サスペンス小説『ROADSIDE CROSSES』を読みました。JEFFERY DEAVER の作ですが、主人公はあの有名な全身麻痺の捜査官ではなく、一度この捜査官が捜査要請をしたkinesics エクスパートのKathryn Dance です。
高校生のBOYが犯人らしく(大どんでん返しがあるかもしれない―――必ずやあるだろう。)、コンピュータゲームフリークでサイバースペース関連の用語や若者のブログ用語などが氾濫しています。そのような用語の解説が頻繁に出てきて少々鬱陶しいところもありますが、substitute the number three for “e” and four for “a” などの情報は興味深いです。例えば、”like really w4nt to learn, what can u t33ch me?” 等です。また、日本の漫画やアニメDVDのこと等も(Ghost in The Shell なんか)紹介されています。
で、思ったことは、実際、世界の「単一化」は進んでいるなァ~~~、です。わたしが十代、二十代にアメリカの推理小説を読んでいた時には、よく映画の題名などが出てきましたが、その題名を見てもさっぱりわからず、その3~5年後に日本でその映画が公開されるという塩梅でした。
この二十年くらいでしょうか映画がそんなに「時を待たず」に見られるようになったのは。たまには日本先行と言う事もありますしね。まァ、日本がハリウッド映画の市場として大きなものになったという事でしょうか。
もう一つ考えた事は、日本の文化力について。日本人が海外の映画祭で監督賞とかなんとかは、取ることが出来ますが、俳優が演技賞をとることはなかなか難しい。やはり“演技”も文化なのですから、その国の文化によってリアクションとか表現とかに差があるのでしょう。
では何故西洋映画、アメリカ映画が世界的に受け入れられているのか。それは彼等が、特にハリウッドは、ずーっと彼等の文化のコンテキストを世界中に送り出しているからだと想像します。
アメリカ人の演技がたとえ大袈裟で我々と違うなと思っても、アメリカ人とはそう言うものだという文脈がもうわたしたちの内に構築されているので理解できるのです。日本のコンテキストは、まだまだ世界の人々の内に構築されていません。
日本人の演技は日本人にとっては自然なものであっても、世界的に見れば「下手な不自然な演技」と映るのです。例外はあります。それは時代劇とか特殊な状況内容の場合。日本のサムライの演技が彼等の演技と違っても「それはサムライだから」として受け入れられます。日系アメリカ人がアメリカ映画の日本の時代劇で、日本人役を「日本人のふり」をして演じたらやはりなんか変です。
「特殊な状況」で言うと、そうですね、精神に異常をきたした人なんかどうでしょうか。ふつうでなく自分が見慣れていない演技でも受け入れられますよね。例えば、寺島しのぶさん、『キャタピラー』。
日本のアニメは、世界中で受け入れられています。登場人物の姿かたちは無国籍ですが、その精神はしっかり「日本」です。海外でのインタヴューで、各国の若者たちが「自国の文化と違う考え方感じ方に魅力を感じる。」と答えていましたよ。
このように、日本のアニメによって日本のコンテキストが世界中に構築されれば嬉しいなという思いです。そうすれば日本人も世界で住みやすくなるのではと。
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