2018年11月30日金曜日

18か国語に翻訳決定とあったので、買ってはみたものの……



『コンビニ人間』を読んで。





芥川賞受賞作です。文庫になったと新聞にあったので買ってみました。読み終えたのは、少し前でしたが、感想文を書く気になれずにいました。感動しなかったからです。しかし、色々なことを考える契機にはなりました。



そもそも芥川賞受賞作は、あまり読みません。二、三購入した本もありますが、結局は読めず仕舞いです。何故か。読み出しから辛気臭いからです。この『コンビニ人間』は、軽いノリで調子よく最後までスラスラと読めました。



では、なぜ感動しなかったのでしょう。つい最近、芥川龍之介選の『英米怪異・幻想譚』というアンソロジーを買いました。この本を読みつつ、「わたしはこういう本がつくづく好きなんだなあ。」と実感しました。ですから感動しなかったのは、単なる好みの問題でしょう。



「こういう本」とは、どういう本でしょう。一言で言うと「不条理」ですかね。不条理が不条理のまま終わるというモヤモヤ感です。











『コンビニ人間』の設定は、一見不条理です。主人公の36歳独身女性は、人とは違う感性を持っているらしく、人との社会生活がスムースに行かず、会社に就職できないままコンビニでのアルバイトで暮らしています。また、準主役と言った体の白羽さんも社会に馴染めません。この二人が出会って、ひと騒動おきて、その結果収まるところに収まるというお話。



この「不思議人間」の二人ですが、何か設定が単純すぎます。二人の性格がカリカチュアライズされすぎで、漫画の主人公の様。二人の周りにいる「一般の」人々の方が、複雑な生活・複雑な人生を送っているように思われます。



主人公が笑うということがどういうことかがわからず笑う振りをしながら職場に馴染んでいるのを、普通にコンビニでアルバイトをしている登場人物が、「あなたは笑ったことがないね。」と喝破します。その他の人も然り。しかしながら、コンビニの内部のディテールやコンビニの仕事のディテールは圧巻です。まるで「コンビニ道」なるものを書きたかっただけではないのかと勘ぐってしまいます。



少し前、『タンゴ・インザ・ダーク』という本を買いました。こちらは「太宰治賞受賞作」で、何か物々しい宣伝文句でした。「ゆがみとずれを抱えた夫婦の、奇妙な物語―――地下室に閉じこもる妻、インポテンツの夫、暗闇のセッション」とか。読み終えることはできましたが、こちらも人物像が単純でした。しかし、暗闇でのタンゴのセッションの描写や暗闇での二人のセッションの描写は圧巻。やはり、この地下室の暗闇の話だけで終って置いたらいいのにと。



『コンビニ人間』で、主人公は、白羽さんと会って同棲することで、コンビニのアルバイトを辞めて、会社員としての道を否応なく選ばなければいけなくなるのですが、その面接の日に入ったコンビニで「自分にはコンビニしかない(コンビニ=自分)。」との啓示を取り戻します。それがこの物語のエンドです。



中村文則さんが解説文を寄せています。彼はこの最後を「ベビーエンド」と呼びます。最後に赤ん坊が生まれることで終る物語。終わりを始まりにすることが出来る。主人公にとってコンビニは赤ん坊なのだと。



これで主人公は、自分自身の生きる道を見つけてハッピーになったのでしょうか。コンビニで生きることを肯定したのであれば、彼女は初めからハッピーだったのではないか。これで、自分がハッピーであると気付いたのだとしたら、36歳はあまりにも遅すぎると思うのですけど。







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2018年11月16日金曜日

歴史が苦手なわたしでも読めました。




『日本の歴史をよみなおす』 網野 善彦著





題名通り日本の歴史の本です。しかし、わたしが興味を抱く本はどうもいつも「異端」のようで、この著者も学界のなかでは異端児です。彼は「日本は農業国」ではないと言っています。この「日本=農業立国」という誤解から、日本の歴史も間違って解釈されている部分があるとの指摘です。



例えば「百姓」。現在、「百姓」は日本では農民を意味します。ですから、歴史的な資料の中で「水呑百姓」と書かれていると、田畑を所有していない貧しい農民と解釈されてしまいますが、彼によりますと、「百姓」は農業に従事していない(漁業とか林業または貿易業)お金持ちの事も多々あるといいます。しかし、歴史学界の主流は「農民=百姓」であるので、まだまだ、彼の「日本は農業国ではなかった」との主張は受け入れられないということでした。



「百姓が農民ではない」という説は、わたしには受け入れやすい物です。それは、もともと百姓というのは、百の姓(私の解釈)で一般の人を指していると思うからです。上海にいた時、いろいろなところに百姓という文字が見受けられるので、不思議に思い、友達に聞いてみたことがあります。彼女は、「普通の人、平民とか言う意味だよ」と教えてくれました。中国での意味はそのようです。この本でも、中国人ならすぐわかるが、日本では違う意味が定着しているので、なかなかわかりにくいこともあると指摘しています。



こう考えて歴史的資料を精査すると、日本は農業国ではなく、いろいろ多彩な職業で成り立っていたと彼は述べています。最初に中国(唐)からの「律令制」という日本に馴染みのない制度を受け入れたことで矛盾が生じてきました。この制度は、すべての日本人(その頃のどこまでの人を言うのかはわかりませんが6歳以上という事)に土地を与え、それに基づき税制が敷かれました。



税金は基本的に「米」で納めるものですが、資料によると、「絹」とか「鉄」、「馬」、「塩」で納められている例も多々あります。つまりこれは、農業以外の産業も相当進んでいたという証拠になります。



このように律令制が敷かれた。しかし、本来、農地の少ない日本では、農業では暮らしていけない。そして、律令制が乱れてくる。するとまた、時の権力者が税制を立て直すべく、「農業中心に」改革を進める。その繰り返しです。江戸時代然り、明治維新然り。とにかく、日本は「農業国」でなければいけないようです。













わたしが感じた事がふたつあります。



1.15世紀あたりが、人類の転換期であること。



この本によりますと「13世紀以前の問題は常識では及びもつかない」そうです。つまり、13世紀以前は、古代に近く、精神的にかなり今とは異質な世界だったのではということ。例えば、盗みや人殺しは、許容はされていないものの、日常的に起るものだったとか、幽霊とか妖怪が普通に信じられていたとか。



モノとモノの交換については、このように書かれています。物と物を交換するというのは、贈り物でしかあり得なかった。商業的な意味を持たせてはいけないという事です。贈り物ではなく商品として交換する場合は、その物を日常の世界から切り離し、「無縁」のものとしなければならない。つまり、「市場」。市場は神の世界と人間の世界、聖なる場所と俗界の境に設定されるのです。モノを世俗の縁から切り離し、商品としての交換を可能にする場所です。



従って、商品の交換に携わる「人」自身も「世俗の人」であってはならない。12~13世紀の商工業者や金融業者は神仏天皇の直属民と言う地位を持っていました。



世界的に見ても、15世紀頃が近代精神の幕開けです。私が言いたいことは、学校の授業でこのような基本的な事柄を学べていたら・・・ということ。古代・中世の人の「人間観」がわかっていたら、歴史の理解がもっとスムースにできただろうと思います。また、興味も、より湧いただろうと感じます。





2.日本の文化の二面性について



日本の文化は「公」と「私」で相当の違いがあると思います。それは何故でしょうか。この本を読んで、唐から無理やり「律令制」がもたらされたことに関係しているように感じました。遣唐使によってもたらされた中国の文化です。天皇家の食事のメニューも唐の皇帝と同じものが供されたようです。他の本には、唐の衰退で影響力がなくなると、もとの「日本食」に戻ったとありました。よって、「無理に」と思った次第です。



この頃から、「『公』は中国式に」ということになったのでは。公文書は漢文で書かれていましたし、また、漢文は貴族のたしなみでありました。後に武士のたしなみにも。民間はひらがな、はなし言葉です。ここで、文化は「公」と「私」に分化されます。民間の文化が本来の日本の文化なのではと思ってしまいます。江戸時代に漸く庶民の生活が潤ってきました。その時が、日本文化の爆発の時です。



とにかく、「おおやけのもの」は難しい。わざと難しくしているのではないかと勘ぐってしまうくらいです。言文一致運動もようやく明治に入ってから起こりました。しかし、明治維新では、「中国」が「西欧」に変化しただけでした。



「日本独自の文化とは何か。」という定義も難しいですが、やっとわたしたちは「日本文化」を見直し始めたのではと思うこの頃です。












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