2014年5月31日土曜日

第三回 『Self-Reference Engine』



プライベート・レッスンの第3弾です。『Self-Reference Engine』は、円城塔氏の著作。エピローグとプロローグの他に20のショート・ストーリーからなります。第一部Nearsideと第二部Farsideと、それぞれ10作品ずつの構成です。それぞれのお話はショート・ストーリーとしても読めますが、基本的に時空間が破壊されてこんがらがった世界を描写する意図、お話はお互いに微妙に交叉しているとも言えます。つまり、20個の話から成るひとつの作品ということです。

 

日本語のオリジナルの本と英語に訳された英語版の本を同時に読んでおります。日本語の方は第一部まで読み終えましたが、英語の方はプロローグ『Writing』と第一話の『Bullet』のみ。先生にはそこまでのコピーしか渡してありませんので、そこで停滞しております。それだけの読書量ですが、考えたことが六つあります。

 

第一番目の問題点は、コンテキストについて。前回もWorld Literatureと複数形のWorld Literaturesについて書きました。単数のWorld Literatureはそれぞれの各国の文学で世界的な観照に耐えられる作品、そして複数形のWorld Literaturesは、ハリーポッターや村上春樹のように(わたしはそう思っている)世界の共通項のところで勝負しているもの。つまり、文化とか土着性とかそういうものに関係なく全ての人の共感を得られるものです。

 

しかしながらWorld Literatureと言っても、原文で読める人はともかく、訳文でしか読めないとなると、それぞれの文化の違い言語の違い意識の違いで微妙なズレが生まれます。その上、World Literatureの世界は、未だ西洋文学が席巻しています。日本の作品も徐々に英訳されてWorld Literatureの仲間入りを果たしてはいますが。人気は「三島由紀夫」のよう。または、大江健三郎とか安部公房、わたしの先生は夏目漱石を学んだと言っておりました。しかし、彼らは英語でそれらの本を読んでいます。ハワイでの英語学校の先生は、大学(サンフランシスコ)で三島由紀夫について議論した時、日本人の留学生と討論になったが、彼女に、「わたしが正しいのよ。だって、わたしは『日本語』で彼の作品を読んでいるのよ。」と言われたと言っていました。日本の大学の英文科でスタインベックの作品を日本語で読んで卒論を書くというようなことが許されると思われますか。

 

 

思うに、第一の違いはキリスト教と思います。西洋では話される言語は違っても、キリスト教という確かなバックボーンがあります。理解の基礎となるものです。そして、World Literatureが、未だ彼らのものである時、彼らの概念は世界のスタンダードとなります。近年、漸く『カルチャラル・スタディ』という概念が知られるようになってはきましたが、まだまだ、西洋は「唯一の西洋」という観念から抜けきれません。

 

しかし、日本の文学もワールド・リタリチャーあるいはワールド・リタリチャーズとして、英語に訳され、彼等がそれを読むことになると、真実は我々の側にあるという状況が生まれます。英語の文章と日本語の文書に齟齬がある場合、日本語が正しくて、英語の表現が間違っているということです。そんなこと当り前だと思われるかもしれませんが、その真実がなかなか受けいれられないのです。

 


 

Self-Reference Engine』の中で、「明後日(あさって)の方向」という表現が度々出てきます。わたしは、円城氏はこの言葉に惹かれてこの小説を書いたのではないかと疑っています。この「あさっての方向」は、例えば、「Bullet」にも出てきます。このお話は頭の中に弾丸が入っているリタという少女が、彼女に近づく者にめったやたらとガンを撃ちまくります。それは、まだリタが母親のお腹の中にいる時に、母親が誰かに撃たれ、その弾丸がリタの頭蓋骨で止まったもの。この時間が錯綜した世界で、彼女は、自分の頭の中にある弾丸を「ないものにしよう」と、母親を撃った誰かを、母親が撃たれる前に殺してしまおうとしているのです。その中での英訳の表現です。

 

“Rita,” Jay would say, “is shooting her bullets at the day after tomorrow.”

 

この「あさっての方向」は日本語としては、「デタラメ」という意味です。日本人としては、この言葉を聞くと「デタラメ」という意味として受け取る。そして、この時空間がでたらめになった世界では、そういうことも実際にありうると思う。そんな構造です。わたしたちは、瞬時にこのことを理解し、「にやっと」笑うことができます。

 

この場面の英訳はこのようになっています。

 

“Rita,” Jay would say, “is shooting her bullets at the day after tomorrow.” He said it like he was sure of it.

 

That’s the way it is. No target, that’s just the way it is.

 

“Of course that’s not what I meant,” Jay would say without even looking this way. “Rita’s just having a shooting match with somebody in the future,” he went on.

 

 

日本語の方の本を読んでいると、日本語独自の表現が多々見られます。例えば、鯰がよく出てきます。なぜここで「鯰」を使うのか、作者の意図はまだわかりませんが、「瓢箪鯰」から来ているのかなとも思います。鰻の話もありました。備長炭で焼くとか、鰻の故郷はひとつとか。敷島という人物もでてきます。こんな日本の言い回しがどのように訳されているのか……今後の楽しみというものです。






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2014年5月25日日曜日

昨日の出来事


一年ほど前、自宅をちょっとだけリノベートした。台所からの続きでウッドデッキ(しかし、ウッドではない)と小さなサンルームらしきものを付け加えた。台所からでると3畳ほどのサンルームに繋がり、その正面は窓であるが、左右にガラス戸があり、その両方からデッキに繋がるという体である。デッキも左右に3畳ほどずつである。

 

最近は陽気が良くなってきたので、ガラスのドアを開け放している。そこには、大判のスカーフがカーテンの代わりに垂れ下がっていて、左右のドアを吹き抜ける風に揺れているというより、舞い上がっている。

 

去年は、初めての自然とのふれあいだったので、虫が家に入って来るのを神経質に追い払っていたが、今年はスッカリ諦めた。これが自然というものだ。自然を人間の力で食い止めることはできないのだと思い定めて、今年は気にしないことにした。少しくらい蚊に刺されてもどうということはないだろうと思う。

 
 
 

しかし、きのうはハチが入ってきた。わたしはハチが一番苦手だ。二回ほどハチの群れに(といっても10匹程度)襲われて、一回は刺された。そのトラウマもあるがそれ以上に恐怖なのは、ハチは三次元で攻めてくるということ。つまり、飛び回っている。地上の敵なら、一方向からの攻撃なので、こちらも対処しやすい。

 

わたしは、ゴキブリと蚊以外の昆虫は殺さない。そのわたしの家に侵入してきたハチにも十分に脱出のチャンスは与えたと思う。家の中に入って来ないように台所とサンルームの境の戸は閉めたが、左右の外に繋がる戸は開け放して、どうか早く出て行ってくれと、唱えていたのである。しかし、出口が見つからないようでなかなか出ていく様子がない。四方がガラス張りなのでウロウロしている。「君が刺さないと約束してくれるなら、そちらに行って助けてあげよう」などと言ってみたが、その確証はないのでやはり見ているだけにした。

 

 

人は、自分が生物だということを忘れかけている。そして、他の生き物も生物だということに無頓着になっている。このハチの行動を眺めていると、彼等も万能の力強い存在ではないとわかる。人類より長く生存している昆虫類は、叩いてもなかなか死なないし、脚が一本くらい取れたって、それなりに生きている。けれど、彼等もお腹は空く。そして、そのエネルギーの補給がなければ死んでしまう。眺めていると、エネルギーの消耗を減らすために飛ぶのをやめたのがわかる。窓ガラスを這い始めた。

 

早く出て行ってほしかったが、ずっと眺めているわけにはいかない。わたしには出かけなければいけない用事があった。それで用心もわるいので、ハチを避けてサンルームに入り、左右のガラス戸を閉めた。昨日はすごくよい天気で、戸を閉めると風も止まり、サンルームの中は、まるで地獄のような暑さになった。いくらハチといえども、この暑さの中で生きていけないであろう。わたしは、「君には脱出のチャンスがあったんだよ。そのチャンスを逃した君がいけないんだ。」と、自分に言い聞かした。そして、台所の境の戸も静かに閉めた。

 

前にも一度ハチではないがハチ程の大きさの虫が侵入し、止むにやまれず閉じ込めたことがある。翌朝見ると、死んでいるかのようにうずくまっていた。しかし微かに動いている。どうしようかと考えた。はじめに翅をピンセットで掴んで外に逃がそうと試みたが、どういう訳かピンセットでは翅を掴めず、スルスルと滑ってしまう。それで他に何かないかと引き出しを探っていると、油絵のペインティング・ナイフがあった。そのナイフを虫の胴体の下に差し込んですくいあげて外に出そうと思った。それがなかなか難しく、差し込んでは、虫が逃げ出すという追いかけっこ。しかし、数回同じことを繰り返していると、虫自身が脚でペインティング・ナイフを掴んだ。ちょうどナイフの上に虫が乗っかった状態だ。わたしは、そのままそおっと立ちあがって、外に虫を置いた。虫は、とことこと歩き始めた。虫が「助かった」と思ったかどうかはわからない。

 

この経験があったので、このハチも明日の朝、弱ったところで外に放してやればいいやとも思ったのだ。今朝見ると、以前の虫とは違いハチは仰向けになって死んでいた。それでも、昆虫を侮ってはいけないと、ハチがいつ飛び出しても避難できるようにそっと近づいてみた。やはりハチは死んでいた。わたしは、やさしくハチをつかんで、外の草むらに置いた。自然の中に帰れるようにと思った。






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2014年5月24日土曜日

円城塔氏のことから…


最近しつこくSelf-Reference Engineのことを書いていますが、今回はその作者の円城氏についてです。彼の経歴をみると、なんだか興味深い。北海道出身で大学は東北大学理学部物理第二学科です。この時、SF研究会に所属していたとのこと。同大学を卒業後、東京大学の大学院に進みますが、物理ではなく、総合文化研究科博士課程を修了しています。「学術」の博士の学位を取得。

 

その後、北海道大学、京都大学、東京大学で博士研究員として働きますが、34歳の時、次年度の研究費と給料を得る見込みがなくなり転職。企業のウェブ・エンジニアになるも2008年に退職し、作家の道に邁進します。

 
 
 
 

話はコロっと変わって、わたしが興味を持ったのは、この「博士研究員」というもの。以前、化学か物理関係の本を読んだ時、その著者が「渡り研究員」(彼はアメリカの大学を転々としている模様)で、身分が保障されておらず、自分で本を書いてアピールしているのだと書いているのを見ました。その著者の名前を失念しておりスイマセン(彼に)。

 

その時はじめて、研究員と言うのはたいへんな職業なんだと知りました。研究員は、大学で研究に携わるたいそう難しそうな職業なので、お給料も身分も格段に保障されていると思っていました。世間の認識はそうだと思うのですがいかがでしょう。しかし、彼らは、研究が上手くいかないとか必要がないとなれば、ばっさり、企業か政府かは存じませんが、切られてしまうのです。研究費をカットあるいは研究そのものも打ち切りとなってしまうのです。せいぜい2~3年の契約社員(?)なのです。

 

 

最近ジム友達ができて、彼女のお嬢さんが京大の研究員と聞きました。彼女が言うには、30歳にもなるのに、身分も保障されていないいつ首になるかもしれない状態なんだと、嘆いていました。

 

わたし、

「聞いたことある。渡り研究員って言うんでしょ。本で読んだわ。でも、執筆とかして印税生活という手もあるでしょう。」

 

彼女、

「よく知っているね。でも、彼女に執筆なんてむりよ。この前、娘から電話が掛かって来て、助教というポストに就けるかもしれないって。それに就ければ、一応少しは安定するかもと言っていたの。」

 

そのポストは、三人の人が立候補したそうです。一人は、男性で既婚。子供もいるそうです。もう一人は彼女のお嬢さんより若い女性。そして、彼女のお嬢さんと言うこと。テストありいの、プレゼンありいの…、結構大変な選考過程のよう。若い女性のことは大丈夫と。彼女よりはキャリアがあるし、プレゼンも上手くいったと聞きました。最終選考に残る手ごたえはあったそうです。この選考に漏れれば、彼女の契約期間はあと一年で、次の研究所を探さなければいけません。

 

で、結果は、男性がポストを獲得しました。何か、胡散臭い臭いが漂うな~~~。男性で、結婚していて子供もいて扶養家族がいっぱいという状況。「男には家族を養う責任がアル」というような俗説。彼女のお嬢さんは「女で30歳で独身」ですからね。彼女は、動物の糞を採集して研究し、その動物の生物的周期を解明するというお仕事です。その関係の教授が、彼女を研究室に呼び寄せてくれるかもしれないということでした。最後の綱です。

 

 

それで思い出すのが、小保方さんです。彼女は大学の研究室ではなく、企業に属していますが、事情は似たようなものではないのかな~~~、と推測します。週刊誌の見出しではありませんが、なんだかドロドロとした現実がありそう。このシステムも競争社会を作りだし、労働効率を上げようと意図するアメリカの『陰謀』だそうですよ。日本は15年ほど前からこのシステムを採用したと何かで読みました。
 
 
あいまいでスイマセン。






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2014年5月23日金曜日

『Self-Reference Engine』 (2)


プライベート・レッスンの第2弾、『Self-Reference Engine』は、無事に着地いたしました。先生も「おもしろい」と言うことで引き続き、この本でレッスンを続けて行くことになりました。まあ、先生のリアクションが真実かどうかはわかりませんが・・・。

 

でも、今回の先生は、今までの先生と違いとてもhumbleです。あまり英語スピーカーのaggressiveなところに突っ込んで言うと「スイマセン」と言うので、どうかなと。つまり、こちらがaggressiveになれない状況になってしまいました。

 

しかし、今回言いたいことが一つあります。この本を選んだ理由は二つあるのですが、ひとつは、円城塔氏がフィリップ・K・ディック特別賞をアメリカで取ったということ。ディックはわたしの大好きな作家なのです。円城氏のこの本に今回接したところ、なるほどフィリップ・K・ディックの賞に相応しいと感じました。それが一つの理由。

 

そしてもう一つが、日本語の本が英訳されてアメリカで賞を取ったということです。つまり、日本語がコンテキストであるということ。このことを主張すると、彼が申し訳なく感じるかもと。他のアグレッシヴな先生なら、自分の説を開陳するのになんの考慮もしないんですけれどもネ。

 
 
 

 

以前、「ワールド・リタリチャーと複数形のワールド・リタリチャーズ」について書きました。ワールド・リタリチャーはそれぞれの各国の文学で世界的な観照に耐えられる作品です。そして、それらの国々の作品が日本語に訳される時、日本語とその言語との微妙なニュアンスの違いは、日本語では訳しきれません。そんな作品をわたしが読むとき、その真実は彼らの側にあるのです。それが、英語の場合、先生達は訳された日本語が間違っていると、指摘します。まるで、文化の違いを考慮に入れず…、「だから、日本は」という感覚です。

 

訳された日本語が間違っているわけではないのです。日本語に訳しきれないということです。同じ表現方法がないということです。英語以外の文化圏では、いつもお互いの文化の違いを比較しているので、そのような独断的な解釈にはなりません。つまり、英語が、「今」世界でドミナントな位置にあるので英語が(英語の表現が)いつも正しいというような雰囲気になっている状況です。

 

しかし、日本の文学もワールド・リタリチャーあるいはワールド・リタリチャーズとして、英語に訳され、彼等がそれを読むことになると、真実は我々の側にあるという状況が生まれます。英語の文章と日本語の文書に齟齬がある場合、日本語が正しくて、英語の表現が間違っているということ。そんなこと当り前だと思われるかもしれませんが、英語スピーカーたちはなかなかこの真実を受け入れることが難しいようです。

 

 

Self-Reference Engine』の中で、「明後日(あさって)の方向」という表現が度々出てきます。この本の根幹は時間軸が崩壊し過去も未来もぐちゃぐちゃにこんがらがっている状況で話が展開しています。だから、「明後日の方向」というのは、文字どおりの意味で理解されうるということですが、日本語としては、「明後日の方向」とは、「デタラメ」という意味を含んでいます。この二つの意味が相まって、日本語での本は話に厚みがでています。が、英語では、意味が一つとなります。先生に確認済みです。英語にはそんな表現方法はないと。

 

あるいは、主語を明確に表現しない日本語でも我々は、何が主語かわかりますが、訳された英語では、主語が間違っていることがあります。そんないろいろな間違いに、「真実は我々の側にある」と主張できる幸せ(倒錯してますね、わたし)。とにかく、わたしが言いたいことは、文化の違いを謙虚に受け入れること。我々は、パーフェクトにお互い理解し合えないのです。それは、時間軸が狂った世界で、お互いが別々の違った方向に進んでいるのと同様に、時間軸の狂っていないこの現実世界でも、我々の意識は必ずしもリンクしないのだという事実。

 

つまり、我々はひとりひとりが、常に異次元の世界に住んでいると言えるのでしょう。






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2014年5月17日土曜日

「犯罪の許し代」


前回、『自由か、さもなくば幸福か? ―― 二一世紀の<あり得べき社会>を問う』という本(の書評)について書きました。その中で、「全ての人間の身体にGPS機能付きのチップが埋め込まれている社会では、全ての人の行動が記録されるので犯罪がなくなるだろう。警察官とか政治家、その他の権力者の身体にもチップが埋め込まれ、それがコンピュータ管理されているので、彼らの横暴な権力行使も抑制できる究極の監視社会だ。監視社会で自由がなくなると言われるが、なくなるのは、『罪を犯す自由』だけではないのか。」と書かれていることを紹介しました。

 

そこで、わたしも「全ての人が…、一人残らず制御されてしまえば、犯罪の余地はなくなり、コンピュータが神となって、全てをコントロールしてくれたら、人類は平和に暮らせるでしょう。」と同意しましたが、それから2~3日考えて、今は、「いや、待てよ。」という心境に変わりました。

 

第一、罪を犯していない人などいません。もしくは、我々は毎日罪を犯しながら生きているともいえるでしょう。精神的な事を言っているのではありません。単なる、日々の行動のことを言っているのです。一番卑近な例を取れば、車の運転です。自動車を運転して、一度も交通違反をしていない人などいないでしょう。日常的にスピード違反をしているし、ちょっとした用事をすませるために違法駐車もするだろうし、「止まれ」の停止線をはみ出して止まったことだってあるでしょう。少し考えただけでも、日々「いっぱい」の罪を犯しています。

 

それくらいの罪は犯罪ではないという向きもあるかもしれませんが、頭にチップを埋め込まれた身となれば油断はできませんよ。コンピュータは「必ず」それら犯罪と認識するでしょうね。だって、彼らには「許しの糊代」がないのだから。ただ引かれた線のこちら側か向こう側かなのですから。

 

つまり、人にとっては、「罪を犯す自由」も必要なのです。犯罪のアロウワンスが人類の進化の源と言えるのかも…と思います。犯罪と正義の戦いの内に人類が進化しているのです。だから、頭にチップを埋め込まれての監視社会になれば、全てが整頓された平和な日々を人類は手に入れるかもしれませんが、それは本当に平穏な何も起こらない停滞状態でしょう。もちろん、前回書きましたように、それはわたしの理想とする「ハチやアリ」の世界の出現です。

 



 

なんだか矛盾したことを言っているようですが、わたしの言いたいことは、人類がこれからもこのような競争社会の形態で進化していきたのなら、四角四面なコンピュータに自分の頭を任してはいけないということです。しかし、違う形態の進化が必要ならコンピュータに頭を委ねてみるのも一考かと…。近代に西洋で編み出された「自我」とか「自由意志」の概念を捨て去って、宇宙の中のひとつの存在として停滞に身をユダネテみましょうよ。

 





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2014年5月11日日曜日

『自由か、さもなくば幸福か?  二一世紀の<あり得べき社会>を問う』


名古屋大学大学院法学研究科教授、大屋雄裕氏の著作です。新聞の書評欄で見ただけで、実際の本は読んでいません。書評によりますと、全ての人間の身体にGPS機能付きのチップが埋め込まれている社会を想定して、その状態で人類はどうなるかの考察のようです。著者は、「案外」幸福な社会かもしれないと言っています。全ての人の行動が記録されるので犯罪がなくなるだろうと。また、警察官とか政治家、その他の権力者の身体にもチップが埋め込まれていて、それがコンピュータ管理されているので、彼らの横暴な権力行使も抑制できるとのこと。究極の監視社会です。監視社会で自由がなくなると言われるが、なくなるのは、「罪を犯す自由」だけではないのかと推定しています。



 

この本の書評を読んで、津田大介さんが言っていたことを思い出しました。津田さんはIT関係に肯定的な意見の持主です。時代の最先端のテクノロジーの解説などもしています。それで、スマホの話。今、wearable 携帯の時代が来ています。腕にはめるとか、メガネに付帯しているとか、そんなような事の解説をしつつ、津田さんは、「その内、みんな頭にチップを埋め込むことになるでしょうね。」と発言されました。

 

その時は、わたしは「オイオイ、それでいいんか。」と思ったんです。と言うのは、ハッカーがいるじゃないですか。コンピュータ制御の車でさえ、ハッカーによれば、乗っ取られてしまう世の中ですよ。ハッカーに頭の中まで乗っ取られてしまうじゃないですかと。

 

でも、そこで「そうか!」と思いました。全ての人が…、一人残らず制御されてしまえば解決です。犯罪の余地はなくなります。コンピュータが神となって、全てをコントロールしてくれたら、人類は平和に暮らせるでしょう。まるで、竹宮恵子の『地球(テラ)へ』ですね。その他のSF小説でもこんなシチュエーションはままあることです。まあ、90%の人類の日常生活にとっては、こんな監視なんてなんの影響もないでしょう。日々、平和に楽しく平穏無事に、なんの感慨もなく暮らしていけると思いますよ。

 

それ以上に、全ての人の頭の中にチップが埋め込まれれば、考えるだけで人と話ができるかもしれません。テレパシーです。そしてそこでは、言語の問題もなくなるでしょう。全ての人が一瞬で意思の疎通ができる世界―――わたしが理想とする「ハチやアリ」の世界の出現です。女王蜂がコンピュータと言う訳です。一人一人は、何も考えることなく、頭の中に浮かんでくる指令を受けて毎日をすごせます。

 

 

近代に西洋で編み出された「自我」とか「自由意志」の概念は打ち砕かれるでしょう。西洋啓蒙主義の敗北です。人類の発展の歴史にとって、そういう概念は必要だったかも知れない…、が、さらに人類が発展する為にはじゃまな概念になってしまうのかも。そこで、もしこの進化があるべきしてあるのなら、思うのは、「ヒトってなんなのだろうか」と言うこと。

 

「人類よ、進化せよ」という生命の命令に従って繁栄してきましたが、振り返れば、人の魂とか自我なんて、そのために「脳」が創りだした幻かもしれません。さて、そんな世界はユートピアなんでしょうかディストピアなんでしょうか。






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2014年5月10日土曜日

『SELF-REFERENCE ENGINE』 ―― 円城 塔


前回のUPで、英語のプライベート・レッスンは新しい先生になったと書きました。それで、どういう風に学んでいくかを考えています。なんで、生徒のわたしが考えなければいけないのかの疑問はありますが。。。でも、考えなければ、適当にあしらわれるだけだから、です。

 

前回に考えたのは、

MURDERER –A Play in Two Acts   Anthony Shaffer

The Martian Chronicles        Ray Bradbury

KWAIDAN                          Lafcadio Hearn

And

Vermillion Sands                    J.G. Ballard

でした。

 

それで、『マーダラー』に前回はしました。

 

で、

 

今回は、バラードの『バーミリオン・サンド』にしようかなと。というのは、この本はほんとに、昔昔買った本ですが、わたしの大好きな本です。原本の英語版と日本語翻訳のものを持っています。しかし、少々難しい。ディスカションまでいけるかが疑問です。

 

それで、どうしようかなあ…、と思っていると、ある記事が目に留まりました。朝日新聞です。芥川賞候補になった円城さんの『Self-Reference ENGINE』が米国の文学賞、「フィリップ・K・ディック賞」で特別賞を受賞したというもの。

 

ディックはわたしの大好きな作家です。1960年代の作家ですが、今でも、いろいろな映画の原作になっていますよ。シュワちゃんの『トータル・リコール』も彼の作品です。ほんとは、原作は、5ページほどのショート・ストーリーなんですが…。あと、『ペイ・バック』とか、ほんとにたくさんの映画があります。彼の原作と意識されていなくても。

 

それで、アメリカで受賞したのなら、英語に翻訳されているんだと思い、アマゾンで検索すると、たしかにありました。ちょっと良くありませんかあ。。。と言うのは、今までは、英語の原作を日本語で読んでいたのが、日本語の原作を英語で読むということ。日本語がどのように英語に訳されるかというところにも興味があります。そして、自分自身、英語を話す時に、どのように言うかの勉強になるかもと。

 




 

内容は、日本では芥川賞なので「純文学」ですが、アメリカでは、フィリップ・K・ディック賞なので、SFです(ディックは、自分をSF作家とは思っていなかったらしく、いつもSF雑誌にしかフューチャーされないことに悩んでいたようです。彼は、メインストリームの文学に憧れていたようです。)。

 

少しだけ読んだところ、時間律が滅茶苦茶になってしまい、過去も未来もゴチャゴチャに進行している世界の話のようです。ある時点で会った彼女とそれぞれに時間的に反対方向に進んでいる彼の話……、でもわかりません、ほんとに、物語を一つ読んだだけなので。

 

 

この話を先生が理解できて、話合いまでいけるか疑問ですが、とりあえず、これでプライベート・レッスンを進めて行こうかなと、思っています。

 
 






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2014年5月5日月曜日

『MURDERER---A Play in Two Acts』 Anthony Shaffer



プライベート・レッスンの先生が変わりました。前のカナダ人の先生は「首」になりました。学校のオーナーはどうしても彼の傲慢な態度が許せなかったようです。我々2~3の生徒にとっては、そんなことはどうでもよくて、優秀な先生なら良かったのですけれども。まあ、優秀かどうかはわかりませんが、ちゃんと打てば響く先生でした。それから、へそ曲がりなわたしにとっては、「なまいきな先生」の方がやり甲斐がありました。ファイトしがいがあって、燃えますからね。

 

と言う訳で、新しい先生はイギリス人のMr. Millerman (あだ名です)。以前の先生は、歴史が専門でしたが、今回は文学のよう。それで一回目は、アンソニー・シャファーのマーダラーを取り上げてみました。この本に関するプレゼンです。

 


 

 

Anthony Shaffer の名前を知ったのは、ずいぶん昔のことです。若かりし頃、『探偵 Sleuth』というイギリス映画が、日本にやって来ました。主役はローレンス・オリヴィエとマイケル・ケイン。二人とも名優です。その後、この映画は、マイケル・ケインの役をジュード・ロウが演じ、年を経たマイケル・ケインがローレンス・オリヴィエの役を演じました。ちょっと面白い趣向でしょ。それで興味を覚え、彼の本をもう一冊買ったという訳です。

 

その本がMURDERER です。前に一回読んでいるのですが、二回目に挑戦しました。英語の読書会をやり始めてから、英語の本をじっくり読む癖がつき、英語の読解力が進歩しました。以前わからなかった所がすんなり理解できて嬉しい~。単語力も以前に比べてついているのでかもしれません。

 

いっこうに、本の内容に話が進みませんが、推理劇というか筋を話してしまうと、これから読まれる方には興ざめとなってしまうと思い、どこまで言っていいんだろうかと。

 

簡単に配役を言いますと、CASTは4人です。そして二幕劇です。Bartholomew という画家、その若き愛人Millie、そして、妻のElizabeth。それから、Sergeant Stenning。劇は、最初のセリフ “Open up. Police” と叫ばれるまでに、30分必要と書かれています。その30分の間に悲劇的な事が起こる訳です。無言の中で。なにが起こったかを記述すること自体、なんだかためらわれます。

 

大まかな内容は、いつもの如く平凡な妻と夫と愛人の愛憎模様と言うところですが、シチュエーションが二転三転し、話しに引き込まれてしまいます。愛人のミリーは二十代前半の女性、妻のエリザベスは40歳くらいと書かれていました。バーソロミューは何歳かの記述はありません。バーソロミューは画家ですが、超一流とはいかないようです。エリザベスは、婦人科の医師で賢い女のようです。そんな賢い女がなんで「ばかな恰好だけの男に惚れるかね」、というところがみそのよう。そして、愛人も若くてかわいいノータリン。

 

そうそう、これは書いても良いでしょう。バーソロミューは、殺人とか殺人者のことに異常な思い入れがあり、過去の有名な犯罪者を崇めています。それで、いつも過去の犯罪を模倣して犯罪ゴッコをミリーとしています。そんな彼にエリザベスは愛想を尽かしていますが、なぜだか別れられない。バーソロミューはそんな妻を疎ましく思い、殺人の計画を立てますが、それが上手くいったかどうかは、この本をお読みください。彼は、彼の崇める犯罪者リストに載るようなことができたのでしょうか~。

 

これは戯曲ですから、当然セリフのみの構成。イギリスの本らしく、その会話は皮肉に満ち溢れていて、読み応えがありますよ。英会話の先生に皮肉の一発でも言いたい方には参考になるカモ。おススメします。

 

 






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