先月、トピックを発表する英語のクラスで「オランウータンに『人権』」という記事について話すつもりだと書きました。次の木曜日がその日です。それで、英語でどのようにこの話を組み立てようかと考えていたところ、『動物が幸せを感じるとき』という本を思い出しました。
今回わたしが選んだ記事は、「オランウータンに『人権』」ですが、結局これは人類を基本においているということです。人類に近い類人猿を救うための方策です。これはどうなんでしょうね。東洋の思想とは相容れないと思いますが。東洋思想では、自然(自然界の生き物)と人間は対立関係ではありません。人間もその一部を形成する一分子です。
また、アメリカの哲学者にも触れました。その人物はちょっとあやふやですが、リチャード・ローティでは。ローティは、自らを「リベラル・アイロニスト」と称しています。彼は、「人間より能力のある類人猿は、彼等より劣るとされる人間よりも権利を与えられるべきだ。」と言っています。つまり、人間かあるいは類人猿かの境界線よりも、どちらに能力があるかでその優劣を定めるべきだと言う事。(違う人だったらゴメンナサイ)。彼の場合もやはり世界を人間中心に描いています。
アメリカ・ニューヨーク州の3つの裁判所に「チンパンジーを法的に人間と認めて」という訴訟を申し立てている動物愛護協会があります。その根拠は、ニューヨーク州が、かつて奴隷たちが自らの立場に異議を申し立、自由を獲得する為に使った「人身保護法」の原則に基づいています。人身保護法とは、法律上正当な手続きによらず身体の自由を拘束されている者を裁判所によって迅速に救済させるための制度について定めた法律……だそうです。
以上は、前回書いたものの焼き直しです。そこで、話は最初に戻って、『動物が幸せを感じるとき』という本の事。著者は共著です。この本を読んだ時はあまり気にしていませんでしたが、著者の一人はテンプル・グランディン(アメリカ人)といい、アスペルガーです。自閉症の彼女は、努力して大学院まで進み動物学の研究者となりました。ということで、共著者が必要だったのかなと思います。自閉症であるために、他の動物の感情の代弁者・翻訳者となれたのでしょうか。
彼女の考えは、「人間は動物の支えを受けて『人間』たりえている。」ということ。食料にされる動物と人間との関係は「共生」としています。そのため、人間は彼らの感情を尊びそれぞれの動物が気持ちよくその生涯をまっとう出来るように考慮しなければいけないと。彼らとは、犬、猫、馬、牛、豚、鶏などですが、野生動物や動物園の動物たちのことに触れた章もあります。そのそれぞれの種の特徴を把握し(怒り、恐怖、パニックと欲情、保護、遊びの七つの情動を尺度に動物を観察する)、彼らと円滑な関係を結ぶのです。特に、牛、豚、鶏など食料として育てられている動物の項では、如何に彼らを恐怖心なく屠殺すかが重要だと述べられます。
この本の「あとがき――わたしが今でも精肉業界で仕事をしているわけ」では、「どうして精肉業界に反対する活動家にならずに、今でも業界で仕事をしているのですか。としょっちゅう尋ねられる。」と、告白しています。彼女の理由は、彼女が畜産関係の仕事を始めた1970年代に、5年間、先進的な管理者や作業員から、敬意と愛情をこめて牛を飼育し、扱うことを教わったからです。もっと悲惨な状況の精肉工場であったなら、職業人生は変わっていたであろうと。これらの人々に接して、肉食をやめるように説得する仕事ではなく、業界を改善する仕事に就こうと彼女は考えました。
この本を紹介して…何なんですが、彼女の考えには、わたしとしては、しっくりいかないところがあります。この一文をどう思われますか。
「私は長年の間じっくり考えて、食料にされる動物と人間との関係は、共生に違いないという結論にいたった。共生とは、ふたつの生物のあいだで相互に恩恵がある関係だ。人間は動物に餌と棲みかを与え、そのお返しに、繁殖牛が産んだ子牛のほとんどを食料とする。」
彼女の考えでは、食肉工場にいる牛は、人間が繁殖したもので、人間が手を掛けなければ一頭たりとこの世に生を受けなかったのだということ。近代的な処理工場より、野生で死ぬ方が強い痛みとストレスを感じる事は、しばしばある。だから、ストレスなく処理工場で死ぬ方が彼等にとっては幸せなんだ――という理屈です。
世界人口70億人余。これだけの人々を養うためには、人間の手により動物を繁殖させ、食料に供しなければいけません。そんな、動物たちにも幸せな安らかな死を与えようとする彼女の考えは「理解は」できますが、それでいいのかとも感じます。「共生」などと言わず、明らかに搾取であると自覚すべきなのでは。その上で、我々は人間として、どのように振舞わなければいけないのかを考えて行くべきと思います。
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