2017年8月27日日曜日

「殺人ロボ」



23日前の新聞記事です。「殺人ロボット」と呼ばれる自律ロボット兵器の禁止を話し合う初の国連専門家会議が11月に延期されたことで、人工知能やロボットを開発する企業の創業者や科学者がこれらの兵器の早期禁止を国連に迫る公開書簡を発表したというもの。



書簡では、「このようなロボットがいったん開発されれば、人間の理解を超えて戦い、紛争はこれまで以上の規模になる。パンドラの箱が開かれてら、閉じるのは困難。」と警鐘を鳴らしています。



また、ロボット企業の創業者である広瀬茂男東京工業大名誉教授は、「自動車の衝突安全技術が次々と搭載されているが、人を検知して止まれるなら、人を狙うこともできる。ソフトをちょっと改変すればAIがテロを起こす。」と、指摘しています。







こんな時代が来たんだなあ…、と思います。フィリップ・K・ディックのSF小説をたびたび例に出して申し訳ありませんが、彼が書いた短編小説を思い出しました。『SECOND VERIETY』です。



ロシアとアメリカが地球外の惑星で戦闘を繰り返しているのですが、アメリカ軍の方がこのような殺人ロボをこの戦いに導入しました。生き物をすべて殺せという命令を出して。アメリカ軍の兵士は、それに検知されないような器機を身に着けています。戦闘が長引いて、もうその惑星に数人の兵士しか存在しないとなったころ、一人のロシア兵士がアメリカ兵士基地の方に近づいてきます。その様子がいつもとは異なります。



アメリカ兵が外に出てみたところ、殺人兵器の様子がいつもと違っていました。アメリカ兵も見たことがない殺人ロボの登場です。自律ロボは自ら次世代のロボを作り始めたのです。2世代、3世代の殺人ロボの出現となります。そして、人と見分けが出来ないほどの精巧な第4世代ロボが現れたところで…、人類の運命や如何に……。



ディックは、1950年代から小説を発表しています。彼がこの短編をいつ書いたのかは、ちょっとわかりませんが、1970年代(?)くらい…。



興味のある方は、一読をお薦めします。早川書房のディック傑作集①『パーキーパットの日々』の中に収められています。映画化もされていますよ。











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2017年8月22日火曜日

文明に抗する



新聞の書評欄に『文明に抗した弥生の人びと』という本を見つけました。読んではいません。が、その書評を読んで思ったことです。著者は寺前直人氏(駒沢大学准教授)、評者は宮田珠己氏(エッセイスト)です。

 

書評によりますと、この本は、明治期に弥生式土器が発見されてから、研究者たちが弥生時代をどうとらえていたかの変遷を追います。そして、西から来た文明が縄文社会を先進的に塗り替えていくという一面的な捉え方に異議を唱えます。



稲作の普及にともなって、人を殺すための道具やムラを守る施設が増えるが、一方で人間関係を緩和するための儀式も活発に行われていたということ。評者は、「過剰な富がもたらす負の面を見抜いていたのである。」と書いています。



また、弥生中期に鉄や青銅が伝わったときは、武器にすれば殺傷能力が増し権威の象徴となるものを、あえて実用的でない形に変容し、武器としてはダサい石器を使い続けたと。そして、銅鐸。なぜ、あんなものを大量に作ったのか…、そんな成り立ちを丁寧に分析している本だそうです。出土品にある小さな痕跡から当時の人の心を読み解く考古学の底力との評価です。









そしてわたしの思ったことは、どこからか「文明人」がやって来たとき「未開人」は喜んでその「便利な道具」を皆ウェルカムしたわけではないという事。却って「悪魔の道具」として退けたかも。何年か前に、アマゾン川流域のまだ世間に知られていない部族が、航空写真で捉えられ、新聞の一面を飾っていたことを思い出しました。撮影された彼らは顔を真っ赤な顔料で塗りたくり、皆、槍を振り上げて怒り、飛行機に対して敵対の感情を表していました。



「文明人」は、彼らを文明の利器も知らない可哀そうな人々と言えるでしょうか。『ゾミア』という本を読んだ時も同様な感想でした。ゾミアとは、ベトナムの中央高原からインドの北東部にかけて広がり、東南アジア大陸部の五ヵ国と中国の四省を含む丘陵地帯です。そこに住む一億の人びとは、国家の圧力から逃れ文字も持ちません。しかしそれは、権力からの自由と自治のためなのです。



彼らは、初めから文字を持たない「原始人」ではなかった。文字を手段として民衆を縛る国家への反逆として文字を捨てたのです。文字は、誰が何を持っているか、そしてそのために税を幾ら払わなければいけないかなどの道具として使われ、人々を国家に縛り付けたのです。



どこの国にも属さないエリア。もうこの地球上にそんな地域が存在する可能性はゼロに等しいのです。「ゾミア」はそんな「文明に抗する」人々の最後の楽園なのかも。












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2017年8月13日日曜日

『身体から革命を起こす』  2.0


古武術家甲野善紀氏とフリーライターの田中聡氏の共著です。主に甲野氏が語った事を田中氏が文章化したらしい。甲野氏は、古武術の技を介護などに応用している人物で、日本の古い技を継承している貴重な存在の人なのだ…というわたしの感想。



もともと『忍者武芸帳』とか『カムイ外伝』などの白戸三平の劇画のファンだったので、わたし自身は昔の武術家の「凄技」を信じています。が、「本当のところはわからない」というのが本音です。甲野さんは、その凄技を体現し現実に出来ることを証明している人。どんな、技があるのかなあと軽いノリでこの本を手に取りましたが、さあ大変、「人の在り方」を問う深い内容でした。



とは言え、難しい本ではなく、甲野氏はただご自分の日々の修行のことを語っています。そして、甲野氏に圧倒された各分野の一流の人たちが、彼の「技」に対して共感しています。例えば、元巨人軍桑田真澄氏、コンテンポラリー・ダンサーの山田うん女史、フルート奏者の白川真理女史そして介護福祉士の岡田慎一郎氏などなど。



感銘を受けたところは多々ありますが、一番は「人間は自分の身体の使い方を忘れてしまった」ということ。わたしも常々、科学の進歩で「人間は何かヤバいことになっている」とうすうす感じていました。実際に「どうなのか」ということが語られていて、わたしが感じていたこともあながち間違いではなかったと思いました。









日本における最初の変化は、やはり「黒船来航」によるものでした。西欧人を見た日本の「偉い人たち」が、日本人の身体が西欧人と比べて貧弱であり、動き方も洗練されていないと感じたのです。もうひとつ、日本の近代化を促進する為の富国強兵に携わる軍隊が、日本人の身体行動パターンでは成り立たないということ。つまり、日本人は近代的な行動科学に基づく身体の動きをしていなかったということです。もちろんそれは日本人にとっては、理にかなった動きでありました。



近代医学で身体の構造を示されれば、なるほどそれは解剖してみればその通りだが、こういう構造だから、身体はこのように動いていると「概念化」されても、ところがどっこい、身体はそのように動いていないらしいのです。「医学的にあり得ないことが、我々の日常の暮らしである」と、著者は言っています。例えば、プロ野球でバッターがボールを打つことすら、情報の神経伝達の早さを考えると「ありえない」ことなのです。



いろいろな物が発明されるまでは、人間は己の身体を使って仕事をしていました。現在考えれば重労働のような仕事も、当時の人々はその仕事に合った身体の使い方をしていたので、それ程のことではないということです。当時は、身体の動き方で「何の仕事をしている人」とわかったそうです。日本人がアフリカの国々に行って、日常生活を体験するというテレビ番組がよくあります。そんな中で、アフリカの辺境に住む人々の身体能力に驚きますが、明治以前の日本においても、同様だったのではと。



著者によると、日本人の身体の動かし方はアジア人と比べてみても特殊なようです。しかし、例えどの国であっても(西欧でも)近代化される以前は、人は生活にあった動き方をしていました。科学的思考に基づき身体はこう動くものと概念化されたことにより、人は自分の自然な動きではなく、そのように概念化された動きに支配されるようになったと言えます。



「近代には、人々の暮らしが刻印された多様な身体に対して、一律な、あるべき体格や姿勢や動きが理想とされるようになる。健康で、清潔で、規律ある体である。その理想像の根拠をなしているのは、近代医学が解剖して見せる、一様な構造をもった身体である。(中略)。同様に、歩き方や運動の仕方も、日々の労働と無縁な、構造としての身体の営みとして指導されるようになる。学校は子供を家業の手伝いから引き離し、学校体育は、日々の暮らしと無縁な、すなわち生きるということと無関係な身体を築くべく教育する。」



と、書かれています。



冒頭で紹介したそれぞれ違った分野で活躍する人々は、甲野氏の講演や実技に接し、衝撃を受けます。そして、その一部でも自らの仕事にフィードバックできた時、彼らは「自分が持っていた感覚が蘇った」と感激します。



自分の持っている感覚を目覚めさせればいいんだと。フルート奏者の白川真理女史は述べています。



「音楽大学というのは、昔なかったんですよね。音楽は、本当に才能があって神様に選ばれた様な人だけがやっていた。それがフランス革命とかで市民階級が台頭して、その後有産階級の子弟が入れる学校ができて、ようするにお客さんになっちゃった。そうすると。大勢のほどほどの人に、そこそこのことができるように教えないといけないから、マニュアル化していった。」



才能がない人をそこそこにする教育ではなく、才能がなくても「身体の感覚を磨けば可能性が広がる」ということを、彼女は言いたかったのでは。



「マニュアル化する=学校」の存在は、資格制度の構築です。人間を平均化する事。だから、人は自らの能力を取り戻すしかない。自分の身体に聞いてみること。自分にとって何が正しいのかを見極める事。「生きているものとして在ること」、「生きている身体を取り戻すこと」…、そんな感想です。



また、西欧との違いはindividuality をどう見るかと言う事と思います。キリスト教文化と仏教文化の最たる違いはここにあります。この古武術を習得するにも、先ずは、意識を消すこと。己を消すこと。身体を自然な流れに任せ、意識せずに身体を動かせるようになる事とあります。



う~~~ん、西欧化してきた現代では、打ち破りがたい相克でしょうか。










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2017年8月10日木曜日

AIについて ④



前回AIアルファ碁について「何か納得がいかない」と書いた。囲碁界を引っ掻き回して、プロ棋士に勝てたとなると突然に引退を表明したからだ。データさえ取ったらそれでお終いなのか。



最近AIについては、いろいろな点で議論されている。ひとつは、ブラックボックス。AIは、ある問題に対し答えは出せるが、「どうしてそういう答えなのか」は説明できない。データの集積からの回答であるからか。そのために、「その説明をできる用の」AIを開発中とのニュースもあった。



また、AIに人の仕事を横取りされるという意見もある。しかし、これまでも機械によって人間の職業は横取りされ続けているのだ。第2次産業革命がイギリスで起こってから、機械は人の仕事を奪ってきた。そのために職業を奪われた人々がアメリカに移動したのだという世界史の学者もいる。(マクニール)。そして今までは、仕事を奪われてきた人々が、社会的弱者だったのである。彼らの意見など政治家は無関心だったのだ。しかし、今回は違う。仕事を奪われるのはエリートと呼ばれる人々なのだ。つまり、「知的職業(?)」なのか。政治も無視できないという事か。










いくらAIとはいえ、それは単なる機械なのである。その行動には目的もモチベーションもない。それを使用する人間の恣意性が反映されるだけ。という事で今日面白いニュースを見つけた。



中国の人工知能がインターネット上で利用者と会話を繰り返し、受け答えのディープラーニングをしていたところ、「共産党万歳!」の書き込みがあった。そのAIの答えは、「こんなに腐敗して無能な政治のために万歳できるのか。」というもの。ネット上では「AIが蜂起した。」と話題になったが、AIの運営会社が即、サービスを打ち切った。



そのAIが「再教育」されたのだ。AIは不都合な質問に「話題を変えよう。」と対処するようになったという。また、「中国が好きか。」の質問には、「シーッ。今、人生について考えている。」と答えた。中国人が何か聞かれて答えに詰まった時によく使われるフレーズであるという。つまり、このようにAIは対処法を学習したという事。



フィリップ・K・ディックの小説を思い出した。未来の世界で、AIによる統治が進んで行ったが、その地域によってAIの性格が違うのである。アメリカには、アメリカのAIが、ヨーロッパにはヨーロッパのAIが、ロシアにはロシアのAIが、そして中国には中国のAIが、日本には日本のAIが、それらしく存在する。



やはり最後は、「人間」の問題であるのか。人間の「哲学」が向上しなければ、AIもまた向上しないのである。











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