2017年10月20日金曜日

『謎の独立国・ソマリランド』  



『謎の独立国家ソマリランド』は政治的な本ではありません。冒険ドキュメンタリーなのです。



近年、欧米の威力が衰えつつあるに伴い、いろいろな状況が生まれています。また、そのような状況に鑑みいろんな観点からの本の出版があります。例えば、エマニュエル・トッド氏の『帝国以後』、『人類五万年文明の興亡――なぜ西洋が世界を支配しているのか』イアン・モリス著などなど。フランスの経済学者トマ・ピケティの書いた『21世紀の資本論』は、その渦中のアメリカでベストセラーになっているとか。『政治の起源』(フランシス・フクヤマ著)もおもしろそう。



つまり、この二~三百年、世界を導いてきた西欧民主主義、資本主義が曲がり角に来ているということ。このままこれらの概念に新しい息吹を吹き込むのか、あるいは全く新しいパラダイムを生みだすのか…、がどうやら現時点の問題らしい。2014年6月にアルカイダ系のイスラム過激派組織イラク・シリア・イスラム国が「イスラム国」の成立を宣言しました(ついこの間壊滅に至りましたが。)。また、西欧民主主義を体現していない「中国」が世界第二位の経済大国になっています。違う体制でも、人類は発展できるということでしょうか。



この本の帯に、『「今年最高の本」、「本屋さん大賞」と「講談社ノンフィクション賞」を受賞。「三冠制覇!」』と謳われています。わたしは、そんなことはどうでもいいのですが、上記の理由で、同じ帯に書かれている『西欧民主主義、敗れたり!!』に惹かれました。



もっとも興味ある「西欧民主主義、敗れたり!」の部分が書かれている最終章を読み終えて、著者の結論は論理的なものではなく、冒険旅行から得た感覚的な結論だと感じました。もちろん、わたしが違う方向性でこの本を読んだだけの話で、それは著者のせいではありません。感動的な物語だった、と言うことは確かです。










ソマリアは無政府の内戦状態にあり、日本政府の改憲の目的、集団的自衛権の議論にもしばしば現われる「海賊」の横行する海域にあります。その「西欧が国境を定めたソマリア」の一部、旧英領ソマリランドが勝手に独立しソマリランド共和国を設立しました。しかし、事実上は独立国家として機能しているものの、現在のところ国際的にはソマリアの一部であると見なされており、国家として承認されていません。



海外諸国・国連(国連はその存在は認めていると思う。)から国家として承認されていなくとも、そこでの生活は平和が保たれており(南部ソマリアは戦闘状態で武器を携行しないと歩けない。)、独自の通貨もあり経済的にも安定しています。学校もあるし、物資も海外から入って来ます。そこで、この本の著者高野秀行氏は、どのようにこの国が運営されているのかと興味を抱き、入国に必要なビザもないまま旅立ちます。だって、国と認められていないのだから、日本ではビザは手に入りませんよね。



著者は西欧諸国の民主主義に対して、ソマリランドの民主主義を「ハイパー民主主義」と表現しています。彼は、その土地にはその土地なりの発達の歴史があるので、西欧諸国で発達した「民主主義」そそのまま移植されても、反発されるのは必至であると記しています。わたしもその点は大賛成です。しかし、その他の独自の民主主義(アジア民主主義、アフリカ民主主義、イスラム民主主義など)が、今の世界の主流である西欧民主主義とどのように折り合いをつけられるかが問題です。なぜって、彼等は西欧民主主義以外の民主主義を民主主義をと認めそうにないもの。



著者の結論を言いますと、ソマリランドの民主主義は、氏族民主主義です。彼の言う氏族とは、日本で言う藤原氏とか平氏とか時代を下れば武田家とか上杉家とかいうもの。簡単に言うと、西欧の民主主義が「個人」を基に構築されているのに対し、こちらは「氏」というものを単位に構成されているということでしょうか。ソマリランドには憲法もあり、議会も日本のように二院制です。大統領も公選で選出される、立派な立憲民主主義国家です。



二院制のひとつは、グルティと呼ばれ、日本の参議院のようなもの(ただし、著者によれば日本の参議院より、よほどまっとう)。日本の参議院は、一応有識者からなるとなっていますが、グルティは氏族比例代表制です。氏族の規模に応じて議席数が決められます。アフリカにはもともと「国家」というものが存在していなかったので、国家の範囲と言うものがあいまいです。よって、国の範囲=参加氏族の範囲となります。とても理にかなった制度です。つまり、西欧に押しつけられた国家像に依らず、歴史の流れによる国の造りとなっていることが。



問題点は、西欧民主主義に慣らされている我々が、個々の権利ではない「氏族」の縦社会の原理をどう感じるかと言うことです。実際、個人とか自我とかいう概念は西欧諸国以外の国には馴染みのない概念だったとわたしは思います。日本が民主主義国家であるとは言え、個ではなく、「家族」とか「村」の意識が強い。それはそれで、「日本の民主主義」なのかなあと。つまり、社会の形態はどうあれ、「全ての人の自由が保障されること」が価値あることなのでは。西欧諸国の人々のすべてに対し、その民主主義により個人の権利や個人の利益を保障されているわけでもなさそうなので。



スピノザは言います。「もし人間が自由なものとして生まれついていたら、自由であるあいだは、ひとびとは『いい』とか『わるい』といったことについて、なんの概念も形成していないことだろう。」と。ヒトの存在自体は、何にも妨げられない「絶対的な」存在であります。それを何者かが恣意的な社会を創作し、ヒトはその恣意性に翻弄されているということでありましょうか。











冒険ドキュメンタリーの側面で興味を惹かれたのは、「海賊国家プントランド」です。ソマリアはだいたい、ソマリランド、プントランド、南部ソマリアに分かれています。ソマリア沖で海賊が横行しているという状況は御存じでしょう。その海賊行為を行っているのが、プントランドの漁民ということです。著者によると、ソマリランドは「天空の城ラピュタ」、プントランドは「リアルONE PIECE」、南部ソマリアは「リアル北斗の拳」ということ。



このそれぞれの地域を著者は探検するのです。と言っても、サハリ探検じゃないんですから、それぞれの国(著者は国と言っているのでわたしも国と書きます)の情報収集に奔走します。



そして、ソマリランドからプントランドへ。



著者が知りたかったことは、

★海賊行為を誰がやっているのか。プントランド政府はその取り締まりをしているのか。

★外国の裏社会との関係は



が、彼にはいまいちそのカラクリがわかりません。それで、

「海賊が外国船を捕まえる映像を撮れないかな~~~。」と聞いてみます。

すると、

「できるよ。」との簡単な答え。

「海賊を雇えばいいんだ。」と。



それから、海賊を雇うために必要な諸々の経費の段取りに話は進みます。そのあらましは、割愛。興味のある方は是非読んで下さい。



その他にも、著者が過酷な冒険をするために必要だった「カート(イスラムの覚醒剤。と言っても日本のビールのような必需品なのだ)」のことやディアスポラのことなど興味は尽きません。是非、一読を。












にほんブログ村

2017年10月8日日曜日

衆院選やら、ノーベル平和賞やらで



『戦後入門』 加藤典洋著--の感想です。





歴史の本はたまに読みます。古代の歴史とか、せいぜい中世までの日本の歴史です。学校でも、昭和の歴史を学んだ記憶はありません。ですから、この本がわたしの初めての「近代の歴史」本です。



第1部      対米従属とねじれ

第2部      世界戦争とは何か

第3部      原子爆弾と戦後の起源

第4部      戦後の日本の構造

第5部      ではどうすればよいのか―――私の九条強化案



となっております。なにかどれも初めて触れる話で興味深いです。もちろん、わたしの不勉強のせいですが。



この本を購入した理由は、昨今の安部内閣のイケイケ政策にあります。安保など。しかしながら、反対意見を述べるには、それなりの知識と根拠が必要と、とりあえずこの本を読んでみることにしたのです。「論理武装」をしないと、何も語れないわたしの悪い癖ですね。



もうひとつ、まだ第五部の「どうすればよいのか」という章には、憲法改正の話が出てくるからです。加藤氏の意見は、憲法制定権力としての米国を国外に撤退させ、「より平和主義を徹底させるための憲法九条の改正」の提起です。



わたしは、自衛隊が存在することは憲法と矛盾していると思っています。しかし、自衛隊をなくすわけにはいかない。では、どのように自衛隊を日本に位置付ければよいのかと探っていました。わたしの拙い意見は、スイスのように集団的自衛権を行使しない軍隊として、ただ自国民を守るという位置付けではどうかというものです。そんなヒントが第五部にあるのではと。



しかし感想文としては、「第三部 原子爆弾と戦後の起源」に特化して書きました。なぜこの部分だけを取り上げたかと言いますと、「原子爆弾」というものの意味を今までなにも考えず、過小評価してきたことに気が付いたからです。生まれた時にはもう原子爆弾が存在していたという事実をそのまま受け入れていたんでしょうか。



もちろんこの第三部には、いろいろ政治的な歴史的な考察がなされています。例えば、日本が「無条件降伏」をしたとされているのはなぜかとか、「東京裁判」にはどんな意味があるのかとか、「東京大空襲」などの無差別攻撃がなぜなされたのかです。これらのことは民主主義に反すると言われています。このような判断がどのような意味を持つのかは、わたしにはわかりませんが、「原子爆弾がどういう意味を持つのか」という科学的な考察は、受け入れ可能です。










原子爆弾の開発とそれを使用することに、多くの科学者が反対の意見を述べていました。原子爆弾の開発は人類にとっての「とてつもない第一歩」だったからです。ボーアの覚書が紹介されています。ボーアは、当時、原子物理学、量子力学の第一人者であったデンマークの科学者です。



彼は述べています。



核エネルギーの解放に関する理論的解明は、人類にとって画期的なものであった。これにより地球上の生命を維持する強力な放射線を何十億年にも渡り、どうして太陽が出し続けることができたかを説明することができるようになった。―――中性子の存在が明らかになり、これをウランの原子核に衝突させると、新たな中性子を放出し、それがさらに原子核に衝突することによる核分裂連鎖反応が可能であることが示された。―――この試みは、「かつてこれまでに試みられた、いかなることにもまして自然の営みの流れに深く干渉するもの」であり、成就すれば「人類の知力に関してまったく未経験の事態をもたらす」であろう。



考えるに、今では日常的になっている自然界に逆らうことのこれが最初だったのかと。最初かどうかは、実際のところ、わたしにはわかりませんが。現在、遺伝子組み換え食品とか、iPS細胞による臓器の製造などがあります。しかし、原子爆弾は武器ですから、一瞬にして多くの命を奪う所が他とは徹底的に違います。



つまり、これが一旦世に放たれたなら、人類の滅亡も引き起こされると言うことです。アメリカが最初に手に入れた訳ですが、その発明をひとり独占することは不可能です。「たとえ独占できても、それは数年だろう」と推測されていました。となると、この威力を制する国際的枠組みが必要となります。勝手に原子爆弾を創って、勝手にその威力を試すことがないようにです。そこで、アメリカは、ソ連との協定が必要となります。自由主義社会とは違う国家です。



また、この爆弾を日本に試すと言うことは、国際的にEXCUSEが必要でしたが、それは政治的問題なので保留しますが、原子爆弾投下後、キリスト教等あらゆる団体から抗議の声明が出されたのは事実です。しかしそれは、事実上無視されたのです。



その後、本当にその本質が世界的に認識されたのは、ビキニ環礁で行われたアメリカの水爆実験です。放射能被曝だけで甚大な害を被る事実に世界が驚いたのです。故に、それぞれの国の主義主張に拘わらず、全世界を取り込む組織が必要となったのです。お互いに牽制し合うという意味で。



この第3部の最後に著者も引用していますが、ジョージ・オーウェルが『あなたと原爆』(1945年10月19日)という記事を新聞に寄稿しています。



彼は先ず、科学者たちが主張する原爆の「国際管理」という概念を「役立たずの提言」と切り捨てています。問題は、「原爆は人民にとってどれくらい製造するのが難しいのか」と言うことなのだと指摘します。



「もし製造が簡単なら、人民は国家に対し、大きな武器を手に入れたことになるが、それが人民には手出しできないくらい大規模で難しい工程を要するなら、国家の人民支配がより決定的になるだろう。その『あなた』と『原爆』の関係こそが、重要だ。」



つまり、原爆が入手可能ならば、人民は国家に対し容易に革命を企てることができるが、入手が不可能ならば、国家は人民に対し常に優位な立場を取り続けるということ。当面、原爆を製造できるのは、2~3のスーパー国家だけで、その少数の国家が「お互いの間で原爆は使わないという暗黙の協定」を結び、それを使うのは「ふつうの人々」に対してだけ、ということになる。











引用です。



「原爆は、最終的にあらゆる被搾取階級と人民からことごとく反逆の力を奪ってしまうかもしれないし、それと同時に、原爆を保有する国家の軍事力の基盤を均衡させるように事態を進めるかもしれない。お互いがお互いを超克できないもの同士で、彼らは仲間内だけで世界を支配するようになるかもしれない。そしてそのバランスはゆるやかな予知できない人口の増減でも招来されない限り、容易に覆されないだろう。」



「われわれは、全体的壊滅に向かっているというより、古代の奴隷帝国のような、恐るべき『安定』の時代に向かっているのかもしれない。『少数の国家による世界支配と言う』ジェームス・バーナムの理論はこれまでさんざん議論されてきたが、そのイデオロギー的な側面、つまりそこで世界の見方、信念、社会構造が容易にひっくり返されず、隣国との『冷戦』といったあり方で永続的に固定化されることになるだろうという側面は、まだ検討されたことがなかった。

もし、原爆が自転車とか目覚まし時計のように安価で簡単に作れるなら、原爆は簡単にわれわれを野蛮状態に戻してしまうだろうが、と同時にそれは、国家主権の終わり、高度に中央集権化された警察国家の終わりを意味するかもしれない。一方、こちらのほうはありそうだが、もし原爆が戦艦くらいに高価で手に入りにくいなら、『平和ではない平和』が無限に続くという代償のもとに、以後、大規模な戦争に終止符が打たれる可能性はある。」



これは、1945年に書かれたものですが、とても予言的だとは思いませんか。実際、ほぼそのように世の中はなっています。しかし、技術は進歩します。当時は高価で手に入れられない原子爆弾も、今はネットで製造方法を検索できる時代です。つまり、われわれは、彼の言を借りれば、「容易に野蛮状態に戻ってしまう」ということ。



現実に、テロが横行するこの現代、彼らを武力でねじ伏せることは困難です。彼らをも、話合いの場に引き込み、原爆の協定を結ばせる必要性が生じているのです。彼らを国際コミュニティの中に抱え込まなければいけない状況です。原子爆弾は、人類全体の相互理解、相互信頼を要求していると言えます。



パンドラの箱を開けてしまった人類は、もう後戻りはできません。それ以上に、今なお、人類は新たなパンドラの箱を開け続けているのです。科学は進歩し続けますから。もうそこに『量子爆弾』の世界が見えているのかも…。「映画」には、もう登場しましたね。
















にほんブログ村