2024年11月20日水曜日

ちょっと考えてみました。


 

現在、棋院と囲碁の同好会と、週一回のペースでで通っています。


わたしとしては、棋院のレーティングでの対局の方が性に合っています。同好会の友達は、「あんな陰気臭いところ嫌だ。」と言います。わたしが、棋院の方が気楽で良いと言うと、「えーっ!」と言います。


わたしは、棋院の対局者は何も言わないし、無駄なおしゃべりをしなくてもよいと。と言って、交流がないわけではなく、顔なじみの人も出来て気遣ってくれる方もいます。



それで思ったのですが、棋院はレーティング・クラスということもあって、全員が平等なのではないかと。同好会の方は、仲良し和気あいあいですが、上下関係が出来てしまいます。何かを争う同好会では、何によらず、どうしても上手な人と下手な人で上下関係が出来てしまうのではないかなあ~。


30数人いる同好会では、いろいろな人がいて、マウント指向の人もいるのです。対局途中に、その手はないと、わたしが打った碁石を返してきます。「うッ」と思って、投了してやろうかと思います。


紹介してくれた友達の手前もあり、強い行動はできません……のです。


なんで人が集まると上下関係ができるかなあ~。


囲碁界で女性が活躍できなかったのも、この目に見えぬ上下関係。AIの発展により、女性も(若い人も)一人でのびのびと研究できるようになり成績が伸びてきました。


わたしも、ひとり考えて囲碁研究に励みます。






2024年11月11日月曜日

『人はどう老いるのか』という本


 

この本は読んでいません。新聞の書評欄で見つけました。


最近、高齢者向きの本を多々見かけます。昔売れていた作家が、80代・90代になって自分の老いの生活を語ったりとか。たいていは、高齢になっても「若々しく、元気に暮らそう」というもの。


しかしこの本の著者は、それに反対のようです。著者は、高齢者向きクリニックで診察をしていた医師であり著述者です。


老いに抗おうとしても、結果的に抗しきれず高齢者の生活は「不満だらけ」のものになってしまうという主張です。できる限り死を遠ざけようとするよりも、老いとともに歩むこと、適当な時期に死を受け入れることーーーのようです。


書評では、そんな著者の思いに同意する人が多いので、この本が売れているのであろうと言っています。



大賛成です。。。


以前も書いたように、「身体の耐用年数を超えて生きているのは人間だけだ。」ということ。医学が進んで、生かして頂けるのはありがたいが、適当な時期に死なしてもらいたい。だから、病気のひとつは、治さずに残しておこうと思う今日この頃です。





2024年10月31日木曜日

思う事 ---②



 囲碁にはあまり関係ないですが、「思う事①」に続いて……、


一力が、久しぶりに囲碁世界一を奪還しました。逆転をものにするのが勝負強い中国の勝ちパターンだったのですが、中国囲碁協会主席の分析では、

「形勢がよくてもひよらない。明らかに日本の弱点を強化してきたイメージがある。」

です。


私が思うところでは(エヴィデンスなしの単なる思いです。)、日本・日本人には、オタク化あるいは何事も様式化する(様式美の追求)特徴があるのではと。

日本の棋士は海外勢に比べて囲碁を「芸」とみる向きが強いーーーとの観測もあります。


「井の中の蛙大海を知らず」という諺があります。が、このあとに「されど深さを知る」という言葉が続くという説もあります。


つまり、これがオタクだと。ガラ携だの日本のガラパゴス化という言葉がありましたが、この頃はあまり聞かれません。




その理由の一つに日本の「アニメの力」があると思います。日本あるいは日本人が、世界に受け入れられてきたのです。以前、アメリカのハリウッド映画のことを書きました。


世界は、アメリカの事を知らなかった。それが、ハリウッド映画の世界的席巻で、アメリカとは何かアメリカ人とは何かということが、知れ渡りました。「アメリカのコンテキスト」が世界に発信されたのです。


アメリカ人の変なところ(日本人と違うところ)が、「ああ、アメリカ人はそういう人たちだ。」と認知されたのです。(だから変な人たちではない。)


「日本のコンテキスト」も世界に発信されました。世界が日本人を理解してくれるようになりました。ここからが日本のチャンスと思います。理解された中で戦うのは、少し有利ですから。


これからが、大海を知らずに狭い事を掘り下げてきた日本が、世界に羽ばたくときです。日本基準が世界に受け入れられてきましたあ~。


上野愛咲美さんが、7番勝負で二日制にすれば虎丸も一力も井山も(敬称略)、中国勢に勝てると申しておりました。脳の体力が半端ないからと。


掘り下げてきたことが、稔る季節ですよ~。





2024年10月21日月曜日

『時間の謎』を読んで



『時間の謎』 ニュートンムック

 

 

「時間」にとても興味があります。が、量子論とか哲学の本を読んでもだいたい理解不可能な壁にぶち当たります。

 

今回は、ニュートンムックなので少々は理解できるかと。そして、「時間の問題」を物理学、生物学、心理学の方面から追究しているので、興味を引くところも多々あるかと。読んでみました。

 

ほぼ、今までに読んだことのあるような話でした(理解しているかどうかは別にして)。その中で、興味を引いたのは、「エントロピーの物理学」です。エントロピーは不可逆的だということ。

 

物理法則は、時間の符号の正負を逆にしても成立する。すなわち、時間の向きを判定することが出来ないということです。しかし、エントロピー増大の法則は時間の向きを区別します。エントロピーは、時間や生命等々の科学のさまざまな問題とも深く関係しています。―――ということです。



 

タイムトラベルとかパラレルワールドの問題も、相対論・量子論から語られています。この辺りはわたし的には保留として、他に興味があるのは生物学、心理学から見た考察です。

 

体内時計というものは、どんな動物、植物、細菌にもありますが、それは地球の周期と関連しているとのこと。だいたい24時間の周期に生物は反応し、行動していると。

 

各々の生物で、時間に関連している分子は違いますが、それは、各々の進化の過程で独自に体内時計を創造してきたからだといいます。ですから人の体内時計は変化していくかもしれないと言う事です。ライフスタイルが変化していますからね。

 

 

今回の収穫は、「エントロピー」の事と、この「生物学的に見た時間」という事でした。

 



 

2024年10月14日月曜日

思う事ーーー①



なんの「エヴィデンス」もない私の思いです。


9月に一力が、世界制覇を果たしました。囲碁の話です。19年ぶりの世界メジャーリーグで、優勝しました。 以前は日本が世界で優勢な立ち位置でしたが、今では中国・韓国の優勝者で占められています。


それが漸く日本復活の兆しが……。


多くのいごファンが快哉、雄叫びを上げました。が、世間的には無反応。藤井聡太さんの比ではない出来事ですよ。メディアは取り上げず、話題にもならず過ぎ去りました。


その後朝日新聞の囲碁将棋担当記者が、一文を寄せていました。オリンピックのフェイシングのように勝って話題になれば、次の世代が育つと。また、囲碁の見せ方も工夫して皆に判りやすいようにする。等々。



思うに一番の問題は、碁石に文字が書かれていないことです。将棋の駒やマージャン牌には文字や絵が描かれています。つまり石では感情移入が難しいということです。ただの黒い石と白い石を一つずつお互いに並べていくだけのゲーム。


抽象画と具象画のよう。具象画の方が取っ付き易いです。意味がすぐわかるから。と言って、具象画が単純と言っている訳ではありません。表しているものは、両者とも同じように深い。しかし、素人目には、ワカリヤスイ。判断を下しやすい(間違っていても)。


「取っ付きにくいものほどファイトが湧く」という人たちを育てていくことが肝要かも。。。





2024年10月7日月曜日

『タナトスの蒐集箱』ーーー耽美幻想作品集


 

前回に続き、「読んだわけではありません。」


新聞の広告で見ました。芥川龍之介や太宰治など幻想耽美小説のアンソロジーだそうです。メンバーを見ると、わたしの好きな作家ばかりですが何やら読んだものが多そう。


アマゾンを見てみました。


坂口安吾「桜の森の満開の下」/芥川龍之介「影」/江戸川乱歩「芋虫」/泉鏡花「浮舟」/折口信夫「身毒丸」/小栗虫太郎「白蟻」/谷崎潤一郎「刺青」/夢野久作「瓶詰地獄」/太宰治「駈込み訴え」/夏目漱石「夢十夜」


う~~~ん。八割がた読んだようなあ~。読んだけど覚えていないものもあるが~~~。

これだけの作品が一冊にまとめられているというだけで価値があるような気もするがあ~。



アマゾンのレヴューを見ましたところ、

「好きな方はもう見飽きた作品も多数入っていますので、バランスを考えて購入されることをお勧めします。個人的には買って良かったと思いました。」

とありました。


さて。。。





2024年9月30日月曜日

『サンショウウオの四十九日』


 

この本を読んだわけではありません。賞(これは芥川賞)を取った本はだいたい面白くないから(わたし的に)。でも、最近の『折々のことば』で紹介されていましところ…興味深いなあ~と。


「自分の体は他人のものでは決してないが、同じくらい自分のものでもない。」


鷲田清一氏によりますと、


「思考や記憶感情だってそうだと、『結合双生児』の一人、杏は言う。杏は5歳になってはじめてこの体を共に生きる瞬を見つけた。」

しかし、両親をはじめ周りの人は、そのことに気が付かないようです。

「もし人が誰かに見つけられることで『私』になるのだとすれば、誰の思いの宛先でもないのは、存在しないというに等しい。」


つまり、鷲田清一氏は、人は周りの人との関係性において存在しているのだと言っているのか?人は、人に見つけられない限り生きられないと言っているのか?ーーー彼が言っているのは、そんな単純なことではないとは思いますが……。



これに刺激されてわたしの妄想が広がっていくわけです。。。


誰かに存在を認められなければいけないの?ーーー人は、無の中では生きていくことが出来ないのか。


他の生き物を見ると、孤独に生きているものもある。例えば、ミミズなんかは土の中でひとり生きている。だからたまに仲間に会ったときに、生殖できるように雌雄同体なのだと聞いた。その時に、どちらかがオスになり、どちらかがメスになるのだ。


また、オオカミに育てられたヒトとかサルに育てられたヒト、ヤマネコに育てられたヒトというのが、極たまに話題になることがある。そのヒト達は、まわりの動物によって認められた存在(オオカミ、サル、ヤマネコ等々)によって「それ」になるのか。


そして人間に見つけられると、彼らは人という存在になる。


まあ、概ね生物は、おのれの存在などに気付いていないと思われる。ヒトは、「己の存在」に気付いてしまったので、複雑になり悩みも多くなったのでしょうネ。それが「吉」なのか「凶」なのか?



『サンショウウオの四十九日』読んでみようかなあ~。