ずいぶん前の話ですが、ユニクロは英語を社内公用語にしました。『日本人の9割に英語はいらない』の著者である成毛眞氏とユニクロ社長の柳井氏は、英語を単なるコミュニケーションの道具だと位置付けています。グローバル化する世界で人々が思っている英語の位置付もそうです。人々はただ便利だから英語を使っているにすぎません。
わたしは、この事について、機会あるごとに英会話の先生に訊ねていました。「ネイティヴの英語スピーカーはそれでいいの」と。彼等は、一応に「英語は英語だ。これからの世の中、英語を話せなければ生き残れないよ。」と言います。なぜ、彼等はそれで平気なのだろうか。ネイティブでない人々が英語を単なる記号として使用することで、文化的要素が英語から取り除かれてもいいのだろうかと……、いつも疑問でした。
『ナショナリズムと想像力』と言う本を読みました。著者はGayatri Chakravorty Spivak です。インドで生まれ、カルカッタ大学を卒業後、アメリカで学び、今はコロンビア大学の教授です。比較文学のプロフェッサー。彼女の本を読んで、少しわかってきました。もともと、「西欧と白人と男性の優位性」を含んでいる英語という言葉は(スピヴァクの言です。わたしの言ではありません。念のため。)、その他の人々が英語をどのように使おうと関心がないようです。つまり、もともとの優位性があるからです(だから、その位置から追い落とされたフランスは、英語に反発しているのでしょうか)。彼等は(個人ではなく、顔のない集団として)、ネイティヴではない英語を話す人たちと、何も友達になることを望んでいる訳ではないのです。自分たちが話すことをただ理解できる人々を求めているのであり、自分たちがオーダーした答えを自分たちがわかるように返してくれればそれで事は足りるのです。
以前、こんなエピソードを新聞記事に見つけました。切り抜き記事が見当たらないので、詳細は覚えていませんが。ニューヨーク駐在の日本人記者の報告です。ノーベル平和賞受賞が発表されたリベリアの平和活動家リーマ・ボウイーさん(39)が、訪問先のニューヨークでノーベル賞受賞の感想を求められました。アメリカの記者は英語で話せと主張するのです。それで、日本人の記者がそれは失礼ではないのかと言うと、英語で話せば世界中に彼女の主張が配信されると。
しかし、その日本人記者が言うには、リーマ・ボウイーさんは、お国の言葉で話して、その栄光を国の皆に理解してもらい、分かち合いたかったという事です。「英語の傲慢さ」は、どうにかならないものかとその記事は結んでいました。
グローバライゼーションを既存の言語である英語が支えるなら、言語に付随する文化や思想も受け入れる事になります。英語スピーカーの『自分たちが支配者である』という思いをぬぐい去る事は難しそうです。もし、グローバライゼーションを無機質な功利主義的な世界としてもいいのなら、その言語も英語ではなく、もっと人工的な言語を作り、ただ記号としての会話をお互いに交換しあえばいいのです。
しかし、グローバライゼーションをもっと愛に満ちたものとして捉えるなら、例えその言語が英語であったとしても、その話されている英語の中にはその語り手(英語ネイティブではない話者)の違った文化が漂っている事を関知しなければいけない。特に英語ネイティヴは、それらの英語が単なる彼等が話している英語ではなく、「話し手の言語から翻訳されたもの」であることを感じ取らなければならないと思います。「愛」が必要なのです。違ったものであるが、それが「等価」であることを認識すべきです。決して英語への同化ではなく。
先に「英語スピーカーの自分たちが支配者であるという思いをぬぐい去る事は難しそうです。」と書きました。それを払拭する手段は何か。わたしは「愛」と書きました。スピヴァクは「想像力」と書いています。
マルクスの一節にこのような事があるとスピヴァクは書いています。「訳語を思い出さないでその言語を使えるようになり、それを使う際に祖先伝来の言語を忘れるようになったときにはじめて、彼はその新しい言語の精神を身につけたのであり、その言語を自由に使いこなせるのである。」―――翻訳者はまさしくこうあるべきでしょう、と。
彼女は、比較文学の教授です。そして、英国によって第一言語を押しつけられたインドの生まれです。「コミュニケーションの媒体は英語のままでいいでしょう。私たちは利便性を考慮して、英語と言う植民地主義からの贈り物を受け取ります。しかし、作品はさまざまな言語で書かれ、比較研究されなければいけません。」と、『ナショナリズムと想像力』の中で述べています。
少なくとも二つ以上の言語を学び、言語間の等価性を見つけ出すこと。そのようになされた比較文学研究によって鍛えられた「想像力」で「独占せよ」という魔法を解く。「グローバル」という感覚をつかむこと。わたしが理解できる限りでは、彼女はそのような事を言っています。比較文学の視点を導入することによって、民主主義の精神は強化されるでしょう、とも。
わたしたちは、せっかく英語を学んでいるのだから、文学とまではいかないまでも、いろいろな他国の人と接した時に等価性(違うものであるが同等の価値を持つということ)を訓練することでスピヴァクの言う『想像力』を鍛え、強い者が支配するグローバライゼーションを―――『違う』と否定する能力を持ち、愛に満ちた「地球」にしていきましょうよ。