2019年12月31日火曜日

昔の小説や映画が居心地よくなってきた、今日この頃です。







『小栗虫太郎全集』





最近人生の整理をした方がよいかと、本の整理を始めた。そして小栗虫太郎の本を手に取ってみたところだ。彼の本としては『人外魔境』と『日本探偵小説全集(6)小栗虫太郎集』の二冊を持っている。あとは復刻版『新青年』の中に掲載されている作品のみ。



若い頃、大正・昭和時代の日本の探偵小説、冒険小説にはまって、谷譲次や夢野久作、久生十蘭そして小栗虫太郎等を読み漁っていた。山田風太郎の「明治かげろう車」の類のものも読んだが、彼の場合は小栗虫太郎や夢野久作などとはちょっと違うジャンルと思う。



久しぶりに彼の本を手に取ってみて、とても驚いた。大正、昭和初期の話なので当然と言えば当然だと思うが、此処かしこに差別用語が散りばめられていると言うこと。つまり、その頃は差別用語と思われるものが「差別用語」ではなく単なる日常の言葉だったのかと思われるのだ。



もちろん、小説に差別用語を使うことに反対はしない。ずいぶん前の事であるが、筒井康隆さんの作品が、その中に差別用語が入っているという理由で、出版が差し止められた。彼はその言葉を使わなければ彼の言いたい事を表現しえないと、法廷まで行って戦ったが、結局負けてしまった。そして自分の書きたいように書けない状況で、小説は書けないとして、筆を折った。(今はまた書き始めているが)。



わたしも彼の意見に賛成である。読者が著述の意図を理解すればそれが差別用語であろうとなかろうと問題はないと思う。それほど「強い感情」があるということを表現しえるのはその「差別用語」を使うことのみであるのなら致し方ない事である。









もうひとつ驚いたのは、小栗虫太郎の博識振りである。わたしの読んだ「完全犯罪」の初出は昭和八年・「新青年」である。その時すでに、彼は「共感覚概念」を知っていたのだ。



 「音を聴いて色感を催すと云う、変態心理現象があってね」



 「ウンそうなんだ。脳髄の中の一つの中枢に受けた刺激が、他の中枢に滲みこんで行くからだよ」



等と表わされている。そして、この概念が殺人者を露見するヒントのひとつとして利用されているのだ。



今でも、この「共感覚」は一般的な語彙ではないと思うので、昭和の始めをや、と。それともその頃の教養ある人々には常識的なことだったのであろうか。第二次世界大戦でそれまでに日本人が培ってきたモダンな思想や教養が、すべて崩壊してしまったのであろうかとすら邪推してしまう。





とにかく本の整理をしてきて、まだ読み切れていない本や読んでいてもその内容を全然理解していなかったと感じられる本がワンサカあるなと深く反省した次第である。



2019年12月22日日曜日

己の意見を述べるには、先ず、「敵」の意見を知らなくてはね!









文化センターでハイデッガーの『存在と時間』の講座を受けていました。半年間で十回のコース。しかし、ハイデッガーが、『存在と時間』で何を言いたいのかと考察する熱意がいまひとつ起こりませんでした。



その理由のひとつは、講師がハイデッガーの哲学に心酔していない事でした。名古屋大学の哲学の教授ですが、彼はハイデッガーに影響を与えたフッサールの方により重きを置いている様子で、『存在と時間』が未完であることもあるのか(目次だけはあるので、ハイデッガーが何を書きたかったかは構築されていたのでしょうが、出版されたのは第一部だけのようです)、この書で書かれていることは哲学ではなく社会学だというスタンスでした。社会学として読めば非常に興味深く、人間存在の考察の新しい切り口が見えると言っていました。








もうひとつは、自分自身、なんかしっくりこないなと感じたからです。自分の人生を考える上で、何らかの得るところを示してはいないと感じもしました。それは何故かと考えると、ざっくり言えばこれは西洋哲学だからでしょうか。



日本人として育った私の思考経路に沿ってはいないという思いです。西洋哲学の流れとして、キリスト教の思想からの脱却は重要で難しかった事でありますが、そんな絶対的神に頭を押さえつけられていない日本人としての私には、自分の存在を主張する為にどうしても「そこから逃れなければならない」神という物が存在しません。



また、神の似姿として作られた人間は自然界の中で一番でなければならないという思想、そしてその理想の神に近づくあるいは認められる為にどのように振舞わなければいけないかという原則がないわたしには、理想の姿、生き方をどのようにでも始められる。つまり、「神からの脱却プロジェクト」をパスする事ができるという事です。









そこで、先ずは「西洋思想」のお勉強です。



斎藤孝著『さっくり!西洋思想』によりますと、西洋哲学の始まりは知性と理性を推し進め「真理」を追求する事にあります。その後はキリスト教に奉仕するものとなり、キリスト教の原理と合わない思想は排除されるという憂き目を見る事になっていきました。



そして、物事を知覚する科学の発達を阻害する事になります(中世ヨーロッパ)。その後のルネッサンスで、「思想」は神の手から徐々に逃れ出る事となりますが、長年にわたって培われた原則は、西洋社会に今尚存在すと思われます。



つまり、「相手の言う事が正しくない」という事ができる白熱した議論の場を提供している事。新しい原理(革新)とその否定による進歩の道筋です。



一方、東洋思想には経験的に知りたいという欲求があります。手間と時間と根気は必要ですが、結果は得られます。新しいものを求めて議論することではなく、昔ながらの原理を踏襲する事で統計学的な真実を得るという事。正しいかどうかは証明できません。しかし、経験に裏打ちされている。



つまり、お互いが相克しないことが求められ、協調して真理を、経験を、次世代に送り続けることが重要となのです。



「わたしが正しいのだ。違うと言うなら論破してみせよ。」とせまる西洋思想に、「正しいのかもしれないと」東洋思想は沈黙するだけなのです。東洋、はわたしが正しいと「経験的に」知っていてもなんです。



「ざっくり」と『ざっくり!西洋思想』を読んでの感想でした。






2019年11月22日金曜日

これから人類が突き進むべき道は、どう?








私の興味の一つに『現在の人が住む世界は、どうしてこうなったのか。』と言うものがあります。この観点から、『銃・病原菌・鉄』と『ピダハン』を読み比べてみました。『銃・病原菌・鉄』は、人類が世界に広がった後の一万三千年に渡る歴史が書かれています。『ピダハン』の方は、アマゾンに住む少数民族ピダハンの言語と文化について書かれています。



『銃・病原菌・鉄』の著者であるダイアモンド氏は進化生物学者であり、ニューギニアでフィールドワークをしている時、現地のニューギニア人のヤリという人物から何故現社会では「持つ者」と「持たざる者」の格差がこうもあるのかという疑問を投げかけられたのがこの本を書くきっかけであったと語っています。



人類が今のような世界を取りつつあった13千年前からの歴史を網羅し、ユーラシア大陸、アメリカ大陸、オーストラリア大陸、アフリカ大陸と扱う地域も膨大なものです。この時間的にも空間的にも、とてつもない量の情報をすべて深く均等に扱う事は並大抵のことではないでしょう。つまり、それぞれの内容に対する熟度にばらつきが見られます。しかし、とても興味深い事柄が示されている事は確かです。



狩猟採集生活から抜け出て貨幣経済にまで至った人々と、狩猟採集生活にとどまった人々がいます。その違いはもちろんその人々の能力の違いではなく、地形・天候といった自然環境の違いにもよります。



つまり、狩猟採集生活から脱け出せたのは、その土地に飼いならすことできる種類の動物がいた事実、そして栽培が簡単な種類の植物が繁殖していた事実からです。現代人には、動物の飼育や農耕は、狩猟採集生活より簡単で多くの収穫が得られると思われますが、実際は狩猟採集生活の方が簡単だとか。



とりわけその地域に豊富な獲物や植物が存在していれば、わざわざ苦労して畜産農耕生活を選ぶ必要はないでしょう。他の本(今、どの本だったかは定かでない。)では、植物栽培は非常な努力が必要なので、日常生活の食料として栽培していた訳ではなく、最初は、冠婚葬祭または集会といったような特殊な目的のためにされていたのではと指摘されていました。



「持つ者」と「持たざる者」の違いは、このように自然環境の違いによって始まったのかもしれません。しかし、その後は単純に自然環境の違いだけに理由を求めることはできないでしょう。長年の人類間の交流により、植物のタネとか飼育できる動物、そして本の題名のように「鉄、銃、病原菌」なども自然環境が良くない地域にも広まっていきましたから。



そして侵略も。










侵略等により同化を余儀なくされた人々がいます。または友好的な同化もあります。しかし、『同化』をかたくなに拒否している人々もいます。それが次の本『ピダハン』です。



ピダハンはブラジルのアマゾン河の流域に住む少数民族で、狩猟採集生活を営み、独自の言語を操っています。現在その使用者は4~500人。消滅の危機にさらされている言語です。著者であるアメリカ人のダニエル・L・エヴェレットは、その特殊な言語の研究のため彼等の村落に赴きフィールドワークを試みます。しかし、真の目的はキリスト教の布教でした。



先ずは著者の紹介から始めます。彼はもともと国際SILの伝道師として、聖書をピダハン語に翻訳すと言う使命を持って派遣されたのでした。著者は1951年生まれで1977年に初めてピダハンの村に派遣されてから、何度も一度に数週間から一年近く、三十年以上にわたってピダハンの人々と生活を共にし、ピダハン語を研究してきました。



その間に言語学の博士号も取得しました。今では、世界有数のピダハン語の権威で、その研究を通して今までの言語学の学説を揺るがしています。言語学の理論については私には理解不能ですが、彼はピダハンの言語を通してピダハンの文化を理解しました。その内容はとても興味深いものがあります(私は言語学にもとても興味があります。)。



実際、彼はピダハン語を取得し、聖書をピダハン語に訳すという使命をやり遂げました。しかし、その当人は、ピダハンの人々の文化・哲学に触れ、キリスト教を捨てて無神論者に転向してしまいました。啓蒙する目的が逆に啓蒙されてしまったようです。



ピダハンの最大の特徴は直接体験と観察に非常に重きを置いていることです。彼等が話すことに過去も未来もない。想像で物を言わない。ただ、本当に起った事だけが重要です。また、実際に経験した人から直接話を聞いた人物が、「生の形で伝える」ことだけに限られます。そんな人々は、直接経験したものではない聖書の話など当然受け付けられません。著者自身もそんな彼等の影響から聖書に疑問を抱き始めたのでした。



彼の観察によると、ピダハンには長持ちする物を作る技術は持っているものの決して作ろうとしない。道具を軽視していて、使い捨ての籠しか作らない。こういう事も、彼等の直接体験を重視する文化から来ていると言っています。



将来を気にしないと言う事に文化的価値があるようです。未来を描くよりも、一日一日をあるがままに楽しむ事。また、ピダハンは何をするにも、それに最低限必要とされる以上のエネルギーを注いだりしません。



少数語を話す人々は、たいてい経済的理由から公用語に転向していきますが、ピダハンにとっては、経済の問題も重要ではないのです。つまり彼等の生活は充実しているから。たとえ平均寿命が45歳で他の先進国の半分しか生きられないとしても、彼等は死を恐れてはいないし、彼等には天地創造の物語もなく、天国も地獄もないので救いを求める必要もない。ただ静かにこの世を去っていく、それだけ。そして何の不満もなく。



また、アマゾン川があれば、彼等は十分な食料を得られます。著者によりますと、漁や採集に費やされる時間は一週間当たり42時間。家族で分担すると一週間に15~20時間。まして、彼等にとってこれは労働の苦役ではなく、遊びに等しいと描写されています。



文化が変容し進化していくことが重要だと考える人々なら、そのために対立や葛藤そして難題を乗り越えていこうと言う精神が必要です。現在の生活に充足と安定を感じている人々には、そのようなものは必要ありません。



我々はもう進化の道に足を踏み入れてしまったので、後戻りするわけにはいきません。が、足踏みすることはできそうな気はします。「結局、人はどのように生きるのが幸せなのだろうか?」という疑問が湧いてきます。



我々は、ピダハンのような人々とどのように付き合っていくべきなのかは、相当複雑な問題だと感じます。しかし、現在の人類学のフィールドワークでは、「干渉しない」というのが原則のようです。我々現代人の「幸せ」を押し付けることは出来ませんからね。










2019年10月31日木曜日

体重計 (2)








今朝、パジャマで体重計に乗りました。そこで、ちょっとした好奇心で、パジャマを脱いではかったらどんな感じかと。

体重計に乗ると、500g減りました。

そこで、

体脂肪は1%弱減。内脂肪、0.5減でした。

ふ~~~ン。






2019年10月12日土曜日

推理小説を英語で読む。










サスペンス小説『ROADSIDE CROSSES』を読みました。JEFFERY DEAVER の作ですが、主人公はあの有名な全身麻痺の捜査官ではなく、一度この捜査官が捜査要請をしたkinesics エクスパートのKathryn Dance です。



高校生のBOYが犯人らしく(大どんでん返しがあるかもしれない―――必ずやあるだろう。)、コンピュータゲームフリークでサイバースペース関連の用語や若者のブログ用語などが氾濫しています。そのような用語の解説が頻繁に出てきて少々鬱陶しいところもありますが、substitute the number three for “e” and four for “a” などの情報は興味深いです。例えば、”like really w4nt to learn, what can u t33ch me?” 等です。また、日本の漫画やアニメDVDのこと等も(Ghost in The Shell なんか)紹介されています。



で、思ったことは、実際、世界の「単一化」は進んでいるなァ~~~、です。わたしが十代、二十代にアメリカの推理小説を読んでいた時には、よく映画の題名などが出てきましたが、その題名を見てもさっぱりわからず、その3~5年後に日本でその映画が公開されるという塩梅でした。



この二十年くらいでしょうか映画がそんなに「時を待たず」に見られるようになったのは。たまには日本先行と言う事もありますしね。まァ、日本がハリウッド映画の市場として大きなものになったという事でしょうか。









もう一つ考えた事は、日本の文化力について。日本人が海外の映画祭で監督賞とかなんとかは、取ることが出来ますが、俳優が演技賞をとることはなかなか難しい。やはり“演技”も文化なのですから、その国の文化によってリアクションとか表現とかに差があるのでしょう。



では何故西洋映画、アメリカ映画が世界的に受け入れられているのか。それは彼等が、特にハリウッドは、ずーっと彼等の文化のコンテキストを世界中に送り出しているからだと想像します。



アメリカ人の演技がたとえ大袈裟で我々と違うなと思っても、アメリカ人とはそう言うものだという文脈がもうわたしたちの内に構築されているので理解できるのです。日本のコンテキストは、まだまだ世界の人々の内に構築されていません。



日本人の演技は日本人にとっては自然なものであっても、世界的に見れば「下手な不自然な演技」と映るのです。例外はあります。それは時代劇とか特殊な状況内容の場合。日本のサムライの演技が彼等の演技と違っても「それはサムライだから」として受け入れられます。日系アメリカ人がアメリカ映画の日本の時代劇で、日本人役を「日本人のふり」をして演じたらやはりなんか変です。



「特殊な状況」で言うと、そうですね、精神に異常をきたした人なんかどうでしょうか。ふつうでなく自分が見慣れていない演技でも受け入れられますよね。例えば、寺島しのぶさん、『キャタピラー』。



日本のアニメは、世界中で受け入れられています。登場人物の姿かたちは無国籍ですが、その精神はしっかり「日本」です。海外でのインタヴューで、各国の若者たちが「自国の文化と違う考え方感じ方に魅力を感じる。」と答えていましたよ。



このように、日本のアニメによって日本のコンテキストが世界中に構築されれば嬉しいなという思いです。そうすれば日本人も世界で住みやすくなるのではと。







2019年10月7日月曜日

体重計





体重計を買いました。と言っても、最近ではなく、たぶん、2年くらい前。

その前、体重計が壊れて、体重計のない時期が長くありました。で、2年前に近所のジムに通う事にして、体力測定をしたのですが、

が~~~ん、体脂肪率が多過ぎでる。で、体重計を買いました。メチャメチャ安かったです~~~。それまでは、体重計は高いと思っていたので。2千円以下で買えたと思います。スイマセン覚えていないので。

そういう器機は、安くなっているのですねえ。それも、体重だけでなく、体脂肪率、水分率、骨密度、筋肉密度、内脂肪率も提示してくれます。こんなことで感動するのは、最近事情を知らないゆえかもしれませんが。






それで、毎日計っていると、いろいろなことに気付きました。まさに、「脂肪は夜造られる」は正しい。晩御飯を食べた後に体重計に乗ると、まさに体重は食べた分だけ増えています。が、体脂肪率は最低値。そして、翌朝、測ると、体重は落ちているが、体脂肪率は増えている。

だいたい、2~4%は違います。起きてから、暫くして測ると、体脂肪は落ちています。まさに、体脂肪をエネルギーに変えて生きているのかあ???


それから、体脂肪と水分量を足すと体重のだいたい70%です。つまり、体脂肪が増えると水分量が減る。その逆もあり。ですから、体脂肪率を減らすことにどういう意味があるのかと。どちらで体の中に蓄えても良いでしょ?この点は、勉強不足で、何か理由があるのかも。

とりあえず、結論としたら、

体の中の水分と脂肪は率としては固定されているから、その時の体重によって、筋肉量と骨量が変化する。

そして、何が正しいかわからんーーーという事です。












2019年10月6日日曜日

ユビキタスーーUBIQUITOUS







UBIQUITOUS 私の好きな言葉です。好きな作家であるフィリップ・K・ディックの著作『ユービック』にも関連していますが、響きが何となく素敵でしょ。意味は、「至る所にある」です。

しかしながら、わたしが書きたいことは、「偏見はこの世の至る所に満ちている」という事。

よりわたしが関心のあるのは、女性に対する偏見。毎日見るテレビのコマーシャルでは、若いカワイイ女性が、媚びたような態度で何かを訴えかけている。また、父親と息子が外で野球などに興じて帰宅すると、迎えるのは母と娘。「汚い足で上がっちゃだめ。」とか、何とか言っている。また、建売住宅のコマーシャルでは、男が、「妻の喜ぶキッチンのある家」とかなんとか言っている。

こうやって、毎日毎日、女性の概念が固定化されていくのか。






少し前のニュースに、大学医学部の入学試験で男子学生が「下駄を履かせてもらっていた。」と言うのがあった。女子学生は同じ成績でも試験に合格とはならなかった。同じような現象は、社会の至る所に存在する。

わたしの趣味の囲碁の世界でも同様。女性が勝負に勝ったりすると、男性陣は(もちろん全ての男性ではないが)、気を悪くして、「囲碁をするより家ですることはないのか。」などと冗談交じりで言う。こうやって、女性は色々な機会を制限されているのだ。色々なことからシャットアウトされているのだ。

それが、元小学校の先生(何故か元・先生という人が囲碁界には多い)だったりすると、「ああ、この先生に教えられた女生徒は如何~。」と思う。

女性の方も、自分が強いとは言わない。反対に少々段位を落として自分の段位を紹介する。何故か?イジメにあうからだ。「わたしは、弱いです。だからイジメないで。」というアピール。わたしは、大きな顔をしているから風当たりが強い。






先月23日にあった、囲碁の第28期竜星戦で、年齢や性別を問わない一般棋戦で女性棋士が初めて準優勝した。上野愛咲美・女流棋聖だ。17歳。

そもそも女性棋士は、国内棋士481人のうち96人。そんな中で女性の上位進出が目立ち始めたのは、腕を磨く環境の変化がある。

日本棋院理事長である小林覚氏は、言う。

「昭和のころまで、研究会があっても女性は後ろに控えていて一言も発せず、男ばかりが意見を言っていた。それが近年は、男性のトップ棋士にもズバズバ意見を言えるようになった。男女の区別なく勉強ができるようになった。」

加えて、ネット対局の普及や囲碁AIの発達などで、自力で囲碁の腕を強化できるようになってきた。男性の「上から目線」に関係なく女性ものびのびと囲碁に勤しむことが出来る。


少しばかり、喜ばしい社会になってきたようだ。





2019年9月15日日曜日

今日の新聞





コラムで『折々のことば』と言うのがあるのですが、今日は、

あらゆることを勉強して一つの物を完成したというのが、本当の専門家だ。

です。

この言葉に対し、作家の荻野アンナさんが、

いまは、『千門家』ではなく、『一門家』になっているのですね。

と返しています。


実際、そう思います。「科学者は哲学者でなくてはならない。」とどこかで、読みました。あらゆることを考えて、一つの事を決定しなければ、それは偏向してしまう、と。






少し話は逸れますが、

最近、わたしの車がリコールされて、その修理、点検は済んだのですが、以前、何かおかしい。変なメッセージが出る。それで、もう一度クレームを付けたのですが、

「コンピュータが変なことがあると記憶していますが、何もメッセージはありません。」と。

あなた、メンテナンスとして、それで良いのか?と。自分で考えないのか?と。

AI時代、そんなことになってしまうのですね。「考えない人が増える」という事は、ちょっと危険なのでは。





2019年9月13日金曜日

『アナキズム』、流行遅れの感もしますが、私たちの日常に潜んでいますよ。








『アナキズム入門』を読んで



この本は、二年くらい前に読み終えたのですが、感想文を書く気がしなかったのです。というのは、「アナキズム」は私の中では完結しているからです。わたしは、「ナチュラル・ボーン・フェミニスト」と標榜しています。そして、高校の時に「アナキスト」となりました。



と言って、「アナキズムとは何か」という概念は全く知らなかったのですが。何となく、「わたしはアナキストだ。」と。違う本を本屋さんで探していた時に、たまたまこの本を見つけ、「何故、わたしは、わたしをアナキストだと思っているのだろうか。」というところをこの際はっきりさせようと、購入しました。



今回、書く気になったのは、著者である森元斎氏が「あとがき」で、『今、日本の政界でアナキストとして期待できるのは、山本太郎氏くらいだ。」というような意味の事を述べているので、時期を逸してはいけないと……、思いまして。



前置きが長くなりました。








さて、『アナキズム入門』は、アナキズムの始まりから、アナキストの活動を年代順に記述しております。第一章のプルードンから、第二章バクーニン、第三章クロポトキン、第四章ルクリュ、そして第五章マノフまで。



「各人は能力に応じて働き、必要に応じて受け取る。」あるいは、「各人は能力に応じて働き、要求に応じて消費する。」―――この原理に基づいて、お互いの財産や能力を使い合う関係―――これがアナキズムであり、アナルコ・コミュニズムと言う事。



つまり、人は能力の成果分を受け取るのではなく、必要な分だけ受け取る事。どれだけわたしはあなたに贈与したか、そして、あなたはそのお返しにどれだけ贈与を返したかを計量しない事。



このような事は、資本主義の経済活動では全く意味をなさない事ですが、あらゆる人間社会では、日常的に行われています。あるいは、現在の会社の中でさえ労働には、このような原則が働いています。例えば、「ちょっと、ペンを貸して。」と言われて、貸したら見返りを要求するか?あるいは、「そこの本を取ってくれ。」と言われて取ってあげたら見返りを要求するか?



人類が誕生して共同生活を営んでいる限り、根底にはこのような関係が存在し、それが、アナルコ・コミュニズムなのです。「生そのものの在り方」が、そもそもアナルコ・コミュニズムではないのか―――という主張です。



文明の発達によってこの関係性が侵されてきた、―――アナキズムの歴史は、この関係性を

取り戻す歴史だと思います。近代国家では、「国民国家」という観点が鮮明になりました。アナキズム始まりのプルードンは、「人間に対する人間の統治は、いかなる名称を装おうとも抑圧である。」と言います。







彼の主張を簡単に列挙しますと、



国家制度がなくとも、あらゆる生物は生きていける。

所有、それはと盗奪だ。

所有権は自然県ではない。生きたいように生きるという平等の権利―――これが自由だ。

人間が自由に生きる平等な社会には政府は必要ない。



このような事から、アナキズムは「無政府主義」と訳されているのでしょう。その後のアナキスト達も同じような理論を発展させていきます。



しかし、アナキズムとは、そう大層な事ではなく、私たちが日々行っていることなのです。何らかの共同体の中で、私たちは毎日助け合って生きている。それに「気付く」だけなのです。最近の日本で起きている「過疎集落」対策においても実行されていることです。また、里山資本主義と呼ばれているものも、一種のアナキズムです。



第四章のルクリュは、「本当は、みんな優しい。ちょっと資本主義のせいで意地悪な気持ちになってしまっただけなのだ。ちょっと権力のせいで嫌な奴になってしまっただけなのだ。」と言いました。





国家なき社会を考えた時、どんな制度が必要か。その答えはこのように示されています。中央集権の国家ではなく、それぞれの自治体制の自主的活動、より小さな団体による自治。



アナキズムは永久の革命を促しています。革命により何かの体制が出来上がっても、その中で疎外される人は必ず出てくる。そこで、また、革命が起きる。起こすべきだ。そして、また……、と言った具合です。より小さな団体の自治であれば、軌道修正がより速やかにできると考えると、暴力革命なしに人類は自由で平等な社会に向かって行けるのではないかと思います。





自分がアナキストとは思わず、アナキスト的考えを持っている人はたくさんいます。考えてみると、わたしが好きな小説やその他ノンフィクションの本は、すべてそんなアナキスト的思考によって書かれてものではないかと思います。私は高校時代からずっとそんな本を選択して来たのでした。






2019年8月22日木曜日

わたしは、スピヴァクを推しています。









ずいぶん前の話ですが、ユニクロは英語を社内公用語にしました。『日本人の9割に英語はいらない』の著者である成毛眞氏とユニクロ社長の柳井氏は、英語を単なるコミュニケーションの道具だと位置付けています。グローバル化する世界で人々が思っている英語の位置付もそうです。人々はただ便利だから英語を使っているにすぎません。



わたしは、この事について、機会あるごとに英会話の先生に訊ねていました。「ネイティヴの英語スピーカーはそれでいいの」と。彼等は、一応に「英語は英語だ。これからの世の中、英語を話せなければ生き残れないよ。」と言います。なぜ、彼等はそれで平気なのだろうか。ネイティブでない人々が英語を単なる記号として使用することで、文化的要素が英語から取り除かれてもいいのだろうかと……、いつも疑問でした。








『ナショナリズムと想像力』と言う本を読みました。著者はGayatri Chakravorty Spivak です。インドで生まれ、カルカッタ大学を卒業後、アメリカで学び、今はコロンビア大学の教授です。比較文学のプロフェッサー。彼女の本を読んで、少しわかってきました。もともと、「西欧と白人と男性の優位性」を含んでいる英語という言葉は(スピヴァクの言です。わたしの言ではありません。念のため。)、その他の人々が英語をどのように使おうと関心がないようです。つまり、もともとの優位性があるからです(だから、その位置から追い落とされたフランスは、英語に反発しているのでしょうか)。彼等は(個人ではなく、顔のない集団として)、ネイティヴではない英語を話す人たちと、何も友達になることを望んでいる訳ではないのです。自分たちが話すことをただ理解できる人々を求めているのであり、自分たちがオーダーした答えを自分たちがわかるように返してくれればそれで事は足りるのです。



以前、こんなエピソードを新聞記事に見つけました。切り抜き記事が見当たらないので、詳細は覚えていませんが。ニューヨーク駐在の日本人記者の報告です。ノーベル平和賞受賞が発表されたリベリアの平和活動家リーマ・ボウイーさん(39)が、訪問先のニューヨークでノーベル賞受賞の感想を求められました。アメリカの記者は英語で話せと主張するのです。それで、日本人の記者がそれは失礼ではないのかと言うと、英語で話せば世界中に彼女の主張が配信されると。



しかし、その日本人記者が言うには、リーマ・ボウイーさんは、お国の言葉で話して、その栄光を国の皆に理解してもらい、分かち合いたかったという事です。「英語の傲慢さ」は、どうにかならないものかとその記事は結んでいました。



グローバライゼーションを既存の言語である英語が支えるなら、言語に付随する文化や思想も受け入れる事になります。英語スピーカーの『自分たちが支配者である』という思いをぬぐい去る事は難しそうです。もし、グローバライゼーションを無機質な功利主義的な世界としてもいいのなら、その言語も英語ではなく、もっと人工的な言語を作り、ただ記号としての会話をお互いに交換しあえばいいのです。



しかし、グローバライゼーションをもっと愛に満ちたものとして捉えるなら、例えその言語が英語であったとしても、その話されている英語の中にはその語り手(英語ネイティブではない話者)の違った文化が漂っている事を関知しなければいけない。特に英語ネイティヴは、それらの英語が単なる彼等が話している英語ではなく、「話し手の言語から翻訳されたもの」であることを感じ取らなければならないと思います。「愛」が必要なのです。違ったものであるが、それが「等価」であることを認識すべきです。決して英語への同化ではなく。



先に「英語スピーカーの自分たちが支配者であるという思いをぬぐい去る事は難しそうです。」と書きました。それを払拭する手段は何か。わたしは「愛」と書きました。スピヴァクは「想像力」と書いています。



マルクスの一節にこのような事があるとスピヴァクは書いています。「訳語を思い出さないでその言語を使えるようになり、それを使う際に祖先伝来の言語を忘れるようになったときにはじめて、彼はその新しい言語の精神を身につけたのであり、その言語を自由に使いこなせるのである。」―――翻訳者はまさしくこうあるべきでしょう、と。



彼女は、比較文学の教授です。そして、英国によって第一言語を押しつけられたインドの生まれです。「コミュニケーションの媒体は英語のままでいいでしょう。私たちは利便性を考慮して、英語と言う植民地主義からの贈り物を受け取ります。しかし、作品はさまざまな言語で書かれ、比較研究されなければいけません。」と、『ナショナリズムと想像力』の中で述べています。



少なくとも二つ以上の言語を学び、言語間の等価性を見つけ出すこと。そのようになされた比較文学研究によって鍛えられた「想像力」で「独占せよ」という魔法を解く。「グローバル」という感覚をつかむこと。わたしが理解できる限りでは、彼女はそのような事を言っています。比較文学の視点を導入することによって、民主主義の精神は強化されるでしょう、とも。



わたしたちは、せっかく英語を学んでいるのだから、文学とまではいかないまでも、いろいろな他国の人と接した時に等価性(違うものであるが同等の価値を持つということ)を訓練することでスピヴァクの言う『想像力』を鍛え、強い者が支配するグローバライゼーションを―――『違う』と否定する能力を持ち、愛に満ちた「地球」にしていきましょうよ。






2019年8月12日月曜日

ちょっと、親バカ……





息子の漫画です。

https://daysneo.com/sp/works/0b4344a32b9462f83a848ee997ea2949.html


息子は、エロ漫画家ですが、これは一般公開されているので、大丈夫。不愉快でなければ、ご覧ください。




2019年7月28日日曜日

久しぶりに推理小説の話です。










THE INTERPRETER---SUKI KIM







著者は、韓国系アメリカ人のスキ・キムです。しかし、彼女はアメリカで生まれたのではなく、韓国生まれで両親の移民とともに13歳の時にニューヨークにやってきました。この本に興味を引いたのは、先ずは推理小説ということ。そして、女性の作家で、主人公もまた女性と言うこと。もちろん、著者が韓国のアメリカ人ということもあります。



内容を少々、



この本の主人公SUZY PARKは、29歳です。PARKは朴ですよ。マルタで会った韓国人が朴さんでPARKと名乗っていました。



Suzy Park is a twenty-nine-year-old Korean American interpreter for the New York City court system.



つまり、アメリカの法廷で英語を話せない韓国人のために通訳をする仕事です。彼女の両親は、貧しさゆえにアメリカに移民としてやってきました。そして、グロサリー・ストアを営みます。勤勉で親切で近所の評判でしたが、5年前にお店に強盗が入り惨殺されます。その背後には、単なる強盗と言う以上の何かが隠されていると、スージーが法廷で通訳をしている過程でわかってきました。「なぜ両親は殺されなければいけなかったのか。」という疑問に突き動かされて、彼女は真相に迫っていきます。



もうひとつは、スージーの姉の存在。今は行方不明になっています。スージーは真相を知るために、先ずは姉の居所を探しはじめます。スージーがアメリカに来た時は、まだ小さかったので、家族の問題はすべて姉に頼っていました。両親は英語を話せなかったので、姉がなんでもかんでも、プライベートからビジネスのことまで、通訳を引き受けていたのです。つまり、ダークな部分をすべて引き受けていたと言うこと。スージーだけが、何も知らされず幸せな日々を送っていた……、さて、その裏側には何があるのか~~~、と言うことですね。言わない方が良いですね。








わたしが、この本を買って読んだのは、少々以前です。この本の初版は2003年と書いてありました。わたしは、2005年に上海から帰ってきたので、その後に読んだと思います。なぜ「いつ読んだか」にこだわるかと言いますと、その頃、韓国系アメリカ人のことがアメリカで問題になっていたからです。「問題」と言うと大袈裟ですが。その頃、アメリカの大学で「銃乱射事件」が起きて、犯人が韓国系アメリカ人の学生でした。彼は、スージーと同じく、韓国生まれだけれど両親が移民したことによりアメリカに来た、というシチュエーション。



彼らは「0.5世」と呼ばれます。1世は、韓国人だけれどアメリカで生まれた人たちです。0.5世は、連れられてアメリカに来た人たちです。自分の意思でアメリカに来たわけでもないのに、「韓国人」と言われて、回りから疎外されます。もちろん韓国人の問題ではなく、その他の国の0.5世も同じ精神的苦痛を味わっていますが。





THE INTERPRETER』の主人公スージーもその姉も、このような扱いの理不尽さの犠牲者です。推理小説としても面白いですが、彼女たちのアメリカでの状況が描かれている興味深い作品でした。




2019年7月22日月曜日

選挙・投票




先日参院選挙は終わりました。

選挙に投票するかどうかでした。……、投票しても何も変わらないという気持ちがあるからです。

考えて、

選挙って、宝くじと同じじゃないの?

買ったって、当たるはずはないけど、買わなければ当たらない。
選挙は、投票したって、何も変わらないけど、投票しなければ、また、何も変わらない。

で、当日どうしようかと。

でも、夜9時からの選挙速報をちゃんと見るためには、行った方が良いのでは。わたしも参加したという意識で、罪の意識なく見た方が良いんじゃないの、と。

で、行きました。まあ、散歩がてら、てな感じで。


う~~~ん、行ってよかった、って感じ。わたしの1票が、結果、何か、生きたような感じだったからです。もちろん、たいしたことない1票ですが。


世の中、また、転回期が来たか???




2019年7月21日日曜日

ホモ・サピエンスの歴史が変わるか?




先日の新聞記事です。「ギリシャでみつかった頭蓋骨化石が約21万年前のホモ・サピエンスものだった。」というもの。

「何故これが大変だあ!」となるかと言うと、

現生人類のホモ・サピエンスは約25万年前から30万年前にアフリカで誕生したと言われています。その後、アフリカを脱出できたのは、5~6万年前というのが定説です。15万~20万年前にアフリカを脱出したとも言われていますが、その時は、ネアンデルタール人に阻止されて、成功しなかったと。

もしこの発見が正しければ、ユーラシア大陸での最古のホモ・サピエンスという事になり、初期の我々がアフリカを出た時期の見直しを余儀なくされます。

この研究チームは、「従来考えられていたより古い時代に、さらに遠くまで現生人類がアフリカから出てきたことになる。」と結論付けました。

こうなると、今までわたしが読んできた本は、すべて(この事に関連しているものですが。でも、たいてい、人類は約6万年前にアフリカを脱出したことになっていて、かつ、そのことは人類の歴史にとってかなり重要です。)書き直されなくてはいけなくなります。

人類がアフリカを脱出した約6万年前より以前にその他の地域で存在していた人類は、亜人類となっていますが、その検証も必要になるのでは?と。また、21万年前にアフリカを脱出した人類と6万年前にアフリカを脱出した人類は、違う進化の過程を経たのかとか、いろいろ妄想が膨らみます。


まだまだ謎は一杯ですね。



2019年7月14日日曜日

心は、人間だけにある特権なのか。。。






『ダンゴムシに心はあるのか』


こんなタイトルの本を読みました。とても大胆なタイトルだと思います。そして「心」を定義してしまうところが、また、凄い。



「心はあるのか」と言うのは、わたしの永遠の大テーマです。人に心があるのなら、総てのものに心はあるし、ダンゴムシ(等々)に心がないのなら人にも心はない、というのがわたしのスタンスです。



「全てのものに心はある」と、わたしが言うと、人は「じゃあ、石は、岩は。」とか言います。つまり、無機物と人を同じ次元で考える事に我慢がならないのでしょう。ですが、この著者は「石の心」をまで肯定しています。そこまで認めるなら、わたしも著者の意見に大賛成です。



ジェラルミン板の心を捉える職人のエピソードが書かれています。ハンマーひとつでジェラルミンの板から形を叩き出そうとする職人の技です。わたしも職人の端くれとして材質と職人の「心」の探り合いの感覚はよくわかります。考えてみると石器時代に人類が石からそれを割ることによって「刃」を取り出したのも人類が「石の心」を知っていたという証拠かも(そんな非論理的な思考は現在否定されていますが。)。



実際、比較認知科学者である著者も実験には被実験者()とのコミュニケーションが大切だと述べています。その対象者とのコミュニケーション能力で実験者は対象の「予想外の行動」をただひたすら待ち、観察し、「心」を知ります。つまり、職人がその材質と向き合いコミュニケーションを図るかのように。








普通、下等な生き物には心なんてないとされています。それらの行動様式は刺激に対する機械的な反応であり、そのパターンは生得的な物であると。著者は、ダンゴムシにいろいろな「イジワル」を仕掛けます。迷路の中に置いたり、水が嫌いなダンゴムシを水路に囲まれた場所に置いてどうするかを観察する等々です。



著者は、そういう時にダンゴムシが普段とは違う行動をすることに、「ダンゴムシの心の存在」を見ています。実際、あるダンゴムシは、水が嫌いなのに脱出のために水路に飛び込みます。そして、その普段とは違う行動の中に「心」の作用が観察できるのだと。



この本での「心」の定義は、……生物は、「生き延びる」とか「繁栄する」とかの目的で生きています。そして、その目的に則った行動をすることが「正しい事」です。つまり、すべての行動に意味があります。しかし、時々意味のない行動もする。例えば、逆境に陥った時、有効性はなくてもやってみる。これが「心」であると、……わたしが理解した範囲で。



現在、AIの発達によって、ロボットに「心」はあるのか、機械に「心」はあるのか、と言った議論が活発になってきました。人間は物質で構成されています。目に見えない「精神」が物質に宿るわけはなく、酵素だとかフェロモンだとかの物質が分泌され、その時々の感情が決定されるのではないのか。



つまり、AIに「酵素」のような働きをするものをインプットすれば、ロボットも人と同じような「心(感情)」を持つことは可能ではないのかと思います。ダンゴムシにとっては、本能(生きる)に従わない行動。ロボットにとっては、論理的でない行動(論理的でない行動をランダムに取るという指令等か?)。



このような意味で、わたしは、「人には心はあるし、また『無い』」と思っています。





思考の翼をいろいろ広げてくれる本でありました。





2019年7月8日月曜日

とりあえず……書いてみる。




今朝、今年初めて、庭で蝉が鳴きだしました。まだ、梅雨明けではありませんが、賑やかな夏の到来となりそうです。


雨催い
ジム通う道
蝉の声


オ・ソ・マ・ツ・でした。




2019年6月23日日曜日

妄想してしまう・わ・た・し






以前、毎日ブログをUPしようと思った。と、書きましたが、未だ至らず。

毎日、「ネタ」は思いつくのですが、そのネタに対し、いろいろなことが頭をよぎるので、小文にまとまりません。

で、「妄想」の部分を抜きにして書いたらどうかと。

例えば、今日のテーマは、「『男の強さ』幅利かす世界とは」です。

「男の強さ」を重視する社会では戦士が特権を与えられ、結果として紛争の頻度が増す―――、というデータ分析の研究結果。

人類学者の報告です。

「男の強さ」とは、攻撃的な事、復讐が良いとされる事。つまり、「名誉の文化」です。そんなことが尊重される社会では(調査対象はマサイ族の戦士など)、隣人の部族との闘争回数が多くなるという研究。








そこで、わたしの妄想が動き出します。

つまり、男らしさを捨てたほうが、平和な世界が来るのか。それが、文明なのか。文明によって、男女の格差が軽減していくのか。という事は、社会は中性化していくのか。そして、男らしさの最後の砦が、「資本主義」ではないのか。

男が筋力を誇示するなら、毎日、外で戦って、獲物を捕まえて来いよ!仕事して金稼いでくるんじゃないよ。金なんか女性も稼げるのさ。

また、現在の男女格差は、「体格差」と「筋力差」。動物は、雌雄の権力の格差が激しいほど「大きさ」に違いがあるとか。その格差が無くなっていくのに連れて体格差が縮まっていくとか。今、一番格差のあるのが、「トド」です。

で、人類は、格差が縮まっているとか。欧米人を見よ!


という、妄想が広がっていくと、短く話がまとまらない訳です。



で、続きはまた。そして、UPは、妄想が始まる前に書くのを止めたい・……という話です。




2019年6月13日木曜日

嫌な予感。







今朝、探し物をしていて、冷蔵庫の上に置いてある籠の中身を調べていたら、冷蔵庫にたくさん引っ付いているマグネット(海外のお土産品)の一番重要な位置にあるものが、ちょっと触ってしまったので、落ちた。

それは、床に落ちて割れた。タイ空港で買った、ちょっと不思議な雰囲気の童女の人形のマグネット。だから、冷蔵庫の扉の一番上に飾って、他のマグネットを見下ろしている感じにしていた。

割れて首が落ちた。首だけ落ちた。不吉な予感。全く<迷信の>根拠はないものではある。

で、

数分後、玄関のチャイムが……、ピンポ~ン、ピンポン、となった。今日は燃えるゴミの日で、扉の前に置くシステムなので置いていたのだが、

チャイムを鳴らした隣の住人が、「お宅のゴミがひどいことになっているよ。」、と。スイマセンと言って、外に出たら、カラスのせいか、ゴミが散乱していた。ちょうど、そこにゴミの収集車が来て、事なきを得た。

次は、違う側の隣の住民が、玄関のチャイムを鳴らす。

エ~~~、何事?また、何かあったの?(今までも、いろいろ言われている。)

この数日の雨で雨どいからの雨水が隣の敷地に落ちて、苔が生してしまったとの御宣託。これは、雨どいの方向が悪いので、何とかしてほしいとの事。

彼女は、いつもそんなにキツイ調子ではなく、スイマセンがと言う態度なので、そんなに「困った」という感じではない。でも、解決しなければならない。そして、そのついで(こっちの方が目的か)わたしの近況とか家族の近況とかを聞いてくる。今日は、「いつも何をしているの?」と聞かれた。


まあ、あれやこれや……、と口を濁すと、「そうね、このお家を維持するには、いろいろやることもあるよね~~~。」と言って去っていった。

やれやれだけど、またひとつやることが増えた。