新聞の書評欄に『文明に抗した弥生の人びと』という本を見つけました。読んではいません。が、その書評を読んで思ったことです。著者は寺前直人氏(駒沢大学准教授)、評者は宮田珠己氏(エッセイスト)です。
書評によりますと、この本は、明治期に弥生式土器が発見されてから、研究者たちが弥生時代をどうとらえていたかの変遷を追います。そして、西から来た文明が縄文社会を先進的に塗り替えていくという一面的な捉え方に異議を唱えます。
稲作の普及にともなって、人を殺すための道具やムラを守る施設が増えるが、一方で人間関係を緩和するための儀式も活発に行われていたということ。評者は、「過剰な富がもたらす負の面を見抜いていたのである。」と書いています。
また、弥生中期に鉄や青銅が伝わったときは、武器にすれば殺傷能力が増し権威の象徴となるものを、あえて実用的でない形に変容し、武器としてはダサい石器を使い続けたと。そして、銅鐸。なぜ、あんなものを大量に作ったのか…、そんな成り立ちを丁寧に分析している本だそうです。出土品にある小さな痕跡から当時の人の心を読み解く考古学の底力との評価です。
そしてわたしの思ったことは、どこからか「文明人」がやって来たとき「未開人」は喜んでその「便利な道具」を皆ウェルカムしたわけではないという事。却って「悪魔の道具」として退けたかも。何年か前に、アマゾン川流域のまだ世間に知られていない部族が、航空写真で捉えられ、新聞の一面を飾っていたことを思い出しました。撮影された彼らは顔を真っ赤な顔料で塗りたくり、皆、槍を振り上げて怒り、飛行機に対して敵対の感情を表していました。
「文明人」は、彼らを文明の利器も知らない可哀そうな人々と言えるでしょうか。『ゾミア』という本を読んだ時も同様な感想でした。ゾミアとは、ベトナムの中央高原からインドの北東部にかけて広がり、東南アジア大陸部の五ヵ国と中国の四省を含む丘陵地帯です。そこに住む一億の人びとは、国家の圧力から逃れ文字も持ちません。しかしそれは、権力からの自由と自治のためなのです。
彼らは、初めから文字を持たない「原始人」ではなかった。文字を手段として民衆を縛る国家への反逆として文字を捨てたのです。文字は、誰が何を持っているか、そしてそのために税を幾ら払わなければいけないかなどの道具として使われ、人々を国家に縛り付けたのです。
どこの国にも属さないエリア。もうこの地球上にそんな地域が存在する可能性はゼロに等しいのです。「ゾミア」はそんな「文明に抗する」人々の最後の楽園なのかも。
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