2018年3月25日日曜日

横尾忠則×『シェープ・オブ・ウォーター』



横尾忠則とかけて『シェープ・オブ・ウォーター』と解く。して、その心は。



今日の朝日新聞の「折々のことば」で、横尾忠則氏の言葉が掲載されていました。

「その年齢を超えてしまったら、今度は逆に体自身が行動を始めるようになる。」



対談集『創造&老年』からの引用らしい。



80歳を超えて現役で創作活動を続けている9人と語らううちに、彼らが「身体知性」とでも言うべきものに身を委ねようとしているように感じたと、氏は言っている。「脳の支配から離れ」ること。余計な意味づけを削いで軽くなること。それこそが成熟と言うのかもしれないと。



わたしは、芸術家でもない凡人の彫金師でしたが、わかるような気がします。脳で一生懸命考えて造った作品は、全然良くないという事。勝手に手が動いて、いつの間にか出来ていた作品の方が、気に入ります。脳は頭(理性)だけにあるのではない。手にも足にも腸にも、どこにでもあるのだという事。



この事実は、芸術家と言われる人ばかりではなく、一つの事に打ち込んでいる人なら誰でも経験していることではないでしょうか。考えなくとも体が動くという事。









『シェープ・オブ・ウォーター』は、現在、日本で公開中の、今年の米アカデミー賞を獲得した作品だそうです。わたしは、そんな事とは露知らず、モロッコからの帰りの飛行機内で見ました。英語で見ていたので、まあ、60%くらいしか理解できていませんが、そんな大層な映画とは。半魚人と言葉を発することが出来ない聾唖者の女性の交流のお話です。ディズニー映画の如くハッピーエンドの話だなあとの理解でした。



昨日の新聞で3人の人物がレヴューしておりました。映画監督と米国研究家と評論家。それぞれに好意的な評価です。何か「深」読み込みすぎという感はしますが、映画評論家の寺脇研氏の意見には「なるほどな」と共感しました。



この映画に登場する半魚人は音楽を解し、映画に興味を示します。彼はこのことについて、「この映画は、文化にしか、人と人を結びつける力はない」と言っているのではないかと指摘しています。思想や利害によるコミュニケーションは対立を生むと。しかし、文化は対立を生まないと(音楽は国境を超えるとかそんな事か。)。この映画を黒人や同性愛者ら社会的弱者の連帯が主題だという論評があるが、そういう近代的なヒューマニズムの話ではなくもっと原始的なものだと言っています。



ヒロインは半魚人に純粋な好奇心から接している。「差別はいけない」という思想で助けているのではなく。同様に、「半魚人を助けるヒロイン」を助ける隣人のゲイの画家は愛猫を半魚人に食べられてしまいますが、彼は、半魚人だから仕方がないと怒りを表しません。寺脇氏は「論理で差別はいけないと言っていると、実害を被った時、『許さない』に容易に転じてしまう。」と分析。この作品の主題は、「近代への抵抗」、あるいは「文化の勝利」だと彼は主張しています。





という事で結論は、



「理性を捨てよ、町へ出よう」です。









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2018年3月24日土曜日

最後まで読まなくても全然気にならないミステリーって、なんだろう。




『雪の夜は小さなホテルで謎解きを』という本の事です。



最近、本をたくさん買い込んだのですが、全然、読む気になれず(例えば、『脳の意識 機械の意識』です。)、読む気になるように導入剤として、素敵なミステリーを読もうと…、この本を買いました。



新聞の書評欄にも取り上げられていたんです。「雪に閉ざされた小さなホテルでおこる謎と奇跡の物語。」と。本の帯にも、「MWA賞、受賞。映画化決定!」とありました。また、「ほのぼのとしていますがそれだけには終わらず、スリリングで驚きの仕掛けもある盛りだくさんなストーリーです。」と。たぶん、わたしは、ほのぼのとした部分で嫌気がさして、スリリングなところまで読み続けられなかったのでしょう。でも、5分の4は読んでいますよ。








書評や本の帯を読んで、わたしはアガサ・クリスティを思い出したんです。アガサ・クリスティは、若い時分に読みましたが、それ以来読んでいません。でも好きな作家で、読めば満足感を得られる作家の一人でした。



ですから、今持っている彼女の本を読み返せば良かったんだと。今日のテレビでまたクリスティ原作のミステリーがあります。明日もあるとか。テレビも彼女の作品をドラマ化すれば「安心」と思っているのでしょう。



歳とともに、なんだか新しいものに気が向かなくなっていくのでしょうか。つまり、「今までの安心」を手に入れるために。そこにある安全。新しいものに手を出して「危険」を被らないように。



高齢化社会に進歩はありませんねえ。そして、経済効果もね。









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2018年3月23日金曜日

カルヴィーノの不思議な世界は、楽しいけれど難しい。



『不在の騎士』は、『木のぼり男爵』、『まっぷたつの子爵』とあわせて三部作となっています。題名から創造される通り、大人のための「童話」といった趣でカルヴィーノらしい題名と言えるでしょう。



わたしが読んだ順に、



『木のぼり男爵』は、木の上に上って生涯を木の上で暮らした男爵のお話。主人公コジモは十二歳の時、厳格な父親に反抗し、食事の時間に退席して庭のカシノ木に登ったきり二度と下りて来なかったのです。



『まっぷたつの子爵』は、トルコ軍とキリスト軍の戦いの時代の話です。主人公のメダルト子爵は、その戦いのさなかトルコ兵の半月刀でまっぷたつにされてしまいます。そして右半分の身体だけ軍医の手当てにより生き延びました。その後、自分の城に帰った子爵は、全てのものをまっぷたつにしようと試みます。今までは「不完全な身体」を持っていたのだと考えたからです。半分の身体になった時、わたしは完全な身体を手に入れたのだ。半分になれば真実を手に入れることができると。



その後、城のある村に子爵のもう半分が戻ってきます。彼は、キリスト教徒と回教徒の戦いでの死体の山に埋もれていたのですが、そこを通りかかったキリスト教隠者に見出され、秘薬やなにやらで一命を取り留めます。そして、故郷を目指したのでした。右半分は「悪」、そして左半分の隠者に助けられた身体は「善」を体現していました。



『不在の騎士』とは、鎧の中がからっぽの騎士です。自分が「存在するのか」あるいは「存在しないのか」の間で揺れ動く「心」か。








1960年、カルヴィーノ自身が、この空想的な<歴史>三部作についてのノートを残しています。その中で彼は、この三部作全体を人間の「存在」の仕方の歴史的進化を示すものと意味付けています。



『不在の騎士』(中世が背景)においては、盲目的な「不在」の状態の中で「存在」することを目指す原初的な人間、ついで『まっぷたつの子爵』(17世紀末)では社会によって引き裂かれている状態から「完全性」を回復しようとする人間。そして、最後に『木のぼり男爵』(18世紀啓蒙主義とフランス大革命の時代)で、自由意志による選択を貫き通す(木に登ったまま、ついに地上に降りることなく生涯を全うする)ことによって真に人間的な「完全」に到達しようとする人間―――つまり「自由へと至る三段階」が描かれている。と説明しています。



カルヴィーノはこのように書いていますが、これは作者による心情吐露であり、読者としては、彼の言葉に縛られることなく作品を観照しても良いのではと感じます。この三作品の奇想天外な内容にただ「ホーツ」と感心してもいいはず。今回『不在の騎士』を読み終わり、もう一度、他の作品も読み直してみようかなあと、思ったところでした。









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2018年3月16日金曜日

ベーシックインカムも今では具体的に検討されるようになりましたよ。



『ベーシックインカムは究極の社会保障か』を読んで





いろいろな論客が「ベーシックインカム」について、本書で語っています。「本書は2010年9月に出版された『POSSE Vol.8』の特集『マジでベーシックインカム!?』に掲載された論文を中心に再構成したものである」との注釈がついていました。



ベーシックインカムとは、簡単に言うと「基本所得」を総ての人に平等に給付するものです。これに似たもので「給付付き税額控除」があります。経済学者ミルトン・フリードマンが提唱した「負の所得税」をベースにした考えです。フリードマンとは、あの有名な『資本主義と自由』の著者です(これは、わたしなりの皮肉です)。その違いは、ベーシックインカムは、働かなくても最低限生きていけることを主眼としていますが、「給付付き税額控除」は働く事を受給の前提としていることです。つまり、働きたくても仕事のない人たちに対しては、ベーシックインカムが有効ですし、また、何かの事情で働けない人々に対してもベーシックインカムの方が有効です。



この本を読んで、ベーシックインカムに対し、大まかに三つのアクセス方法があるのかと思いました。ひとつは、新自由主義の人たちの理論。「福祉」をベーシックインカムに集約し、福祉に対する財源を減らそうとするものです。ベーシックインカムに一本化すれば、年金、雇用保険、生活保護手当、福祉手当、児童手当などなどを廃止できることができます。



ふたつ目は、資本主義という現在主流の考えを否定することなく、その中で理想の社会を作ろうとする人々たちの見解。つまり、福祉国家は公的な給付ゆえに、その受給要件が厳しい。そして、我が国の生活保護にも見られるように、受給者がいろいろなことを国家に詮索されて、恥辱感を持つことも否めない。ベーシックインカムは無条件に支給されるものなので、政府のいらぬ詮索もなく恥辱感がなくなるという事。そして、ユートピア的な観点から言うと、生活に必要な基本的なものは支給されるので、「働く」という意味が変わって来るということ。自分の好きな仕事を選ぶことができるようになるということです。



最後は、資本主義・社会主義、公的・私的(個人)という二元論から解き放たれ、第三の「何か」を模索しようとするものです。わたしは、この第三の理論に超興味があります。資本主義は人類最後の最高の概念ではない。人類の歴史は頂点に達したのではなく、まだ、発展途上なのだというわたしの「思い」にマッチしています。


第一、第二の理論の弱いところは、先進国の間でベーシックインカムが達成されて人々が気の向かない「労働」から解放されたとしても、その付けが国内の移民労働者や第三世界で働く人々に回されるのではないかということです。また、働きたくても働く仕事が物理的にない場合、ベーシックインカムが支給されているから良いじゃないかと言うことになってしまうという事。つまり、仕事の場から疎外されて、より一層の「孤独」に向き合わなければいけない。その人がなぜ働けないのかと言う「働けない仕組み」を問うことがお座成りになるということです。









この本では9人の論客が意見を述べています。その中で、わたしが興味を持った三人の意見を紹介します。萱野稔人さん、佐々木隆治さん、斎藤幸平さんです(第三の理論です。)。



萱野稔人さんは、資本主義の限界について述べています。彼によれば、高度成長は一回しか起らないという事。都市化と人口増加が終わった先進国では、市場が拡大しないので労働力が必要なくなる。そして、失業の蔓延化。経済成長は歴史的な一回限りの例外なので、成熟社会は以前の「常識的状態」に戻るということ。彼は、資本主義は市場経済とイコールではないと言っています。市場経済は、市場の外でお金(税金)を調達できる存在(国家)に依存しなければならない。市場が機能不全に陥った時、国家がいろいろな市場の矛盾を肩代わりする事で、市場の崩壊が食い止められると。市場は国家に内在的に依存しているので、国家の存在をも含んだ上での経済システムを志向する事が望ましいと言っています。(しかし、これでは、「個人と国家」という二元論からは脱却できませんねえ)。



佐々木隆治さんの見解。彼は、「市場の論理を野放しにしたまま、いくら貨幣を一律に分配(ベーシックインカム)しても、原理的には生存を保障することにはならない」と言っています。



市場とは、なんの利害関係も持たない人同士がモノを交換するという事。そこには個々の人格はなくただモノの有用性だけが意味を持っています。(知り合いだからまけておこうとか、家族だからタダにしようということは一切なし)。そして、そのモノの価値を普遍化するために貨幣が必要なのです。貨幣が重要な物となればなるほど、生産は貨幣を目的として行われるようになる。貨幣さえあれば、個人は他者に依存することなく社会的力を行使し、他者を動かすことができる。つまり、市場競争の中でのみ個人は自由で平等で、そこで認められた所有こそが正当だという観念が生まれる。ベーシックインカム論も同じように貨幣を使って生存や自由の問題を解決しようとしている。問題は「脱労働」ではなく「脱商品化」である。



つまり、賃労働でお金を得、そしてそれでモノを買わなければ生きていけないというシステムを変えなければいけないという事。市場経済の外でモノを生産し、絶えずモノの偶然的関係性に振り回されることのない社会を作り上げていくことです。(う~~~ん、段々第三の理論が見えてきましたね。)



斎藤幸平さんの記述。彼は「市民労働」という概念を提唱しています。稼得労働のみが意味のある労働形態ではない。家事労働、環境保護活動やボランティアというお金を得ることのできない労働も社会に不可欠な労働である。そこで、市民労働に従事する市民に支払われる「市民給付」というコンセプトを打ち出しています。そして、個では生産できない資源やサービスを市場の媒介なしに全ての人に保証する事が不可欠です。





ドイツの既存の社会運動に賛同者による共同出資によるコミュニティというものがあるそうです。そのコミュニティそのものは市場原理から逸脱できませんが(有限会社なので)、住民は非営利の社会的インフラを構築し、貨幣を介さない住民同士の交流が図られます。必要な物を共同しながら自ら生産し管理し消費する事。同時に、新たな民主主義の実現の息吹も含まれているように思われます。














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2018年3月15日木曜日

モロッコ後日談


9日、夜に帰国し、土曜日、日曜日と、フラフラ状態で過ごしておりましたが、月曜日は、囲碁の日。いつもの如く、11時頃、家を出発し、教室へ。この状態で大丈夫かと思っていたら、難なく、1日無事にクリアしました。やはり、好きなことをしていると、元気だネ!

そして、昨日、水曜日。再び囲碁へ。この日は3月14日。つまり、ホワイトデー。わたしは、いつもの感謝を込めて、先生と若先生と、数回お世話になった人物に「ゴリラの形のチョコ」を差し上げました。で、その人物からは、予期せずワインを頂きました。これでは、お礼の意味が無くなってしまいます。が、恐縮しながらも嬉しかった。

そして、若先生(22歳)からは、手作りの生チョコの返礼が。マジ、嬉しい。






また、モロッコで購入したお土産で、帰ってから、良かったなあ、と思ったもの。

モロッコの通貨を使い果たそうと、ホテルの近くのスーパーで買った、「インドネシア製」の器。凄くきれいな紅。店員さんは、中国茶を飲む器だと言ったけど、「ハイハイ」と受けておいて、なんにでも使えそうと。

家に帰って、深夜、ビールを飲みながら、冷蔵庫にあったピクルスをその器に盛ると、緑と赤の対比が素晴らしかった。また、次の日、空港で同じく、通貨を消費するために買った「くるみ(わたしの大好物)」を盛ると、赤と茶の雰囲気も良く、また、そのクルミの味付けが抜群で、日本テイストと一味違いました。GOOD! 同じ赤のお皿もあったのですが、スーツケースが重くなるといけないなと、躊躇したのが失敗。お皿も買えばよかった~~~あ。

そして、クルミを買ったときに貰った、バラの花一輪(ピンク)。なんでくれたのかはわかりませんが、女性客はもらった様子。この生バラを持って帰っていいのか???と思ったけど、機内持ち込みバッグに入れて、持って帰りました。

帰って、すぐバッグを開けてみると、ぐったりした様子。でも、即、コップ水を入れて指しました。次の日の朝、見事に復活していました。「生き物って凄い」と思いました。しかし、それが、生き物の幸せかどうかは、考察が必要とも。切り花の幸せはどこと。


そんなところです。








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2018年3月11日日曜日

モロッコに行って来ました~~~あ。

金曜日の夜、名古屋に戻りました。7泊10日の旅です。つまり、機内で二泊するのです。モロッコとの時差は9時間で、今も頭は朦朧としております。以前は、そんなことなかったのになあ~、と衰えを覚えるこの頃。

ツアーというものに参加したのは、二回目です。前回のエジプトはわたし以外の人は皆ペアで、一人はわたしのみでしたが、今回は「おひとり様限定ツアー」という事で、皆が一人旅行でした。皆がバラバラなので、特定の人同士が話をしているという事はなく、わたしもをそれなりに、いろいろな人と話をすることが出来ました。

しかし、日にちが経つ内に、やはりグループらしきものは形成されていきます。わたしは、そのグループに付かず離れず渡り歩いておりました。旅の話ではなく、人の話になってしまって恐縮ですが、やはりわたしは、「人」の方に興味があるようで。。。








そこで、今回思ったのは、会話とは communicate の手段ではなく、友好関係を醸し出すツールだったんだという事。つまり、話の内容なんて何でも良いんだという事。毎回、毎回、同じような事を話して、楽しそうな雰囲気を作り出せばいいんだ。

わたしは、今まで律義に人が何を話しているのか理解し、それに応じる…、という事をしておりましたが、当たり障りなく会話をするという技術も必要ですねえ。

この年になってそんな事が分かったのかあ~、と言う「話」です。と言うか、そういう事も受け入れられる歳になったのかなあという感慨。


観光のお話はまた後日、という事に致します。







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