2020年3月22日日曜日

コマーシャルから。。。







ポテトチップスのコマーシャルで、若い女性が、カメラ目線で、指をナメナメ、美味しいと、いう感じは、どうなんでしょうねえ?

なんか、男性目線を感じるは。

丸亀製麵のような、潔い女性を見せて欲しい。

キャットフードフードのコマーシャルで、男性がプロポーズをしているのに、女性が猫の餌を与える方を優先するコマーシャルでも、なにか、女性が、猫を愛おしいと思う視点と、男性が女性を愛おしいとする目線が同じで、気分が悪い。



わたしも読書しなければねぇ~






先日、別役実さんがお亡くなりになりました。訃報が新聞の一面に掲載されたのは流石です。

別役実さんは、わたしの好きな作家の一人です。青春の思い出でもあります。新聞に訃報が載ったあと、2~3の追悼コメントが出ました。それらを読みながら、「そうだ、そうだ。」と、わたしも一緒に追悼いたしました。

彼の本を5~6冊持っています。そのひとつに『数字で書かれた物語』があります。本屋さんで、ブラブラと本を眺めておりましたところ、数学の専門書コーナーで見つけました。

わたしは、内心、店員さんが間違えたんだあ~、と思いました。後に別役実さんが、「わたしが本屋さんに頼んでいろいろな場所に自著を置いてもらっているのです。」と書いておられるのを見ました。

「思わぬところに思わぬものが置いてある」という日常性を壊されたショックでしょうか?そう言えば、『虫づくし』という本も文学書ではない棚に置いてありましたねえ。






そして、わたしってこの頃本を全くと言っていいほど読んでないなあ~と、自覚したわけです。理由は、関心が囲碁の方へ向いてしまうから。読書から得られる「豊潤な世界」を横目に―――。

両方を得ることは出来ないものでしょうか。。。





2020年3月15日日曜日

『存在と時間』…ロマンを感じるわ~~~、









ハイデッガーの「存在と時間」を文化教室で学んでいると以前書きました。





わたしが学んだ限りにおいては、ハイデッガーのキーワードは「道具」と「配慮」らしい。「道具」と日本語で言うというと紛らわしいが、存在者(人ではなく物)・・・人を取り巻くものを道具と言っているようだ。現存在(人)が道具の存在を問う事により、現存在の存在を浮かび上がらせる。それが「配慮」ということ。



例えば、インクで書かれた三角形を見る時、我々はインクを見はしない。書かれた三角形を見る。だから、道具としてのインクが現存在によって配慮されることにより、三角形が浮かび上がり、またそのことにより、それを見ている現存在の存在も浮かび上がる。



もちろん、道具を見るということは単純に見るという行為ではなく、現象学的に見るという事なのだが、単純なわたしは先生のこの説明でいつも「道具はすべて完全に理解しつくされているのか」と思ってしまう。「理解できない道具は存在しないという事なのか」と。



つまり、現象学的に見ると、道具はそれ一つでは存在しない。一つの道具が違う道具との関連で解釈され、またその違う道具もまた違う道具との関連で解釈される。



これは永遠に起こりうる事で、そして、それが、世界が解釈されるという事。しかしまた、道具一つ一つはその関連によって小さいところから大きいところへと順次解釈されるのではなく、始めからひと塊として存在しているのであり、単純に一個体ずつ存在している訳ではない。



またここで、人間の現存在がその一つ一つの有用性を配慮することによって、道具・世界の存在が浮き彫りにされているということだ。



ここでまた、単純なわたしは考える。道具はその有用性によって世界と繋がっている、または世界に存在している。ならば、道具の有用性を間違える時、その存在性はどうなるのか。



例えば、インクが机の上にある。インクは机に置かれるという事で両者は繋がっている。また、その机は部屋にある。机と部屋はつながる。また部屋はどこかの建物の中にあらねばならない。部屋とビルディングの関連性。



そしてビルディングはどこかに建っている。永久に続きそうなこの関連性の中で、一カ所間違えたとしたらどうなるのか。



例えば、どこかの社会では机は部屋に置くものでなく海辺に置くものであったのなら。我々は、この一つの間違いで、まったく別の違った世界に導かれるのか。あるいは、インクは書くものでなく、花に与えるものであると誰かが配慮して、皆がその方向に進んだら。我々はまた別の世界を作り上げてしまうのか。



わたしの考えは、きっとハイデッガーには関係ないところに存在しているのだろう。たぶん、SFの世界。



先生に質問していいものかと・・・思うところである。