和算とは、西洋式数学に対して日本で独自に発展した数学のことを言います。なぜ、和算のことを調べることになったかと言うと、英会話クラスのせいです。プライベート・レッスンなんですが。
英語を学んでいると英語以外のこともたくさんわかってきます。そのひとつは西洋文化と日本の文化の違い。そして、ほとんどの先生が、西洋文化を世界の標準と思っていること。簡単に言ってしまえば、マジョリティとマイノリティの典型的な差別構造です。もちろん、彼等はそんな意識さえありませんが。
そんな例は、たくさんあります。例えば、クリスマスがナショナル・ホリディでないことへの不満。交通標識が英語でない事への文句。英語が通じないことへの「あなどり」。などなど・・・。
その事について言えば、生徒達も同じです。英語を学び始めたばかりの生徒は、たいてい、英語の魔力に押されて、「おおッ、西洋偉大!」なんて感想をもらします。しかし、英語能力が上がって来て、上級のクラスに行くと、生徒達の態度、考えも変わって来るようです。つまり、自分自身を見つめ直すということなのでしょうか。
と言う訳で、わたしはいつも先生とやり合っています。議論の応酬です。
1853年ペリーが浦賀に遣ってきた時、日本の役人は正確に対応しました。それは、1543年にポルトガル人が種子島に漂着した時から、日本のグローバル化は始まっていたからです。先生の主張では、ペリーが来航してきた時に、日本は西洋文化の偉大さを知り西洋の科学技術などなどを漸く取り入れ始めたんだというもの。
「それは違う。江戸時代に幕府は鎖国政策を取っていたものの、西洋の知識は確実に輸入され、日本独自にそれを発展させさえしていたのだ。」
「そんなことはない。日本に科学的知識があった訳がない。ペリーが来て、あわてて取り入れて、技術を発展させたんだ。その努力は買うけどね。」
「日本に科学はまったく存在していなかった」という言い草に「カチン」ときて、バトルが始まりました(冗談レベルよ)。それで、先ずは『和算』です。一番英語で説明しやすそうだったから。あくまで、英語のレッスンですから。
数学の知識は西洋から輸入されたとは言えません。なぜなら、西洋の数学こそお粗末だったんですから(それを言えば全部か)。たいていは、メソポタミアかインドが起源です。日本の数学は、1872年に明治政府が「学制」を公布し、西洋式になるのです。和算は西洋の数学に対する呼び名です。
数学の知識は、遠く昔、遣隋使や遣唐使から伝わりました。その頃の中国はもう役人採用試験で数学の知識の有無をテストしていたんですね。ピタゴラスの定理も飛鳥時代には知られていたそうです。そこから、戦国時代など日本の政情は不安定でしたから、日本に平和と繁栄がもたらされた江戸時代から文化が花開いていきます。数学もね。西洋も中世暗黒時代のあとの繁栄ですから、同じでしょう。全世界的に1600年ころがそんな時代だったんですね。
1622年に『割算書』が刊行されました。それから、1627年、『塵劫記(じんこうき)』が、吉田光由により出筆されます。これは江戸の大ベストセラーになりました。内容は、両替商などに必要な実用的な物から、平方根、立方根などの高等数学まで。1641年には、『新編塵劫記」が刊行。この本は、答えを付けない問題が出題され、次回に回答という趣向も付され、江戸庶民の「負けじ魂」に火を点けたようです。この本の刊行は実に187年間も続きました。西洋に先駆けての日本の数学者の発見もあります。関孝和(1640?~1708)は、行列式の発見や円周率、三角関数を発展させ、17世紀に活躍した世界の数学者のベスト10に入っています。ニュートンやライプニッツと同格です。
「算額」は、絵馬の一種です。数学の問題と解答が絵馬に記され、神社やお寺の境内に吊るされ奉納されました。数学のデモンストレーションです。日本人らしく、いかに美しく回答できるかが競われました。もちろん庶民も参戦していましたよ。
今でも900以上の絵馬が残っています。その内のひとつにものすごいものがありました。それは、後にノーベル化学賞を受賞したフレデリック・ソディが1937年に発表した「六球連鎖の定理」がすでに書かれ奉納されていたのです。奉納されたのは、1822年、ソディの発見より113年前のことでした。詳細な解説本も別途出版されていました。
以上、研究発表でした。先生も「興味深かった。」と一言。
が、
「でも、地球が太陽の周りを廻っていたのは知らなかったでしょ。」って。
バトル第二戦の始まりです。
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