2019年11月22日金曜日

これから人類が突き進むべき道は、どう?








私の興味の一つに『現在の人が住む世界は、どうしてこうなったのか。』と言うものがあります。この観点から、『銃・病原菌・鉄』と『ピダハン』を読み比べてみました。『銃・病原菌・鉄』は、人類が世界に広がった後の一万三千年に渡る歴史が書かれています。『ピダハン』の方は、アマゾンに住む少数民族ピダハンの言語と文化について書かれています。



『銃・病原菌・鉄』の著者であるダイアモンド氏は進化生物学者であり、ニューギニアでフィールドワークをしている時、現地のニューギニア人のヤリという人物から何故現社会では「持つ者」と「持たざる者」の格差がこうもあるのかという疑問を投げかけられたのがこの本を書くきっかけであったと語っています。



人類が今のような世界を取りつつあった13千年前からの歴史を網羅し、ユーラシア大陸、アメリカ大陸、オーストラリア大陸、アフリカ大陸と扱う地域も膨大なものです。この時間的にも空間的にも、とてつもない量の情報をすべて深く均等に扱う事は並大抵のことではないでしょう。つまり、それぞれの内容に対する熟度にばらつきが見られます。しかし、とても興味深い事柄が示されている事は確かです。



狩猟採集生活から抜け出て貨幣経済にまで至った人々と、狩猟採集生活にとどまった人々がいます。その違いはもちろんその人々の能力の違いではなく、地形・天候といった自然環境の違いにもよります。



つまり、狩猟採集生活から脱け出せたのは、その土地に飼いならすことできる種類の動物がいた事実、そして栽培が簡単な種類の植物が繁殖していた事実からです。現代人には、動物の飼育や農耕は、狩猟採集生活より簡単で多くの収穫が得られると思われますが、実際は狩猟採集生活の方が簡単だとか。



とりわけその地域に豊富な獲物や植物が存在していれば、わざわざ苦労して畜産農耕生活を選ぶ必要はないでしょう。他の本(今、どの本だったかは定かでない。)では、植物栽培は非常な努力が必要なので、日常生活の食料として栽培していた訳ではなく、最初は、冠婚葬祭または集会といったような特殊な目的のためにされていたのではと指摘されていました。



「持つ者」と「持たざる者」の違いは、このように自然環境の違いによって始まったのかもしれません。しかし、その後は単純に自然環境の違いだけに理由を求めることはできないでしょう。長年の人類間の交流により、植物のタネとか飼育できる動物、そして本の題名のように「鉄、銃、病原菌」なども自然環境が良くない地域にも広まっていきましたから。



そして侵略も。










侵略等により同化を余儀なくされた人々がいます。または友好的な同化もあります。しかし、『同化』をかたくなに拒否している人々もいます。それが次の本『ピダハン』です。



ピダハンはブラジルのアマゾン河の流域に住む少数民族で、狩猟採集生活を営み、独自の言語を操っています。現在その使用者は4~500人。消滅の危機にさらされている言語です。著者であるアメリカ人のダニエル・L・エヴェレットは、その特殊な言語の研究のため彼等の村落に赴きフィールドワークを試みます。しかし、真の目的はキリスト教の布教でした。



先ずは著者の紹介から始めます。彼はもともと国際SILの伝道師として、聖書をピダハン語に翻訳すと言う使命を持って派遣されたのでした。著者は1951年生まれで1977年に初めてピダハンの村に派遣されてから、何度も一度に数週間から一年近く、三十年以上にわたってピダハンの人々と生活を共にし、ピダハン語を研究してきました。



その間に言語学の博士号も取得しました。今では、世界有数のピダハン語の権威で、その研究を通して今までの言語学の学説を揺るがしています。言語学の理論については私には理解不能ですが、彼はピダハンの言語を通してピダハンの文化を理解しました。その内容はとても興味深いものがあります(私は言語学にもとても興味があります。)。



実際、彼はピダハン語を取得し、聖書をピダハン語に訳すという使命をやり遂げました。しかし、その当人は、ピダハンの人々の文化・哲学に触れ、キリスト教を捨てて無神論者に転向してしまいました。啓蒙する目的が逆に啓蒙されてしまったようです。



ピダハンの最大の特徴は直接体験と観察に非常に重きを置いていることです。彼等が話すことに過去も未来もない。想像で物を言わない。ただ、本当に起った事だけが重要です。また、実際に経験した人から直接話を聞いた人物が、「生の形で伝える」ことだけに限られます。そんな人々は、直接経験したものではない聖書の話など当然受け付けられません。著者自身もそんな彼等の影響から聖書に疑問を抱き始めたのでした。



彼の観察によると、ピダハンには長持ちする物を作る技術は持っているものの決して作ろうとしない。道具を軽視していて、使い捨ての籠しか作らない。こういう事も、彼等の直接体験を重視する文化から来ていると言っています。



将来を気にしないと言う事に文化的価値があるようです。未来を描くよりも、一日一日をあるがままに楽しむ事。また、ピダハンは何をするにも、それに最低限必要とされる以上のエネルギーを注いだりしません。



少数語を話す人々は、たいてい経済的理由から公用語に転向していきますが、ピダハンにとっては、経済の問題も重要ではないのです。つまり彼等の生活は充実しているから。たとえ平均寿命が45歳で他の先進国の半分しか生きられないとしても、彼等は死を恐れてはいないし、彼等には天地創造の物語もなく、天国も地獄もないので救いを求める必要もない。ただ静かにこの世を去っていく、それだけ。そして何の不満もなく。



また、アマゾン川があれば、彼等は十分な食料を得られます。著者によりますと、漁や採集に費やされる時間は一週間当たり42時間。家族で分担すると一週間に15~20時間。まして、彼等にとってこれは労働の苦役ではなく、遊びに等しいと描写されています。



文化が変容し進化していくことが重要だと考える人々なら、そのために対立や葛藤そして難題を乗り越えていこうと言う精神が必要です。現在の生活に充足と安定を感じている人々には、そのようなものは必要ありません。



我々はもう進化の道に足を踏み入れてしまったので、後戻りするわけにはいきません。が、足踏みすることはできそうな気はします。「結局、人はどのように生きるのが幸せなのだろうか?」という疑問が湧いてきます。



我々は、ピダハンのような人々とどのように付き合っていくべきなのかは、相当複雑な問題だと感じます。しかし、現在の人類学のフィールドワークでは、「干渉しない」というのが原則のようです。我々現代人の「幸せ」を押し付けることは出来ませんからね。










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