2026年5月27日水曜日

『雨月物語』


 

『雨月物語』、読めましたあ。

 

友だちとの「飲み会」で、本の話になった。で、「今、『雨月物語』を読んでいるよ~。」というと、「誰が書いたの?」って言うから、「上田秋成。円城塔が訳しているんだ。」と応えると、「へ~。」って。―――それだけ。

 

「上田秋成って、江戸時代の作家だよね。面白かった?」とか、「円城塔が翻訳してるんだ~。」とか、話が盛り上がると思ったのに。

 

 

とにかく、読み終えました。『雨月物語』というと、たいていの人はどこかでお目にかかっているのではと推察します。歴史の授業とか古典の授業とか。映画化されたものもあるような~。

 

まあ、大体この辺りの「読み物」は、神や仏や鬼、大蛇などの怪異譚なので、『雨月物語』の中での話だったか、違う本と勘違いしているのか、判断しがたいところもある。中国の読み本にも影響されているので、そこもごっちゃになっているかも。しかし、大好きです。

 



内容は、怪異譚です。上田秋成は、戯作者(職業作家?)ではなく、文人です。趣味で書いていたのか。それ以前の小説、『伊勢物語』とか『源氏物語』とか『宇治拾遺物語』とは少々感じが違います。近代的になったのかなあ。

 

 

最後のお話の『貧富論』では、それまでとは趣の変わった作品となっています。

 

「富」とは何か?「貧しい」とは何か?の問答。裕福な人でも「悪い奴と善良な人」がいる。貧しくとも幸せな人もいれば、卑しい人もいる。その違いはどこから来るのかという考察が、吝嗇でお金をため込んだ人物の枕元に現れた翁との問答で語られていきます。

 

 

単なる怪奇ではなく、哲学があるような~。「訳者(円城塔)あとがき」では、「日本語」の捉え方が変わって来た頃の作品で、上田秋成は、「日本語とは何か?という問い」を書いていたと指摘しています。

 

 

と言うところです。

 

 

 


2026年5月11日月曜日

囲碁について


 

囲碁の対局に行く前に唱える呪文があります。対局中に「留意すること」をすぐ忘れてしまうので、家から唱えながら棋院に行きます。


初期からいろいろあって段々変化はしています。


先ずは、

冷静、沈着。傲慢にならず。等々、更新中。


今は、

「全ての人をリスペクト。弱い石を造らない。地をとる手を打つ。」です。



それで先日、指導碁を打ってもらっていたらメチャメチャになってしまって、

「打ち方が雑だ!わたしは打ち込みが深すぎる人だと自覚しなさい!」と言われてしまって、


「わかりました。わたしの呪文に付け加えます。」とお応えしました。


言い訳としては、

この頃なんだか成績が上がってきて(レーティングの)、すっかり「全ての人をリスペクト」がお座成りになり、フン・フン・フンといい加減に打っていました。反省。


それから、わたしは、「脳が燃えるほど考えたい!」という気持ちを忘れていた、と思います。


先生の「君は反省しているようで実は反省していない!」とのお言葉に、深く反省。。。


これからは、呪文に二つ付け加えます。

「わたしは、打ち込みが深い人間だ!」と「脳が燃えるほど考える!」です。


以上です。






2026年5月6日水曜日

数独、その後



 


麻薬のように数独に溺れています。その位置を(私にとっての)ハッキリさせようとしております。


先日、NHKの将棋番組を見ておりました。「棋士の息抜きは何?」という問いに、マージャンとか筋トレとかがありましたが、「将棋の息抜きは将棋です。」というのがありました。


また、高校生棋士では、「将棋の息抜きは、勉強です。」というものも。大学受験のための勉強が息抜きだとか。


思い出しましたが、わたしも受験勉強の時に勉強に飽きたら、数学の問題を解いておりました。パズルのようにバッチリ、ハッキリ、答えがでるところが息抜きとなりました。





そこで、わたしはプロではないので「息抜き」など必要はないのですが、その上仕事も引退しているので、息抜きは必要ないわけです。が、囲碁に打ち込んでいると憂鬱になる。答えが見つからないから。


そこで、数独は、数学のようにバッチリ答えが出て解けるとスッキリするので、どうだろうかと思いました。数独をやる言い訳にです。ストレス解消です。


これで堂々と数独をやれるというものです。いかが?