2016年8月26日金曜日

ネアンデルタール人


わたしたちは、ホモサピエンスと呼ばれています。ネアンデルタール人は、人の亜種ということになります。詳しくは知りませんが、類人猿でもチンパンジーとゴリラの違いほどと言うことでしょうか。あるいは、もっと近くてチンパンジーとボノボくらいの差でしょうか。

 

現在の地球では、人の亜種はすべて死に絶え、ホモサピエンスが唯一のヒト科と言うことになっています。アフリカでホモサピエンスが登場したのは、20万年くらい前でした。誕生直後の我々の祖先は、2万人程度とされています。今のエチオピア付近の出来事です。彼らは、その後、12万年前くらいにアフリカ脱出を計りました。対岸のアラビア半島への旅立ちです。

 

この時、人類はネアンデルタール人に遭遇しました。彼らは北欧で発生しました。60万年から50万年前にホモサピエンスとネアンデルタール人は同じ祖先から枝分かれしたとされています。この第1回目のホモサピエンスの冒険は失敗に終わりました。北欧育ちのネアンデルタール人の方が大きくて逞しかったのです。アフリカからの脱出はできませんでした。

 

第2回目の脱出計画は成功しました。約6万年前のことです。飛び道具の発達がネアンデルタール人に優った…とか。もうひとつは、ネアンデルタール人が北欧からアラビア半島に攻めてきた時、狭い渓谷を通らなければならず、ホモサピエンスはそこで待ち伏せして相手を負かしたとも…。彼らとの戦いに勝ったヒトは、そこから世界中に散らばっていったのです。

 

 

ネアンデルタール人は絶滅したとされています。しかしながら、ヒトのDNAの中に彼らの痕跡が見つかりました。その記事を読んだのは何時のことか…、忘れてしまいましたが、多分数年前です。衝撃を受けたことを覚えています。我々仏教徒には、そこまでの衝撃はないでしょうが、キリスト教徒はどうかと考えると、興味深いです。なにせ「神に選ばれた」人々なのですから。その身体の中にヒトでないものが含まれているとは。当時、英会話の先生にこの話をしても誰も信じませんでした。今は、彼らも諦めたようです。科学の勝利ですね。

 

つまり、ホモサピエンスとネアンデルタール人は交雑していたと言うことです。しかし、ハイブリッドは生まれませんでした。そこまで遺伝子が類似していなかったということでしょう。が、人のDNAには2~3%のネアンデルタールの痕跡が残されています。アフリカに脱出した後の話ですから、アフリカ人にはネアンデルタール人のDNAは見られません。現在では、他の<亜種・人>のDNAがヒトから見つかっています。アジア・インドネシア付近では、ホモ・フローレンスが住んでいたことがわかっています。彼らは、身長1メートルくらいの小人族で、その付近の住民からはホモ・フローレンスのDNAが検出されます。アフリカ人の中にも数種の人類亜種のDNAが見つかるだろうと科学者たちは推測しています。

 



 

前置きが長くなってしまいました。そこでわたしが興味あることは、なぜヒトはネアンデルタール人を駆逐することが出来たのだろうかと言うことです。いろいろな説があります。ひとつは、ネアンデルタール人の出産周期が短かったこと。彼らは子どもが幼い時に独立を促すので、文化の継承が出来なかったからではないかと言うもの。

 

最近見かけた本の書評欄に『ヒトとイヌがネアンデルタール人を絶滅させた』という本がありました。その書評によりますと、「これまでの定説では、彼らは2万数千年前に絶滅したということになっていた。しかし、最近、4万年前に、しかも短期間のうちに絶滅したと言う新説が有力になった。」とあります。

 

彼らが絶滅したのは、ヒトが彼らを殺戮したからではないとのこと。その痕跡も見つかっていないそうです。人類が彼らを滅ぼした原因は、我々が彼らと同じ生態系に侵入したからだと。彼らと同様に大型動物を狩猟する人類が出現した事が、生態系を狂わせ、ネアンデルタール人にとっての脅威となった。そして、人類が狩猟のパートナーとして「オオカミイヌ」を家畜化していたことが、原因であると。この本の著者によると、我々が「インベーダーである」と言う。生態系の中で頂点捕食者として君臨する我々は、「他の種に対する役割と責任」を果たすべきだと、彼は主張しています(例の如く本は読んでいませんが)。

 

もう1冊あります。『人類進化の謎を解き明かす』という題名です。著者によりますと、人類が発展したひとつの原因は、集団形成の上手さであると言うこと。そのための「言語・祭式・宗教」など。そしてまた、わたしが興味あるところでありますが、ネアンデルタール人が絶滅し、現生人類が生き残ったのかの問題にも言及しているようです。

 

ネアンデルタール人は、日差しの弱い高緯度地域(ヨーロッパ)で暮していた為、視覚系(後頭葉)を発展させなければならなかったが、そのために言語機能に係わる前頭葉は大きくならなかった。後から来た現生人類は、日差しの強いアフリカで前頭葉を発達させてから、高緯度地帯に進出した。その結果生じた認知能力および集団形成の差が、両者の運命の分かれ目であった~…、と言うことです。

 

 

これ以降も新説が出てくるでしょう。そこにロマンがあると言うことか。我々の身体の中にネアンデルタール人のDNAが存在すると言う事と共に……。









にほんブログ村

2016年8月23日火曜日

『サイボーグ化する動物たち』


前回、人類はサイボーグ化しつつあるのではないか…、と、チラッと言及しました。iPS細胞による人類のいろいろな部分の再生です。これは機械ではないので、サイボーグ化とは言えませんが。しかし、最近のテクノロジーによるコンピュータ制御の義肢などの発達があります。「テクノロジー・ドーピング」と言う言葉が現われたように、それらの義肢を装着することで障害者が健常者(どう表現して良いのかわかりませんが)以上の能力を今や発揮することが可能です。それが健常者のアスリートにとって脅威となっている状況です。

 

人間の場合は「倫理」の問題が邪魔をしているので、人類のサイボーグ化はまだ先の話でしょう。しかし、他の動物はどうでしょうか。いつかは忘れましたが、「昆虫をドローン化する」技術をアメリカが開発したと聞きました。その時は詳しい内容はわかりませんでしたが、最近その詳しい内容を新聞記事で読みました。

 

また、昆虫ばかりではなくペットやラットなどもその犠牲者になっているようです。『サイボーグ化する動物たち』という本を新聞の広告欄で見かけました。その宣伝文句は、「ペットのクローンから昆虫のドローンまで」です。

 

「リモコン操縦できるラット、製薬工場と化したヤギ…、現代科学が作り出した改造動物の最前線を探る。」

 

これは、SF小説のキャッチコピーではありません。現実の出来事です。例の如く、この本を読んだ訳ではありませんが、人間が他の動物にどんな事を施しているかは想像できそうです。

 



 

「昆虫サイボーグ登場」――最近読んだ記事のタイトルです。飛行する昆虫をドローンのように自由に操作するというもの。昨年3月に米科学雑誌に発表されました。開発したのはシンガポール南洋理工大の佐藤祐宗助教授ら。

 

甲虫のオオツノカブトムシの背中に無線の受信機を組み込んだ電子回路や小型の充電器を載せます。無線で指令を送ると、目や羽の根元近くに埋め込んだ計6本の電極を通じて神経が刺激され、それによって自由に操作できるという仕組みです。約30分連続で飛べます。

 

佐藤氏によりますと、電極を埋め込んでも甲虫の寿命は変わらないとのこと。「温度や位置情報のセンサーを載せて大量に被災地に放つことで、人間などが入れないがれきのすき間から、温度の違いを頼りに生存者を見つけるのに役立てられるのでは。」と言うことです。昆虫をまねた飛行ロボットも開発中ですが、まだ昆虫ほど複雑な飛行はできず、初めから飛ぶ能力を持つ昆虫を利用する方が効率的で、ロボットのようにすべてを制御する必要性もないのです。

 

また、昆虫に搭載する機器を動かす電気は必要です。その電気も自給できるようなシステムも開発されています。昆虫自身の体液を利用し発電しようという試みです。虫の体液に含まれる糖分の化学反応で発電する「バイオ燃料電池」です。このような発電の仕組みを応用すれば、超小型のロボットを人の血管に挿入し、血液からの発電で電気を得て体中の健康状態をチェックすることができるようになるとも。

 

昆虫をより早く飛ばすために人工の羽も研究されています。昆虫の羽に近い素材を加工し、厚さ2マイクロメートルの薄い羽を作り本物の羽と交換するのです。まだ、研究段階とのことですが。

 

 

昆虫のこととは言え、「人間がどこまで昆虫を操ったり改造」しても良いのかの倫理的議論はもちろん起るでしょう。そうでなければ、人類もオシマイですよね。






にほんブログ村

2016年8月14日日曜日

最近興味を抱いた本


いつもの趣味で新聞の本の広告欄を見て興味を持った本の話です。ですから、実際に読んでいる訳ではありません。アシカラズ。

 

1冊目は、『シンギュラリティは近い――人類が生命を超越するとき』です。キャッチコピーは、「2045年、これが私たちの衝撃の姿だ!」。または、「『ポスト・ヒューマン誕生』のエッセンスを集めた決定版!」。

 

先ず、「シンギュラリティ」とはなにか。Singularの名詞形だなと。だから、単数、単一の意味かと。で、ふだんわたしが考えていること…、人類はサイボーグ化している。つまりiPS細胞からの身体の再生や、コンピュータ制御の人工四肢や人工耳、人工眼、その他いろいろで人はもう自然界から遠い存在になっているということ。この調子で行くと、人は死ななくなるので、もはや生殖活動は必要ない。と言うことで、人類は単細胞生物のように「不死」となり、「性生殖」を失うということかと。つまり単一性。シンギュラリティの意味の話ですが。

 

しかしアマゾンで検索したところ、どうも違うらしい。「特異性」という意味らしいとわかりました。「人類は生命を超越する」です。「AIが人類の知性を上回り、私たちは生物の限界を超えてついにシンギュラリティへと到達する──。」と紹介されていました。つまり、人類はAIのおかげで「生物」を越えてしまうということでしょうか。

 

著者は、「未来学者として技術的特異点の到来をいち早く予見し、人工知能(AI)の世界的権威として現在はGoogle社でAI開発の先頭に立つレイ・カーツワイル」とありました。彼は、その状況を肯定的にとらえているようで、さすがアメリカ人の楽観主義かあ…、と購入する意欲が失せました。

 

 

2冊目は、『ゼロから始める都市型狩猟採集生活』です。これはわたしが抱いている感想から興味を持ちました。それは、「人は人ひとりで完結していない」ということです。たいていの生物は、他の仲間の助けを借りなくても一個体で生きていけます。しかし、人の生活は全てが細分化されており、もはや生活に必要な事を自分自身一人で出来なくなっています。それが、「社会生活」と呼ばれる人類発展のストラタジーなのか…です。

 

この本は、都市でもできる狩猟採集生活――、つまり、都市でもひとりで人生を生活を完結することが出来る指南書なのかと。アマゾンで検索したところ、都市で暮らす路上生活者のお話のようです。

 

わたしの思いとちょっと違うなと。路上生活者は都市の特徴。物が溢れている都市だからこそ、お余りをお裾分けしてもらって生きていけると言うわけです。全ての人が貧乏な何も持っていない社会では、路上生活者は生きていけません。

 

アマゾンのカスタマーレビューに「普通、わたしたちは働いて金を得、その金でものを購入し消費する、その繰り返し、そのサイクルの中で生活し、またそれ以外の生活は考えられない、というより考える事もないわけだが、本書によるとその生活は一つの観念に過ぎないのだ。つまり、わたしたちはあまりにも一つの生き方に縛られ続けている。本書の一番のウマ味はその〈気づき〉にあると個人的に思う。」と書かれていました(引用してすいません)。また他のカスタマーレビューでは、「<都市の幸>で暮らすことは、きみが起こすことのできる唯一の革命なのだ」(本書P148)」とありました。それで、わたしはもうそのことに<気付いて>いるからと、この本は購入しないことにしました。

 

その観点では、『増補 サバイバル! 人はズルなしで生きられるのか』と言う本も良いかも。日本海から北アルプスまでを、米と調味料だけを持ち縦断した記録、とあります。他の食料は現地調達し、自然の中で眠る生活のようです。「自然にじかに身体をさらすことで、おぼろげな個人の輪郭がはっきりとしてくる。」と書評にありました。でも、これも都市生活から一歩身を引いて、自分の生活を見直してみると言うことですね。まだまだお金を払わなくてもいろいろなものが手に入る田舎暮らしをしている人には、どうでもいいことでしょう。しかしこれはGDPの増減を気にしている政府にとっては、とんでもない行為でしょう。お金で物を買わなければGDPに換算されませんからね。

 

人の行動をいちいちお金に換算することは、もうやめようよ~。

 


 

三冊目は、『QJKJQ』。「2016年江戸川乱歩賞受賞作!」とありました。「17歳の女子高生。亜李亜の家族は全員が殺人鬼。ある日、兄の惨殺死体を発見する。亜李亜は父に疑いの目を向けるが、一家にはさらなる秘密があった――。」と。

 

有栖川有栖氏が、「これは平成の『ドグラ・マグラ』である」と批評しており、その「ドグラ・マグラ」に魅かれ目にとまった訳です。ご存知、夢野久作の『ドグラ・マグラ』です。わたしの本棚にもありますが、内容はすっかり忘れています。

 

アマゾンで検索したところ、あまり評判はよくなさそう。これは『ドグラ・マグラ』ではない!という一文も目に入りました。それで、即、購入はしないことに。

 

そのかわり、本棚にある『ドグラ・マグラ』をもう一度見てみました。その解説に「精神操作の恐怖と自由の問題」という題が付いていました。精神操作には、マインドコントロールとルビが打たれています。わたしは、昭和52年にこの本を買いました。しかし、発表されたのは1935年です。その時代に「マインドコントロールとはね。」と興味が湧きあがりました。

 

この作品が発表された時、多種多様な評価を受けたようです。

 

狂人自身が書いた狂気の世界――江戸川乱歩

思想の容器として独自の位置を占めている――鶴見俊輔

弁証法の傑作――森秀人

ありうべからざる幻想世界を通じて、ありうべき社会を予言した、狂気のアポカリプス――塚本邦雄

家父長への怨念小説――水沢周

物神崇拝の恐怖の中に人間の自由の問題を描いた作品で、日本推理小説史上の傑作――権田萬治

奔放な空想の極致を示す狂気の文学――荒正人

 

などなどです。

 

と言うことで、相当分厚い本で本も古くてカビ臭いのですが、読みなおしてみようかな、と思った次第です。いろいろ迷走した挙句の結論でした。







にほんブログ村

2016年8月7日日曜日

『CREEPY(クリーピー)』  本を買う(2)


最近根気よく本を読むことが出来なくなって来ました。問題は、頭がちゃんと働く時間帯は、囲碁の勉強をしているからです。つまり囲碁以外の本は、夜ビールを飲んだあとに読むので、頭に入って来ません。そこでどうしようかと。

 

学生時代の本を読む習慣を思い出しました。学生の時はどうしても研究書とか専門書を読まなければいけませんでしたが、取っ付きにくいもの。それで、いつも、先ず推理小説や怪奇小説SFなどの本を2~3冊読み、その後にふつうの小説を読みます。そして、エンジンがかかって来た頃に学術書を読んでいました。

 

と言うことで、ビールで頭が働かない時に、いわゆるエンターテイメント小説をよもうと。そして、本を読む習慣を取り戻そうと。

 

~3日前、スーパーに食料品を買いに行きました。そこで、本屋さんを覗いてみようかなと。KUMAZAWA書店が入っているので、本の売り場はなかなかのものです。ブラブラ通路を歩いていても興味引かれる本が見つかりません。で、「今週の新刊」というコーナーを覗いてみることに。

 

そこで購入したのが、『クリーピー』です。映画の宣伝は新聞紙上などでよく見かけました。テレビのコマーシャルでも流れています。そして、本のカバーが西島秀俊、竹内結子、香川照之だったのです。これなら買ってすぐに読めそうだと直感。

 




 

読み終えました。「クリーピー」と言うのは、虫が這いまわる…、転じて「気味が悪い」とか「背中がぞくぞくする」と言ったような意味です。「虫唾が走る」と言うことでしょうか。主人公のお隣さんが、いつの間にか入れ替わっていた(ようだ)という設定です。映画は見ていませんが、そのお隣さんがたぶん香川照之なのでしょう。そして、過去の未解決殺人事件と現在の連続殺人事件の絡み合い――です。

 

ミステリーなので、あらすじを書くのは難しいですが、感じたことは、この頃のこの手の小説はほんとに「過激」だなあ、と言うこと。たいてい複数人が殺されますし、殺され方も「半端じゃない」…よね。これでもか、これでもかと、恐怖をたたき込むのは何時頃からの流行りでしょうか。。。

 

著者は、前川裕氏です。2011年、第15回日本ミステリー文学大賞新人賞をこの本で受賞したとありました。新人らしくちょっと文章が熟れていないところがありますが、スラスラと読み進められます。解説によりますと、この手の作品は「変格探偵小説」と呼ばれるそうです。「本格探偵小説」との対比です。

 

謎解きよりも怪奇幻想性やエロ・グロ、SF的要素になどに比重を置くものと定義されていました。1920年代の「変格探偵小説」群は、現代日本のエンターテイメント小説に多大な影響を与えているとのこと。江戸川乱歩、夢野久作、久生十蘭、小栗虫太郎、国枝史郎などの著作者の名が挙げられています。

 

これを読んで納得です。これらの作家の本は、わたしの本棚の定番です。高校生時分からの愛読書。わたしがスーパーの本屋さんで『クリーピー』を手に取ったのも正しい選択だったと言うことでしょうか。

 

その後の作者の著作は、『アトロシティー』(2013年)、『酷 ハーシュ』(2014年)が刊行されているようです。「本書を気に入ったかたは、ぜひご一読を。」と解説の最後で推薦されていますが、わたしが読むかどうかは、――どうでしょうか。またのお話です。







にほんブログ村