

 

「これは米国が求めているものではないでしょう。」、と言う事だ。つまり、これこそ共産主義だから。共産主義である中国は、実は、米国やその他の資本主義の国の如く「財界」を擁護しているのである。また反対に、民主主義、自由主義を押している米国は、中国と同様、財界を重要視している。

 

つまり、運動の背後には、「階級対立」がある。政権と財界の連合と低所得者との対立である。「民主主義」、「自由主義」はイギリス、フランスの市民革命から世界に広がった。が、市民革命とは、御存じの通り、実はブルジョア革命である。共和国の理念は、私有財産の保護である。世界では今まで、一度も「民衆の革命」と言うものは起っていな~~~い、と言う事なのよ。

 

中国共産党も、もとは貧困層の味方として、南京国民政府に立ち向かい、「言論の自由」や「政治犯釈放」を求めて戦っていたのにね。







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2014年10月22日水曜日

どうなる未来社会…、なんてね。


以前、『ゾミア』を読んだ時の感想でも書きましたように、「国家」という概念は近代のものです。そして、主に西洋の思想から来ていると思います。明治維新の時に、日本も「日本」という国家で日本がまとまることで、西洋列強の国々と互角に渡り合おうとしました。ゾミアは、そんな国家から意識的にドロップアウトした人々の「居場所」でした。今の世界は、そんな国家の国境線が隙間なく引かれ、もはや、「どこでもない場所」は世界地図には存在しなくなってきています。

 

今まで当たり前のように受け入れてきた国家の概念や民主主義、資本主義を、西欧近代の力の衰えとともにもう一度考え直してみるべき時だと思います。『謎の独立国家ソマリランド』の感想でも触れましたが、ソマリランドの国としての枠組みは、ソマリランドの議会に参加しているCLANによって、確定されます。つまり、ひとつひとつのCLANが支配している場所の実体が即「国家」ということです。先回UPした「イスラム国」も、彼らは西欧諸国が引いた国境線に異を唱えている訳ですしね~~~。

 



 

そこで、最近みた書評の中から少しばかり本の紹介を試みます。例の如く、書評を読んだだけで、「本自体」は読んでおりませんのでアシカラズ……。

 

 

『劣化国家』  ニーアル・ファーガソン著。

 

昨今の経済危機の状況を、歴史学者である著者が分析しています。問題の本質は西洋世界の「大いなる衰退」であると、西洋文明の発展を支える四つの基幹装置が壊れつつあると。

 

<民主主義>は、政府債務の膨張を通じ(国債なんかでしょうかね~)将来世代への負担の先送りを許している。

 

<資本主義>の下の複雑な金融規制は弱肉強食の経済を制御していない。

 

<法の支配>は「法律家の支配」になり下がり、自由な<市民社会>には衰えが目立つ。

 

 

『デモクラシーの生と死』 ジョン・キーン著

 

彼は政治学者です。西洋デモクラシーのドグマを退けています。デモクラシーを「非時間的」なものと考えること、あるいは、デモクラシーを19世紀の発明とすることなどです。デモクラシーは、抽象的概念としてあるのではなく、また、19世紀に突然考え出された概念でもない。すべてのことは、過去・現在・未来と脈々と繋がっていくものなのです。

 

集会デモクラシーの起源は、紀元前6世紀末のギリシャ・アテナイではなく、前2000年の古代ミケーネ文明、「デーモス(民衆)」が語源である。代表デモクラシーも英仏の市民革命から突然誕生したものではなく、12世紀のスペイン北部で誕生したコルテス(議会)に起源があります。つまり、イスラムが係わっていると言うことです。また、20世紀後半から始まった非政府組織による権力監視システムを取り入れたモニタリング・デモクラシーは、インドで起りました。デモクラシーに必要不可欠だと思われていた中産階級の存在や共通の文化で結束している民衆を欠いたところで発生したのです。

 

しかし、デモクラシーは、それを支えていたものが時代と適合しなくなった時に死にます。代表デモクラシーは、貨幣経済の拡大と軌を一にしていますが、資本主義が段々形を変え、代表デモクラシーの理念と乖離しつつある時、この帰結はどうなるでしょうか。

 

 

『人類五万年 文明の興亡――なぜ西洋が世界を支配しているのか』 イアン・モリス著

 

英国生まれ、米スタンフォード大学の歴史学教授です。本書は、氷河期が終わった紀元前一万四千年から現代に至るまで、エネルギー獲得量や都市化度合いが示す「釈迦発展の鼓動」を基に著者が独自に指数化した「社会発展指数」を駆使しながら、西洋と東洋の興隆と衰退を解明する……、と言うもののようです。

 

彼によれば、6世紀半ばから18世紀後半にかけて東洋が西洋をしのぎ、その後は西洋が圧倒したということ。それは、いずれも当時の政治上、経済上の地理的条件の違いが決め手だったと。21世紀には、東洋が西洋を再逆転するとみられるが、本当の関心は「私たちがどこに向かうのか」と言うこと。

 

書評の最後に書かれていることをそのまま引用します。

 

「私たちは、歴史における最大の断絶点」に近づきつつある。「新しい存在に進化する」のか、「夜来る」なのかは、「時代が必要とする思想」を手に入れられるかどうかにかかっている。

 

                            ★★★
 

 

国際政治学者の田中明彦氏は、「自由主義的な民主政治と市場経済が成熟し、国と国との相互依存が深まっていく。同時に、巨大企業やNGOのような国境を越えたネットワークが、中世ヨーロッパのハンザ同盟のように重要な存在になる。国と国がせめぎ合う「近代」から脱し、むしろ「中世」に似た世界に進みつつあるのです。」と述べていました。

 

わたしも人工的に作られた「国家」というものでなく、何か違ったものの結びつきで人間社会が出来上がればなあ、なんて。確か、『ヒトの変異』だったと思いますが、「人種の違いより、人と人の個人の差異の方が大きい。」ということを読みました。「実際、人種などというものは存在しないのだ。」とも。







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2014年10月19日日曜日

英語・プライベートレッスン


ちょっとあわただしい時を過ごしていました。プライベートレッスンも2カ月ほどお休みをしておりましたが、今週久しぶりにレッスンを受けます。わたしがテーマを持っていきます。それで、「イスラム国」にしようかと、今考えています。と言っても、そんなに政治的な問題ではなく、日本人の学生が、この地域のバトルに参戦しようとして、失敗、逮捕された…、ことについてです。

 

北大の学生と千葉県の男性が、今、事情聴取をされていますが、彼らにはなにも「大義」はなさそうです。ただ戦闘を経験したかったとか、自殺願望とか、自分探しの旅のよう。彼らは、出発前に露見し、渡航には至りませんでしたが、もう渡航して、現地で戦っている日本人がいるのではないか…とは、想像できる可能性です。イスラム国の兵士は新聞記事によりますと、3万人。その半分は国外から来た外国人兵士と言うこと。10月11日の新聞でも、実際、戦闘に加わり日本に戻ってきた男性の記事を見かけました。

 

東京都在住の元自衛官、男性、26歳が、シリア反政府組織の一員として、政府軍と戦ったと記者インタヴューに答えています。シリア反政府組織とイスラム国の軍隊は、実際には違う組織ですが、日本人がその地域で闘いに参加していたというのは事実です。彼は、「極限状態で戦いたい」と言う思いで(ドロップアウトが目的か)、ネットで検索して、現地情報が豊富だったシリアを選んだと言うこと。やはり、正義も大義も政治思想、宗教理念もありません。

 

「戦場にいるのは、敵でも味方でも、戦うことを選んだ人たち。それを殺すのがいいか悪いか、問うことに意味はない。」と言っています。

 

もうひとり紹介されています。2013年まで数回、休暇を利用して反体制派の自由シリア軍と行動を共にしたというトラック運転手、47歳。彼は戦闘員ではなく、トレーラーを運転して近所の人を運んだりしていたと言うことです。銃撃戦に巻き込まれ、無事にくぐり抜けると「自信」が湧いたと述べています。

 

「現地にいると恐怖感や現実感がマヒし、苦しみを和らげてくれる。現実逃避ができる。」と答えています。「シリアには自分の居場所があった。」とも。

 



 

彼らが、イスラム国の建国を宣言したのは、つい最近のことなので、まだ、「イスラム国とは何か」ということは、はっきりしていません。徐々にわかってきた事は、彼らが「オスマントルコ」を標榜していること。オスマントルコの領土だった所にイスラムの国を樹立することです。スペイン南部からアラブ・アフリカそしてインド、パキスタン、インドネシアまでです。考えてみればオスマン帝国の存在はそんなに以前の話ではありません。第一次世界大戦で滅亡・解体されました。その時のイギリス・フランスの密約がイスラムの地に長い怨嗟の歴史を生みだしました。

 

と言う事は、近代合理主義の西欧の歴史が世界を席巻しているのもそんなに長い期間ではなかったということです。200年から250年くらいでしょうか。ローマ帝国が終焉を迎えたように、今なにか歴史が動き出している……のか、と思うこの頃です。

 

また、彼らは近代「国家」にも疑問を呈しています。今まで当たり前のように受け入れてきた、西欧近代の概念ももう一度棚卸をして、新しい息吹を引き込む時なのかとも思います。






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2014年10月11日土曜日

閑話……リラックス・タイム

最近、プライベートなことで忙しくなりまして・・・、両親の介護問題です。ちょっと落ち着くまで本を読む暇もないので、今回は、「お茶を濁す」的フォトのUPです。




玄関の下駄箱の上に置いてあります。上海で買った「花瓶」とエジプトで購入した石と金属でできた鳥です。










マルタで買った孵化する恐竜の置物と卵型の石。そして、スプーンは、ケープタウンでロビンアイランドへのクルーズに参加した時に買ったもの。あのマンデラ大統領が閉じ込められていた島です。このスプーンはそこの囚人が実際に使っていたもののレプリカです。凶器とか脱走用の道具とならないように、角のない尖っていない「まあるい」形になっていると言っていました。










石と金属でできた鳥のクローズ・アップです。鳥がのっている溶岩が溶け出したような金属片は、ハンズのセールで買いました。

この鳥は、エジプトの路上マーケットで少年から買いました。どう見ても12,3歳と思うけど、す~~~ごい、達者なトークなの。地面にこの鳥を叩き続けながら、「どうだい、こんなに丈夫だよ!」と言いました。







それから、エジプトの写真を少々・・・、


 













以上です。





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2014年10月5日日曜日

『THE SISTERS』---ジェイムス・ジョイス


前回ご紹介したジェームス・ジョイス著『ダブリン市民』の一編目の作品です。読み終えましたが、筋は単純でどこがどのように面白いのかが、イマイチ……、というところです。

 

内容は、近所に住む神父さんが病死し、そのまわりの住民の神父さんへの「思い」でしょうか。そのことを神父さんと親しかった少年が、一人称で語ります。その少年は、おじさんとおばさんの家で育てられていて、貧しい暮らしにむき。その神父さんとは友達。というか、勉強を教えてくれる先生のようでもあります。少年は彼のことをとても好きだったようで、尊敬もし彼の偉業を称えますが、神父さんが亡くなって、「なにか自由になったような気もする」という感想ももらします。

 

夕食時におじさんの家を訪れたMr. Cotterは、神父と少年の関係について揶揄し、神父に対してoffensive。少年はそのことに気を悪くし、

 

I crammed my mouth with stirabout(夕食に出たオートミールのようなもの) for fear I might give utterance to my anger.  Tiresome old red-nosed imbecile! と。

 

 

次の日の夕刻、日が沈んでから、少年のおばさんは少年を連れて、神父さんの家にお通夜へ。そこに、神父さんのふたりの妹がいると言う訳――THE SISTERSです。シスターズは、修道女のことかと読む前は思っていましたが、ほんとうの妹のようです。このお通夜は、おばさんとSISTERSの会話で進んで行きます。少年は、彼女たちの「おとなの会話」を所作無げに聞いている様子。

 

「おとなの会話」は、おばさんのお悔やみの言葉とシスターズの神父がどんなに良い人だったか、ということ。そして、神父の最近の様子などに至ります。そして、長い沈黙の後、妹の一人、Elizaが、言います。

 

---It was that chalice he broke……..That was the beginning of it.  Of course, they say it was all right, that it contained nothing, I mean.  But still….They say it was the boy’s fault.  But poor James(神父さん) was so nervous, God be merciful to him!

 

なんやら、彼の死は、杯が壊れたことに関係あるみたいなんです。みんなは、それは彼のせいではなく、ミサのサービスをしたBOYが割ったんだと言っています。彼に責任はないと。しかし、その後、神父はふさぎ込みがちになり、結局、彼はチャペルの彼の告解室に坐って亡くなっているが見つけられました。

 

この最後の…、彼が亡くなっている様子の表現の仕方に「どういう意味が」含まれているのだろうかと、わたしは思案している訳です。と言うのは、それまでは、何事もないような日常が描かれていたのに、神父さんが亡くなった話だとは言え、突然「事件」が起ったような感覚です。

 
 
 
 

 

そこで、この本(Dubliners)のはじめにあるIntroductionを読む覚悟をしました。なぜならそれは、40ページくらいあるから。

 

それに依りますと、ジョイスはこの作品集を1905年に書き上げましたが(20歳代前半)、出版されたのは、1914年。それは何故かと言うと、

 

His printer too was fearful that Joyce’s realism about sexual matters would offend contemporary taste and lay both printer and publisher open to legal penalty.

 

そして、次の出版の機会にはこのように書かれています。

 

This time the book got as far as the print stage, only for the complete edition to be destroyed at the very last moment as, once again, a printer and publisher took fright, reckoning now with the possibility of libel actions on account of its many references to living persons.  Finally in 1914 Richards took his courage in his hands and issued the book without suffering any of the dire consequences he had earlier envisaged.

 

ジェームス・ジョイスは、イプセンに心酔していたらしく、そのリアリズムを継承しました。このイントロダクションには、何回も彼のリアリズムに言及していますので、キーポイントは、この「リアリズム」のようです。

 

 

だから…、そんなことです。(投げやり……)。

 

 





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