著者の言う「辺境」とは、文字通り地理的な辺境のことらしい。日本では、国が始まった時から、「日本が世界の中心である」とは考えなかった。古代に文明が起こった国は総て自国が世界の中心であると位置付けて、自国を「主張」してきた。それに引きかえ日本は、はじまりから「中華があっての日本」だった。その根拠は日本の古代の支配者は、日本の支配者であることの承認を「中華」に求めに行ったからである。
で、この「辺境」であることでの「日本」の特徴は何か。たいていの国は自分の国を中心に置く。だが日本は常に「中心」をどこか他に見据え、そことの関係性をはかる。つまり自分を絶対視する「考え」がなく、自己主張はしないのだ。日本とはどういう国かという独自の発想がない。他国と比べることで、相対的に自分を語るのだ。
わたしは常々、日本はパラダイムを与えられたら非常にうまくそれに順応し物事を成功に導く事ができると思っていた。が、パラダイム自体をなぜ発信しえないのだろうか。この本を読んで、少し納得するところはあった。「よその世界の変化に対応する変り身の速さ自体が伝統化している。」と書かれている。時代の先端が何であるか感知し、それに向かってキャッチアップしていくことに長けているという事だ。
もうひとつ、日本人は何故権威に逆らわず、迎合してうまく振舞っていけるのだろうかとも感じていた。これについても同様、「自分自身が正しい判断を下すことよりも、正しい判断を下すはずの人を探りあて、その身近にあることを優先する」と書かれている。しかし、ここには少々トリックがあって、「自分は辺境に住んでいるので、そんなことは知りませんでした」という「作為的な知らないふり」が潜んでいるらしい。つまり、表だっては、自分が従いたくない基準に反対はしないが、知らないふりをして結局は「従わない」で済ますのである。少しは自己主張をしているようでもあるが、何にしても自分の望む自らの基準を新たに発信しない事は同じである。
このように、自己主張もしないでいつも周りとの関係性ばかり意識している国が、繁栄と没落をくり返している世界の国々のなかで、どうして今まで文明を発達させ、植民地化もされず、滅ぼされもせず、二千年も生き延びてきたのか。
この頃、「日本語」が滅びるとか「日本語」が生き延びるにはとかいう記事をよく見かける。なるほどこのグローバルな世界、英語がインターナショナル言語の地位を得てきて、世界で英語が優勢な地位を得てきている。それが「日本語」の滅亡とどう係わるのかはわか。日本人が英語をしゃべったからといって、日本語は死滅しないでしょう・・・という感覚だった。この本を読んで「ある言語が滅びる」とは実際どういう意味なのかが脳味噌に沁み込んだ。
我々が現在の「日本語」というものを手に入れたのは、さまざまな奇蹟があったからだと実感する。先ずは、中国語。漢字が日本に入ってきた四世紀頃には、もちろん我々の祖先は日本語を話していた。この時に、我々は漢字とともに「中国語」を受け入れるというオプションもあった訳だ。そこのところを我々の祖先は踏みとどまって、漢字と日本語の合体をうまくやってのけた。それから黒船来航。明治維新で外国の概念が一気に押し寄せた時、そのひとつひとつの概念を日本語に移し替えてくれた(その概念に合う日本語を作り出してくれた)明治の先人の意気地に多大なる敬意を表したい。その日本語が今あるから我々は自分の言葉で、現在、政治を語れるし、社会を語れるし、文学・哲学を語れるのである。
『日本辺境論』によると、帝国主義列強の植民地支配に屈していったアフリカ・アジア諸国では、母国語で国際政治や哲学を語ることはできない。生活言語としての土着語と知的職業の公用語の二重構造になっているらしい。「その中で、日本だけが例外的に、土着語だけしか使用できない人間でも大学教授になれ、政治家になれ、官僚になれます。」と書かれている。
しかし、これは何も日本人が偉かったと言うことではなく、もともと日本語が「日本語」と「漢字」の二重構造になっていたということである。つまり西洋の概念を日本語に移した時、使われたのは「漢字」であったということ。いうなれば、西洋語を漢語に移し替えたのだ。同じ漢字を持つ中国が「清朝」末になぜ西洋語を漢字に移し替えることができなかったのか。中国は日本が移し替えた「漢字」を流用することとなるのだが、その答えは、「心理的抵抗」らしい。つまり、中華思想を持つ中国は自国語にない言葉の存在を認め得なかったのである。ここに日本の「辺境人」としての特色が生かされたのだ。「外来の知見を正系に掲げ、地場の現実を見下す」という意味で。日本人は、はなから日本を「中心」とは考えていないので。
この「土着語だけしか使用できない人間」でも日本では知的職業に就けるということが、このグローバルな世界では逆説的に不利な状況を作り上げているとも言われている。(ガラパゴス、ニッポン)。現代は「とにかく」英語である。EU内でも英語が共通語として受け入れられている現状で、今、英語圏以外のEU諸国にも同じ問題が生じてきている(イギリスが去っても英語はEUの公用語であり続ける。)。つまり、フランスやドイツなどでも、彼等は土着語だけですべての事を語っていたのであるから。グローバル化に対応する言語戦略を立てなければいけない時である。フランスでは、フランス語の国際化戦略を推し進めている(フランス語での国際テレビ放送等)。
日本語に危機感を覚えている日本の学者たちもいる。彼等も「日本語が国際的な発信力を高める事、そして日本語が日本人でなくとも読み書きしたくなる言語であり続ける事」を唱えている。つまり、日本文化の魅力を伝えること等々。
現在、英語を日本語に置き換える教育が進んで行けば、「我々が我々の言語で我々の文化を語れない日」が来るやもしれぬ。
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