2019年12月22日日曜日

己の意見を述べるには、先ず、「敵」の意見を知らなくてはね!









文化センターでハイデッガーの『存在と時間』の講座を受けていました。半年間で十回のコース。しかし、ハイデッガーが、『存在と時間』で何を言いたいのかと考察する熱意がいまひとつ起こりませんでした。



その理由のひとつは、講師がハイデッガーの哲学に心酔していない事でした。名古屋大学の哲学の教授ですが、彼はハイデッガーに影響を与えたフッサールの方により重きを置いている様子で、『存在と時間』が未完であることもあるのか(目次だけはあるので、ハイデッガーが何を書きたかったかは構築されていたのでしょうが、出版されたのは第一部だけのようです)、この書で書かれていることは哲学ではなく社会学だというスタンスでした。社会学として読めば非常に興味深く、人間存在の考察の新しい切り口が見えると言っていました。








もうひとつは、自分自身、なんかしっくりこないなと感じたからです。自分の人生を考える上で、何らかの得るところを示してはいないと感じもしました。それは何故かと考えると、ざっくり言えばこれは西洋哲学だからでしょうか。



日本人として育った私の思考経路に沿ってはいないという思いです。西洋哲学の流れとして、キリスト教の思想からの脱却は重要で難しかった事でありますが、そんな絶対的神に頭を押さえつけられていない日本人としての私には、自分の存在を主張する為にどうしても「そこから逃れなければならない」神という物が存在しません。



また、神の似姿として作られた人間は自然界の中で一番でなければならないという思想、そしてその理想の神に近づくあるいは認められる為にどのように振舞わなければいけないかという原則がないわたしには、理想の姿、生き方をどのようにでも始められる。つまり、「神からの脱却プロジェクト」をパスする事ができるという事です。









そこで、先ずは「西洋思想」のお勉強です。



斎藤孝著『さっくり!西洋思想』によりますと、西洋哲学の始まりは知性と理性を推し進め「真理」を追求する事にあります。その後はキリスト教に奉仕するものとなり、キリスト教の原理と合わない思想は排除されるという憂き目を見る事になっていきました。



そして、物事を知覚する科学の発達を阻害する事になります(中世ヨーロッパ)。その後のルネッサンスで、「思想」は神の手から徐々に逃れ出る事となりますが、長年にわたって培われた原則は、西洋社会に今尚存在すと思われます。



つまり、「相手の言う事が正しくない」という事ができる白熱した議論の場を提供している事。新しい原理(革新)とその否定による進歩の道筋です。



一方、東洋思想には経験的に知りたいという欲求があります。手間と時間と根気は必要ですが、結果は得られます。新しいものを求めて議論することではなく、昔ながらの原理を踏襲する事で統計学的な真実を得るという事。正しいかどうかは証明できません。しかし、経験に裏打ちされている。



つまり、お互いが相克しないことが求められ、協調して真理を、経験を、次世代に送り続けることが重要となのです。



「わたしが正しいのだ。違うと言うなら論破してみせよ。」とせまる西洋思想に、「正しいのかもしれないと」東洋思想は沈黙するだけなのです。東洋、はわたしが正しいと「経験的に」知っていてもなんです。



「ざっくり」と『ざっくり!西洋思想』を読んでの感想でした。






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