2016年12月31日土曜日

ロシア

最近、この2~3か月と思いますが、ロシアからのアクセス数が異常に多くて。。。

ロシアの人が、わたしのUPなど読むわけないジャンと思いつつ・・・。

これは何かの陰謀なのかと。。。

この以前は、アメリカからのアクセスが異常だった・・・。

アメリカやロシアは、全世界の人がSNSでUPするものをチェック保存しても、それ以上に有り余る保存するスペースを持っていますから。このブログにUPして、すぐ、6個くらいのVISITがあると、なんでやねん・・・、と思っていました。

それが今日、ロシアからのアクセスは「ゼロ」に。

無価値・無益なブログと認識されたんでしょうかねェ。。。


メデタシ・・・、と思いつつ、寂しさも有り、大晦日。


オソマツ。。。





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2016年12月30日金曜日

超分子化学


こんな研究分野があるとは知りませんでしたが、「新しい分子をデザインする化学」だそうです。岐阜大学工学部准教授池田将さんの記事を見ました。彼は、「自分で考えて自分で形を変える分子を作りたい。」と、化学合成で人工的に作る人工細胞の作成に励んでいます。

 

2014年、病気になると体内で増える物質を認識して、溶けるゲルを開発しました。水をゲル状に固める分子を製作したのです。水に入れて加熱すると、分子の一つ一つがブロックのように積み重なり、ナノサイズの繊維状の構造を取ります。水に対して1%だけその分子を入れると、繊維が網の目状に出来、水がゲル状に固まります。

 

このゲルに薬を入れておけば、血糖や尿酸値などに反応してゲルが溶けた場合、薬が放出されて治療を始めることになります。中に入れる薬に合わせて、何に反応するとゲルが壊れるかという設計をする訳です。

 

今年は、低酸素状態を感知して折りたたまれる分子を開発し、今後も、「病気の診断や治療に役立つ分子を開発したい。」とか。

 
 
 

 

このような科学の発展に水を差すようなことを言いたい訳ではありません。もちろん、いろいろなことが発展してきたおかげで、我々人類の暮しも進化し、寿命も延びて、人間が地球上を埋め尽くすようになってきた訳でありますから。

 

しかし、あまりにも「自然を弄くり回している」という感は拭えません。自然界に無い物を次々に作り出しています。遺伝子組み換え食品や遺伝子操作した動物、サイボーグ化させた昆虫…等など。

 

ナノサイズというのもそうです。人間の肌は、その隙間以上に大きな物質を通さないように出来ています。有害物質を通さないためということもあるのでしょう。しかし、ナノサイズにすることによって肌から吸収できるようにした化粧品などもできました。何か異常事態が起きた時はどうするつもりでしょうか。

 

また、極小のスクラブというものもあります。洗顔クリームの中に入れて、肌の角質化を防ぐとか…。そういう極小の物質が、下水から川へ海へ流れ込みます。それを小さな魚達が体内に蓄積します。それを大きな魚が食べます。つまり、蓄積される量がだんだん大きくなるということ。そして、そんな魚を人間が食べます。その量はまだまだ人間に害を与えるほどではないと、WHO(?)、どの機関かは知りませんが、発表しています。

 

まあ、人間が自然体系を破壊して、いつの日にかしっぺ返しを受けることは間違いありませんが、見るところ、人類自体がその自然体系から逸脱しようと試みているのかも。そんなことを考えた2016年でありました。







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2016年12月27日火曜日

カタカナ語


先日新聞の投書欄を読んでいたら、「最近のカタカナ語の氾濫は目に余る」と言ったような内容のものがありました。まあ、昔から言い古された事とは思いますが、その投書の中で「リスペクト」が例に上がっていたので、ちょっと考えてしまいました。

 

基本的にわたしも日本語にある言葉を英語(たいていの場合、最近は借りてくるのは英語なので)に置き換えてカタカナで表記するのには反対です。せっかく明治初期の日本人の方々が、外来語を日本語に翻訳してくれて、日本語として定着しているのに、またそれを英語に戻すことはないじゃないかと。

 

しかしこのコンピュータ時代、コンピュータに係わる言葉は、英語から来ているので、それをすべて日本語に直すのは至難の業でしょう。中国でも以前は外来語をすべて漢字に直していましたが、近年ではそのままアルファベット表記しています。上海に住んでいた時に新聞の所々にアルファベットが点在しているのを見ました。その点、日本にはカタカナがあって幸せと言えるでしょう。

 

話が逸れましたが、問題のカタカナ語は日本語で表現できるのに外来語を当てているということでしょう。しかしこのグローバル時代、文化のグローバル時代ですが、いろいろな情報が入って来るなか、日本語では表わされないニュアンスを持った言葉もあります。反対に、日本の文化が海外に流れる時、英語やその他の言語に変える事が出来ない言葉は、日本語のまま使われます。日本では、マスコミが日本語が世界語になったと大はしゃぎですが。

 

ですから、日本になかった感情、あるいはあったが日本語で表現できなかった感情をカタカナ語で表現できるようになることは、良い事だと感じます。英会話の先生は「なつかしい」と言う言葉を「英語にはない言葉」と言っています。そんな感情はあるけど表現することが出来なかったと。

 
 
 
 
 

そこで「リスペクト」です。リスペクトはもちろん日本語では「尊敬する」あるいは「尊敬」でしょう。しかし、わたしには「リスペクト」と「尊敬」は少々意味が違うと思われます。たぶん「尊敬」も大昔に中国から来た漢文では。やまと言葉では何と言うのでしょうか。「敬う」でしょうか。

 

つまり、漢文から来た日本語は、「堅苦しい」ということ。上流階級や高等教育を受けた人達が使用していたからでしょう。または、意識的に堅苦しく表現していたのか。ですから、庶民には、そんな堅苦しくなくまた軽い意味の「尊敬」が必要です。それが「リスペクト」では。庶民はなんでもかんでもリスペクトしちゃいますからね。

 

日本語の中には、そんな言葉がまだまだたくさんあると思います。なにしろ世界で一番読書家なんですから、本の中の言葉がそのまま日常会話に使われているところがあるのかも。世界は、グローバル化と共に文化の平板化均一化が進んでいます。そんな軽~~~い世の中になっていくのです。軽~~~い言葉も必要なのです。と思います。








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2016年12月22日木曜日

鉄腕アトムの国だもの


『脳波を無線送信―――義手やPC操作』という記事を読みました。大阪大学などの研究グループが世界に先駆け臨床実験をするそうです。

 

全身の筋肉が動かせなくなる難病患者の頭の中に電極を埋め込み、脳波を直接受信し無線でパソコンや義手に送信し操作するのだそうです。以前は、頭皮に貼りつけた計測器で脳波を読みとっていたのですが、今回は頭を開いて直径1mmほどの電極を100個くらい直接脳の表面に貼り付けます。頭蓋骨に数センチ四方ほどの穴をあけ、そこに無線で体外に信号を送る装置を埋め込みます。装置は体外から充電できるようです。ペースメーカーより進歩しましたね。異物を体内に入れるリスクはありますが、ケーブルで繋ぐより感染症の危険が少ないとか。

 
 
 
 
 

もちろんALSの患者さん達にとっては朗報と言えます。が、以前にUPしたように「人間はどこに向かっているのだろうか」という疑問を禁じ得ません。人間の身体のいろいろな部分をiPS細胞で補強したり機械に置き換えたりして、人はどんどんサイボーグ化していきます。『銀河鉄道999』で少年鉄郎が機械の身体を求めて旅するように、人類は自らを機械化し、永遠の命を手に入れようとしているのでしょうか。

 

日本が世界に先駆けてこのような研究を進めて行く訳のひとつは、たいていの日本人は「オタク」であるという事実があるように思います。マニアックな人々が多過ぎる。また、ヒト以外の物に「魂」を感じるという文化もあります。文化と言うか宗教的(?)か。近代文明を持つ国が、未だにアニミズムを信仰している国は珍しいとか。「鉄腕アトム」を読んで育った我々は、機械にも情緒を求めてしまうのかな。

 

とにかく、フィリップ・K・ディックの『火星のタイム・スリップ』の自閉症の少年の哀れな末路を思い出してしまいした。








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2016年12月13日火曜日

『21世紀の豊かさ』


新聞の書評欄で見ました。興味を持った本を読むことなくUPするので、「書評の書評か?」と、自分で突っ込みを入れております。最近のトランプ氏現象やイギリスのEU離脱、ヨーロッパの保守右翼台頭など…、世界の状況は変わりつつあります。そこで、これからの世界はどのようになって行くのが、あるいはどのようになるのが人類の幸福なのかと。

 

社会民主主義というのがキーワードのようです。

 

「20世紀の社会民主主義は、民主主義と資本主義の洗練化に貢献し、市場と国家の連携を通じて経済的かつ社会的な進歩の理想を普及するまでに至った。」

 

しかし、今、その「進歩」は限界を迎えているようで、経済のグローバル化に伴い社会民主主義は新自由主義に駆逐されつつあると。そこで、ラテンアメリカ、ヨーロッパ、日本の研究者たちが、経済の成長の限界を迎えた今、社会民主主義の再活性化を模索して書いた本が「コレ」と言うことです。

 

日本でも模索されつつある「里山資本主義」とか、中央集権からの地方の活性化=コモン(共)の復活です。自然と共生しつつ、資本主義経済の枠からの脱出です。なんでも金で解決しないで、人の労働力を共有することによって(つまり、お互いに助け合って暮らして行きましょうよということ。)、生活を廻して行きます。わたしには散髪の技術がありますから、あなたは大工仕事をしてください…、なんて。それはそれで、ちょっとシンドイですが。そんな、メンドクサイ人間関係から解放されるために、お金でけりをつけて来たんですから。

 

もちろんわたしは社会民主主義に一票入れます。が、同時に自己改革も迫られるなあ…、と。

 



 

でも、今回のアメリカ大統領選では、奇妙なねじれ現象が起きていると思っちゃいますが。つまり、社会民主主義を押している民主党クリントン氏が負け、本来新自由主義を押す共和党が「新自由主義に反対する」トランプ氏を立てて勝者になったということ。

 

トランプ氏を押したのは、中産階級の労働者です。経済のグローバル化に伴い新自由主義が台頭し、能力あるものが勝者になるのだというスローガンのもと、貧富の格差が広がりました。資本主義社会は、中産階級で保たれているのです。(私見では、)中産階級が資本主義の矛盾を隠蔽していますから。中産階級同士で喰い合っているから、アッパー・クラスとローアー・クラスの存在が隠されているのです。そこで、アッパー・クラスのトランプ氏が労働者の為に立ちあがるとは、オモシロイ。

 

わたしは、これは現代の「市民革命」だなあと思います。大衆の勝利です。市民革命はブルジョア革命であって、決してプロレタリアートの革命ではありません。またまた、無産者階級は置いてきぼりにされて、世の中は進んでいくんだなあ…、と。







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2016年12月6日火曜日

IS HE LIVING OR IS HE DEAD ?


MARK TWAINの短編小説の題名です。『THE COMPLETE SHORT STORIES OF MARK TWAIN』の中の一編です。MARK TWAINの作品は、大好きで読んでいる訳ではありません。英語の勉強の一環として読んでいます。が、他の作品を読むよりは興味を持って読むことは出来ます。

 

以前にも書いたと思いますが、MARK TWAINの生き方に興味があるのです。MARK TWAINは、一般的には子どもの読み物とか「オモシロ話」として受け取られていそうです。実際、童話や子供向けの「ほら話」などによく取り上げられていますから。『トムソーヤの冒険』や『ハックルベリー・フィンの冒険』などから、わたしの周りの人も、「ああ、あの童話を書いている作家。」という認識です。

 

しかし彼の作品は、もっと皮肉っぽくシニカルです。話が単純なのでそんな風には受け取られません。彼の晩年の作品は、そんな面が強く表れてきています。実際、人間嫌いになって、ひとり静かに死んでいったようです。

 

EUが公用語を決める時に、英語が第一公用語になりました。その時、英国のブレア首相が、英語を徐々にわかりやすく直していく…、と演説したという話が、まことしやかにネット上に蔓延しました。例えば、「カと発音するCは、Kに変える」というような。CANDYならKANDYのように。また、thの発音はなくすとか、完了形をなくすとか。

 

わたしは、うまくできているなあ…と、ほんとにそうだ、そうするべきだ、と。でも、その後、そのネットの話のネタがMARK TWAINの原稿によっていると知りました。その時から、MARK TWAINがホントはどんな人なのだろうかと興味を持ったのです。

 
 
 

 

THE COMPLETE SHORT STORIES OF MARK TWAIN』の作品を全て読んだ訳ではありませんが、お話は単純で単語も難しくはないので、英語の勉強には向いていると思います。が、単語が古いということはあります。そして、簡単な物語は、読んでいてフンフンと読み流してしまいそうですが。まるで、落語のようにオチのある話もあります。

 

もうひとつ彼の作品が単純と思われるのは、時代のせいではないでしょうか。彼の生きた時代は1835年から1910年。彼が著術をしていた時は、まだ19世紀末の洗礼を受けていなかったのです。まだまだ資本主義社会も成熟しておらず、人々の苦悩も複雑化していない頃、と思うのですが。

 

IS HE LIVING OR IS HE DEAD ?』は、貧乏な才能ある若い画家達が自分たちの作品が売れないのは、世間の人が死んだ画家の作品を珍重するからだと考え、仲間の画家のひとりの死亡をでっちあげて、その人の作品を売り出すというもの。その画家の名前がなんと「ミレー」です。フランスの有名な画家。このお話はフランスが舞台で、昔の小説にありがちな高級リゾートホテルの客の会話という態を取っています。

 

聞き役の紳士と語り役の紳士。その語り役の紳士が、画家の仲間の一人です。これは今まで誰にも言わず、秘密にしてきたが、もう話しても良いだろうと偶然同じテーブルに坐った紳士に語り始めます。彼らは、ひとりの仲間の死をでっちあげて、彼の描いた作品の値を吊りあげて来た。世間の人々は、作品の本当の価値ではなく、ちがう要素で作品を売買するということ。そして、彼らは大金持ちになり、こんな高級ホテルにも宿泊できるようになったのだというお話。オチは、「さっき、目の前を通った紳士がミレーなのですよ。」というもの。

 

MARK TWAINの活躍した時代は、まだ現代の苦悩を知らなかった。ダダイズムも不条理演劇もシュールリアリスムもまだなかった。これらのムーヴメントが大衆の愚かさを揶揄したのでした。しかし、大衆の力は強い。そんな揶揄など吹き飛ばしてしまいました。だから芸術などもう存在しない。あるのは、コマーシャリズムだけです。大衆に受け入れられないものなどは、作品としての価値はないのです。

 

つまり、MARK TWAINは、そんな世の中を先取りしていたのですね。









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