2017年9月24日日曜日

イスラームから見た「世界史」2・0 タミア・アンサーリー著



題名通りイスラームの立場から見た世界史。今まで、「世界史」はイスラーム世界を無視してきたという著者の思いは納得できます。著者はアフガニスタン生まれで、アメリカで教育を受け、アメリカに移住しました。最近、非西洋世界の人がヨーロッパやアメリカで学び、英語で著作し、日本語に翻訳されるという本が増えてきたように思われます。



今までは、第三世界の人々は、世界的にはスポーツやエンターテイメントの分野での活躍が目立っていましたが、ようやく哲学とか文学とか科学とかの分野での躍進が期待できる時期に来たのだ…と思います。彼らは、西欧の論理を学んだ上での、自己の出自のアイデンティティを取り戻す…かのようです。










わたしが学んだ「世界史」は、十字軍とイスラーム世界の戦いの場面で、わずかにイスラームの言及があるばかりでした。そこにヨーロッパ以外の人々は存在していませんでした。著者は、ナポレオンがエジプトに遠征した時、英仏の闘争については詳細に語っているが、その時のエジプトの状況、民については何も語っていない、と記しています。



この本で、わたしの頭の中の空白部分が、ポツポツと埋められたような気がします。もちろん、ペルシャ帝国とかオスマントルコとかモンゴル帝国、ムガール帝国等のことは、学校の歴史の教科書に書かれていました。しかし、それは一つ一つ独立して点在する記憶であり、それが一つにまとまるという事はありませんでした。



イスラームは北アフリカからスペイン、そしてビザンティン帝国も支配下に納め、オーストリアまで突き進みました。東はインド、インドネシアなど東南アジアまで、またアフガニスタンまでもイスラームの国々だったのです。ヨーロッパ諸国がキリスト教を基盤とした国々の集まりだったように、ペルシャ、トルコ、モンゴル、インドネシア、などもイスラーム教を信仰する国々の巨大なエリアだったのです。その巨大な領域が、世界史からスッポリ抜け落ちているという事です。著者は、ヨーロッパを旅する人がいたら、その人は一つ一つの国については違った景色を味わう事ができるだろうが、ヨーロッパが醸し出す雰囲気は共通していると思っただろう、そして同じことがイスラームの国々についても言えるのだ、と書いています。



著者はアフガニスタンの人で、やはりイスラーム世界贔屓のところも見られますが、それはどこの人についても言える事。自分の国にプライドがあります。そこのところを加味しても、これからの世界の行方を考える上で、とても参考になる本だと思いました。



西欧から見たイスラーム世界を、ただ鵜呑みにしてはいられないと。わたしたち自身で世界を捉えるために、もう一方からの情報は貴重であると感じました。










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2017年9月19日火曜日

妄想力

以前にも、妄想力について書きました。

いろいろなことを妄想していると、何もなくても楽しい時を過ごせると。

例えば、英語の勉強をしていた時(今は、囲碁に夢中なので、休憩中)、電子辞書(時代遅れですいません。スマホなし。)を所持していれば、どこでも、妄想力で英語の勉強が出来ました。頭の中で、いろいろなシチュエーションで英語の会話をするのです。そして、単語がわからび時に、辞書を使うという意味で。

または、英語で頭の中に文章を書くこともできます。または、いろいろな議論を想定して、ディベートもできます。








で、

この頃、囲碁も妄想できそうな気がしてきました。いろいろな状況を予め碁盤で想定して、その後、碁盤がない所でもその設定を頭の中で再現すると言ったようなあ。再現して、その後はどうなるかという妄想もできます。

妄想力は偉大です。すべての芸術的行為に有効なのでは。と言うか、必要なのでは。




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2017年9月17日日曜日

『去年を待ちながら』を読んで



フィリップ・K・ディックの小説です。わたしは、20代の頃から彼の大ファンでした。しかし、30歳から40?歳くらいまでは生活に追われ、本をじっくり読む暇はありません。仕事と家事と育児に追われる日々です。でも、彼の本だけは翻訳されるとすぐに買っていました。お金もなかったので、文庫本ですが。その時の言い訳は、「老後の楽しみのために」です。



という訳で、その老後が来てしまったんですネェ。ディックの本は30~40冊持っていますが、そのうちまだ読んでいない本が現時点で7冊です。『去年を待ちながら』が読めたので、あと7冊になりました。わたしは、若かった時の自分の「命令」で彼の本を読んでいると言うことです。この本を読んでいて、そんな状況が「似ているなあ」って思ったので、前文は蛇足ながら書いてしまいました。











いつもの如くの彼の作品です。つまり、精神を病んだ人とドラッグと未来と過去が入り乱れた世界が描かれています。今回はドラッグを飲むと、過去や未来に行ってしまうという設定です。過去の自分から情報を得て、現在や未来の世界を変えていくと言うような…。わたしは、過去のわたしに会ってはいませんが、過去のわたしの遺言を忠実に実行しているよなあ…、って感じです。



本の粗筋を書くと「なんと陳腐な」と思われてしまいそうですが、こんな感じです。



宇宙人が出てきます。リリスター星とリーグ星です。我々人類とリリスター星人は同じ祖先から枝分かれしたと言うことになっています。同じ、ホモサピエンスということ。リーグ星人は、違う種類の生き物で知能は高いが昆虫のような姿ということ。人類とリリスター星人は同盟関係です。そうして、リリスター星人とリーグ星人の戦いに人類が巻き込まれるという感じ。



この時の地球の国連事務総長はモリナーリ。彼が司令官となりリリスター星人と手を組み、リーグ星人との星間戦争に挑みます。このモリナーリは年齢不詳。臓器を入替え、入替えて、死を免れ戦い続けています。その人工臓器を移植する医師エリックが、主人公です。そして化学兵器として発明されたのが、ドラッグJJ180。このJJ180は、一度飲めば中毒になってしまい、常用しなければいけない破目に陥ります。そして、肝臓やら腎臓やらがぼろぼろになり、精神も異常をきたし死に至るという設定。



しかし、JJ180には大変な作用があるということがわかりました。人によっては、過去に戻ってしまう、または、未来に行ってしまう…。このドラッグはリーグ星人をやっつけるためにつくり出されたものでしたが、実は地球上で常態的に蔓延していたのです。



つまり、地球と同盟星人のリリスター星人は、人類と共に闘うという名目の下に人類を征服し奴隷化しようとし、このドラッグを地球にばらまいていたのです。これがこの作品のベースです。このベースで、モリナーリやらエリックやらエリックの妻やら、大実業家やら精神科医やら…、諸々の人々が入り乱れて話が展開していきます。



モリナーリは不死身でしたが、実は、JJ180を使用しており、過去の若々しい自分を入れ替わり立ち替わり連れて来ては、リリスター星人と戦っていたのでした(敵はリーグ星人ですが、彼はリリスター星人の思惑もわかっていて、彼らを出し抜こうとしていたのです)。医師エリックも、妻の悪巧みに乗せられてJJ180を飲んでしまいます。彼は、妻との関係やモリナーリとの関係、リリスター星人との戦いのため、過去へ未来へと八面六臂の大活躍です。



お話の終局を書いても良いでしょうか。エリックは、過去へ未来へのドタバタから何を手に入れたのか…です。



答えは、「何も」です。妻との関係も清算されず、リリスター星人との戦いも勝利を得られずと。「人生は辛く耐えがたいもの。しかし、生きていかなければならない。」と、――彼は、今まで通りの人生を生きて行くのであった~~~、という結論です。













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2017年9月9日土曜日

『第四間氷期』  安部公房著




安部公房は大好きな作家で、若い時分からよく読んでいました。彼が亡くなって、未発表の短編集が出版され、即買いましたが、未だ読んでいません。もう彼の新作は出版されないと思うとさみしい…。



彼の本を何冊持っているのかと本棚を見てみると、11冊ありました。一番最近読んだものは『砂の女』です。蟻地獄のような砂の家に閉じ込められて、世話をやく女をあてがわれた男が、脱出しようと試みるが、脱出できる最後の瞬間に外に出る勇気が湧かない、あるいは「閉じ込められた空間」に安らぎを覚えるという、「感動的な」物語でした。



情けないことに他の本の内容はあまり覚えていません。そこで、一番古い本からもう一度読み直すことにしました。昨日から『第四間氷期』を読み始めて、今朝読み終えました。この作品は、1958年に出筆されたものです。わたしは、1970年に文庫本になってから買ったらしいです。高校生の時に読んだみたいなの…。



ずいぶん昔に世に出た本ですが、現在の世界にとてもリンクしていることに驚きました。それは、今話題の「AIは人間の知性を超えるのか」や世界の温暖化のようなことです。



MITが編集出版している長く続いている科学雑誌があるのですが、2011年に有名なSF作家達に依頼して、未来のテクノロジーとそれがどのようにわたしたちの生活に実際に役立っていくかということについて意見を求めていました。つまり、SF小説は我々が現実に手に入れる前に、新しいテクノロジーを小説の中で実現しているからです。予言ですか(?)。



新聞記事によりますと、2050年までにはシンギュラリティが起こるという事です。AIは人間の知能を超えるということ。あと45年という説もありますが。しかし、わたしは例えAIあるいはロボットが人間以上の知能を持つ存在になっても恐れることはないと思っています。なぜなら、ロボットこそ人間の次の段階の進化だと思うからです。(もちろんそれを望む人々にとっての)。



人間は自然界には存在しないものを作り出して進化してきた。そして、自然に自らの運命を握られていることに我慢できない様子です。ヒトの「高貴な魂」は、肉体(自然)に囚われているのです。そこから逃げ出す道が、ロボットということ。人工による人間のための「究極の人間」――それがロボットです。









そして、話は元に戻って、このことが安部公房の『第四間氷期』とリンクしているのです。1958年にこの作品が書かれたなんて、なんと感動的!



さて、『第四間氷期』です。



先進国は人工知能を作り出した。もちろん日本も。で、それに何をさせたらいいのかがわからない。予算を得るために何かをさせなければならない。そのためにAIに未来を予知させることにした。そこに、なぞの団体が絡んで来るのです。彼らは胎児の段階で哺乳動物を処理し、水棲哺乳類を作り出しました。もちろん人間も。(しかし、日本の組織なので日本人だけです。興味あるわあ。)。そしてその水棲人の未来の姿を見極めるために、この人工知能に接触してくるという理由。



そこで、この本の題名通り「第四間氷期」が終わるのです。世界は、水没します。これは、人工知能が予測した未来の世界なのですが――。そこで、人類は水棲人を受け入れることが出来るのか。本からの引用です。



自然との闘いが、生物を進化させたことは確かです。―――しかし人類はついに自然を征服してしまった。ほんとの自然物を、野生から人工的な物へと改良してしまった。つまり進化を、偶発的な物から、意識的なものに変える力を獲得した訳です。―――次は人間自身が、野生から開放され、合理的に自己を改造すべきではないでしょうか。―――これで、闘いと進化の環が閉じる・・・もはや、奴隷としてではなく、主人として、ふたたび故郷である海に帰っていく時がきた・・・。



「だが、水棲人をそんなふうに認めることは、自分を否定することじゃないのか。地上の人間は、生きながら過去の遺物になってしまう。」

「耐えなけりゃなりませんよ。その断絶に耐えることが、未来の立場に立つことです・・・」



大部分の母親が、少なくとも一人は、水棲人の子供を持つようになったとき・・・水棲人に対する偏見が、本質をゆがめる恐れがなくなったときです。その頃はもう洪水の不安が現実のものになっていて、・・・・・・・水棲人を未来の担い手として認めるか、選ばなくてはならなくなっているはずだ・・・



たいへん長い引用になってしまいましたが、水棲人をロボットに置き換えれば、わたしの説も納得できませんか。この本の締め括りはこんな感じです。



親子喧嘩で裁くのはいつも子供の方にきまっている・・・たぶん、意図の如何にかかわらず、つくった者が、つくり出された者に裁かれるというのが、現実の法則なのであろう――。









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2017年9月2日土曜日

『ゾミア』を読んで



最近のテクノロジーの発展、科学の発展により、現在いろいろな事が明らかになって来ています。ビッグバン以前の宇宙がどんなものであったかも理論的には解明されつつあります。また、深海に生きる生物の生態なども深海まで到達できる潜水艦の技術により明らかになりつつあります。



それでは、わたしたちが住んでいるこの社会はどうなのか。わたしたちは、どうしてこのような社会に暮らしているのかは、わかっているのでしょうか。わたしの机の引き出しに「国民国家の問題点」というメモがひっそりしまわれています。『ゾミア――脱国家の世界史』を読んで、少しだけわたしにも理解ができそうな気がしてきました。



The Art of Not Being Governed---An Anarchist History of Upland Southeast Asia, by James C. Scott です。「脱国家」と謳われているように、デリダの「脱構築」系統の本のようです。











ゾミアはベトナム中央高原からインドの北東部に至る地域です。面積およそ250万平方キロメートル、約1億の少数民族の人々が住んでいます。一番驚いたことは、わたしの無知からですが、彼等は文明から取り残された人々ではないと言うことです。それ以上に、文明から逃れようとしている人々なのです。



文明とはなにかは、以前『HUMAN』という本を読んで少々理解できました。初期国家の人々は、大半は自由民ではなかった。国家に拘束された人々だった。国家(支配者)は、その存続を維持する為に、人々を囲い込み、労働力と徴税を確保しなければならなかった。つまり、人を土地に縛り付けコントロールしやすいようにする。考えてみたら、牧場のようなものかもしれませんね。そして、その人々に国家や支配者の正統性を敬うように明確なイデオロギー、セオリーを与える。宗教もそのひとつです。



そして、そのような束縛から逃れようとする人々がいる。労役と搾取からです。「国家」から離れて、「国家」の勢力が及ばないところを移動し続けるのです。止まれば捕まってしまいますから。そして、そのようなコントロールが効かない人々を、国家は、「文明」と対比して「野蛮な未開人」と呼ぶのです。



この「野蛮な未開人」は歴史の初期段階で留まっている人々ではありません。『ゾミア』には、このように書かれています。「山岳部族は、人類史の初期段階の残存者で、それは、水田稲作農耕を発見し、文字を学び、文明の技巧を発展させ、仏教を取り入れる前の人々・・・と考えるのは間違いである。・・・定住型農耕と国家様式の発明に失敗した古代社会ではない。」



つまり、今日狩猟採集民として暮らしている人々は、百年前も狩猟採集民族であったとは単純に考えられないということ。彼は農耕民であったが、「国家」の締め付けにより、辺鄙な土地に逃れた人々かもしれない。実際、今農耕民で裕福な生活を営んでいるのは、先進国の農業従事者だけだと、なにかの本で読んだ記憶があります。低地で土地に縛られて農耕を志すより、焼畑農耕で点々と場所を換えて作物を作る方が、より労働としては効率がよいそうです。焼き畑が環境を破壊すると言うのも、「文明」の側からの間違った喧伝だと。日本人が割り箸を使うので、森林が破壊されるという喧伝のようなものですか。



この逃亡は、何も古代のものではありません。実際、第二次世界大戦前までは、頻繁に起っていたことなのです。低地民が山岳に逃れたり、また山岳民が低地にまいもどったり。植民地時代にも、彼等は植民者の西欧人を悩ましていました。居場所が特定できないので、支配する事ができないのです。また、彼等には真の意味での「支配者」を持っていないので(彼等の社会は平等です。支配者が現われてそれが引き継がれていくのを嫌いました。彼等は頻繁に支配者を殺していたそうです。「支配する者」は殺されるという強迫です。)、支配者を通じて民を統括するということができないのです。植民者は、先ず、彼等の支配者をでっちあげるところから始めなければいけなかった。



彼等は、永住が必要な水田農耕を捨てた。また、ほかにいろいろなものを捨てました。歴史、文字、アイデンティティをもです。ここから、歴史とは何か。文字とは何か。アイデンティティとは何か、という疑問が湧きあがります。



第二次世界大戦以降、近代的国家の概念は世界を覆い尽くしています。国と国の間には国境線が引かれ、もうあいまいな場所はほとんどない。「文明」から逃れたい人々の行き場所がなくなりつつあります。著者は、「だれが文明人でだれが未開人であるかを見分けるための座標軸は、国家によって収奪しやすい形態であるかどうである。」と述べています。










訳者の佐藤仁氏は、「あとがき」でこのように述べています。



「彼等を小さく、端へ追いやることに加担してきた私たち自身の歴史に向き合うのは、ちょっとした勇気がいる。山の民という鏡の中に、国家や資本主義に依存する私たちの本当の姿を覗き見る覚悟を持てるかどうかが、今、問われている。」



日本にも「山の民」はいました。また、現在の中央集権政治体制から追いやられている「地方」の実情を考えると、まだまだ、わたしたちの社会は到達点を迎えられないと思わざるを得ません。拙い文章なので、この本の意図が伝わっているかどうか。興味がある方は、是非『ゾミア』を読んで下さい。












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