横尾忠則とかけて『シェープ・オブ・ウォーター』と解く。して、その心は。
今日の朝日新聞の「折々のことば」で、横尾忠則氏の言葉が掲載されていました。
「その年齢を超えてしまったら、今度は逆に体自身が行動を始めるようになる。」
対談集『創造&老年』からの引用らしい。
80歳を超えて現役で創作活動を続けている9人と語らううちに、彼らが「身体知性」とでも言うべきものに身を委ねようとしているように感じたと、氏は言っている。「脳の支配から離れ」ること。余計な意味づけを削いで軽くなること。それこそが成熟と言うのかもしれないと。
わたしは、芸術家でもない凡人の彫金師でしたが、わかるような気がします。脳で一生懸命考えて造った作品は、全然良くないという事。勝手に手が動いて、いつの間にか出来ていた作品の方が、気に入ります。脳は頭(理性)だけにあるのではない。手にも足にも腸にも、どこにでもあるのだという事。
この事実は、芸術家と言われる人ばかりではなく、一つの事に打ち込んでいる人なら誰でも経験していることではないでしょうか。考えなくとも体が動くという事。
『シェープ・オブ・ウォーター』は、現在、日本で公開中の、今年の米アカデミー賞を獲得した作品だそうです。わたしは、そんな事とは露知らず、モロッコからの帰りの飛行機内で見ました。英語で見ていたので、まあ、60%くらいしか理解できていませんが、そんな大層な映画とは。半魚人と言葉を発することが出来ない聾唖者の女性の交流のお話です。ディズニー映画の如くハッピーエンドの話だなあとの理解でした。
昨日の新聞で3人の人物がレヴューしておりました。映画監督と米国研究家と評論家。それぞれに好意的な評価です。何か「深」読み込みすぎという感はしますが、映画評論家の寺脇研氏の意見には「なるほどな」と共感しました。
この映画に登場する半魚人は音楽を解し、映画に興味を示します。彼はこのことについて、「この映画は、文化にしか、人と人を結びつける力はない」と言っているのではないかと指摘しています。思想や利害によるコミュニケーションは対立を生むと。しかし、文化は対立を生まないと(音楽は国境を超えるとかそんな事か。)。この映画を黒人や同性愛者ら社会的弱者の連帯が主題だという論評があるが、そういう近代的なヒューマニズムの話ではなくもっと原始的なものだと言っています。
ヒロインは半魚人に純粋な好奇心から接している。「差別はいけない」という思想で助けているのではなく。同様に、「半魚人を助けるヒロイン」を助ける隣人のゲイの画家は愛猫を半魚人に食べられてしまいますが、彼は、半魚人だから仕方がないと怒りを表しません。寺脇氏は「論理で差別はいけないと言っていると、実害を被った時、『許さない』に容易に転じてしまう。」と分析。この作品の主題は、「近代への抵抗」、あるいは「文化の勝利」だと彼は主張しています。
という事で結論は、
「理性を捨てよ、町へ出よう」です。
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