ボルヘスは好きな作家です。10冊くらい持っています。でも、難し~~~い。でも、買ってしまう。
『シェイクスピアの記憶』もそうです。「ボルヘスの文学的遺言。人間ボルヘス最晩年の自伝である。」というキャッチについつい手が伸びてしまいました。
なぜ、理解するのが難しいのに買ってしまうのかと、考えました。
わたしは、幼い時から「不思議な話」というものばかり読んでいました。SFファンタジーとか怪奇ファンタジーなどなど。そんな延長で、中学、高校、大学時代もそんなような本ばかりです。その一環としてボルヘスにハマったのではないかと。
マーク・トウェインの話など童話に焼き直されているものがあります。しかし、彼の本はそんな簡単な物でなく、原本を読むと皮肉たっぷりな少々難解なお話。ボルヘスも民話とか怪奇小説として読めるけれど、そんなものではないと。
理解不能なものに挑戦するという、わたしのヒネクレ魂に火が付いたのですかね。
『シェイクスピアの記憶』は、4つの短編から成っています。しかし158ページあるうちの3分の1ほどは、解説です。今回は、一遍読むたびに解説を見て本編と解説を行き来して読みました。
第一遍は、『一九八三年八月二十五日』です。歳を取ったボルヘスと若いボルヘスが遭遇するという「タイムスリップ」のお話ですが、そんなSFであるはずはなく、異なる時間と異なる場所に居る二人のどちらが夢でどちらが現実なのか?そんな葛藤です。
1983年は、ボルヘス84歳の誕生日で、その翌日の日付です。この過去と未来の邂逅というパターンは、他の短編集にもよく見られます。『砂の本』でも読みました。
二つ目は、『青い虎』です。インドのジャングルに虎を捕獲しようと行った男が、入ってはならない聖なる山で、不思議な石を手に入れました。その青い石を巡る不思議なお話です。今、同時に読んでいる『チベット幻想奇譚』に出て来そうな感じ~~~。不思議な存在に憑りつかれて自滅していく、あるいは、超えてはならない「神の不条理」か。
三作目は、『パルケルススの薔薇』。パラケルススのところに弟子にしてくれと男が訪ねてきます。パラケルススの錬金術、魔術をペテンだと告白させようとの意図です。が、己の小ささ卑劣さに恥じ入り、去っていく、というお話。
薔薇の花を燃やして灰にし、元通りにしてくれと頼む弟子。神が作りし一輪の花を人間が消すことができると信じて疑わない弟子に、世界を宇宙を理解できるはずがないとのパラケルススの応えです。
弟子が去った後、パラケルススが何かを唱えると、薔薇は元の姿に戻るのでした。
4編目が『シェイクスピアの記憶』です。シェイクスピア国際会議で知り合ったダニエル・ソープという男が、シェイクスピアの記憶をくれると言います。シェイクスピアの探究に身を捧げていた「私」は、「もらいます。」と言う。
それから、「私」は。自分の記憶とシェイクスピアの記憶を持って生きることとなる。初めは幸福感を味わうが、やがてシェイクスピアの記憶に押しつぶされるようになる。ちっぽけな自分の記憶が大きなシェイクスピアの偉大な記憶に飲み込まれるような。
自分のアイデンティティーが記憶に基づくのであれば、自分自身の存在理由の意味がなくなると。そして、最終的にはシェイクスピアの記憶を他人に譲り渡すのです。
シェイクスピアの記憶を持ったからと言ってシェイクスピアになれるわけではない。では、記憶とはなんだろうか……という問い。
こうしてわたしは簡明なボルヘスの物語に憑りつかれて、またボルヘスの本を買ってしまうのだろう。
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