2018年4月27日金曜日

『アナキズム入門』を読んで、この本を思い出しました。




『里山資本主義』を読んで





この本は多分一年くらい前に買いました。また最近、新聞広告などで見かけるようになったので、「ああ、早く読まなきゃあ」と。早く読まないと時代遅れになるかもと。つまり、今読まないと、新鮮さが失われる本の類のような気がしましたから。



読みましたところ、内容は新聞やその他で今までに「記事として報道されてきたもの」の集大成という感じでした。目新しいところはナシ。と言って、役に立たなかったと言う訳ではありません。いろいろな事を考えました。








里山資本主義は「マネー資本主義」に追従しないで、お金のやり取りのない「おだやかな経済」を志向しようという提言です。例えば、裏山で薪を拾ってきて、自分で育てたお米でごはんを炊いたら、電気やガスを使わなくてもよい、何も買わなくてよい。つまり全然経済活動には貢献していないという事です。今の世の中は、お金を媒介にして取引をしないと世の中の役に立っていないと錯覚させる仕組みです。なんでもかんでも大量に生産し大量に消費させること。そしてそれが、GDP/国内総生産を押し上げることになります。GDP世界第三位と実生活の豊かさは必ずしもリンクしていないのです。



「そもそも人はなぜ職業を持たなければいけないのか」というのがわたしの疑問です。いつからそうなったのでしょうか。端的に言えば、「お金」というものができてからでしょう。ギリシャのアテネ金貨が一番有名ですが、その前から、お金は存在していました。お金の存在は、人が仕事をしてお金を得て何かを「買わなければいけない」ということを強要します。自然の恵みを狩猟採集して生きていた時からの大転換です。



しかしイギリスで起った第二次産業革命前までは、人はまだ自然の営みの中で生きていたような気がします。この産業革命から「マネー資本主義」が湧きだしてきたのでしょうか。(イギリスは何も無いものを売る天才だ。銀行然り、金融業然り、特許、知的財産権然り…、CO2の売買権などなど。)それもまだせいぜい200年というところです。つまり、現在の体制が「人類が理想の形態を手に入れた」という最終段階ではないのです。本書では、「懐かしい未来」と表現しています。以前のような「お金を媒介」としない関係を結ぶことによって、新しい未来を築いていこうという事。なにもほんとうに原始時代の狩猟採集生活あるいは物々交換生活に戻ろうと言っているのではなく、せめて「無からお金を生みだす」ようなシステムは考え直した方が良いのでは。



もうひとつ思うことは、職住近接の問題。人がお金で物を買うようになってからは、職を得てお金を稼がなければいけないことになりました。そして、「都会」の出現です。お金を稼げない「田舎暮らし」を捨てた人々は都会に群がります。そこでは、生活の場所と働く場所が異常に離れています。わたしがまだ子供の頃は、小学校の友達の親はたいてい近所で働いていました。小さな商店を営んでいたり、近くの市場で働いていたり、工場で働くのも近所の工場でした。大人たちがいつも近くにいたような気がします。そこには「家族」が存在していました。里山ではそんな生活があると著者は紹介しています。そしてまた、少子化の問題や高齢者介護、老人福祉の問題もこんなところから解決していくのではと提言しています。問題は、いかにお互いを縛り付けない「絆」を築けるかですかねえ。










また、里山資本主義と企業が押し進めるスマートシティの近似性を著者は指摘しています。これに関連して最後に、ひとつ新聞記事を紹介したいと思います。『日本企業の「善意」震災復旧早めた』というもの。英国エディンバラ大学の研究者が発表した論文です。



2011年の東日本大震災で、部品供給網を寸断された複数の日本企業が、限られた資源を時には競合企業との間で調整し共有したことが、迅速な生産復旧につながったと論文は指摘しています。大きな被害を受けた企業の多くが、単なる契約上の義務の範囲やグループ企業の系列を超えて協力し合ったことに着目し、企業間コミュニティを通じて「社会資本」が働いたと指摘。各社が知的財産権やその他の商業的利害について法的保証を要求していたら実現しなかっただろうと論じています。



日本には「個」よりも「和」を優先する独自のモラルがあり、米国(多国籍企業、グローバル経済)に押しつけられても、軽やかにそれを有耶無耶にし、密かに独自路線を走っているところもあります。そんな「日本的資本主義(?)」をこれからも守ってもらいたいものだと思っています。








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2018年4月20日金曜日

思考能力を取り戻して、夢想にいそしむのは楽しい。


囲碁の研究ばかりしていて、読書の時間が取れないとか、文章を書く試み、英語の勉強もおろそかになっています。囲碁をすることは楽しい事ですが、そればかりしていると何か他の部分の脳が空っぽになっていくようで、少々、虚しい。

それで、わたしには何故時間がないんだろうかと考えてみましたら、そうだ、夜ビールを飲んでいるからだと思い至りました。人生の半分は睡眠とアルコールによる脳のマヒ状態で暮らしているのだと。

と言ってもビールを飲むことはやめませんよ。








それで、朝、一時間早く起きる決心をしました。三日前です。朝とにかく一時間は何かをしようと。一番やりたいことは文章を書くことですが、「文章を書く」と決めてしまうとパソコンに向かって画面を見つめながら時間が過ぎていくという事が、容易に想像されます。

今までの読みかけの本の続きを読む事から始めました。『アナキズム入門』です。読み終えました。何か思考回路が復活したみたいで、思考能力が沸々と蘇ってきました。

わたしは、アナキストであると標榜していますが、アナキストとは何かと言われると定かではありません。欲しい本を本屋さんで探していてふと上の棚を見るとこの本がありました。それで、ちゃんとアナキズムを考えてみようと購入したのでした。

わたしは、小学生の時からフェミニストです。高校生の時アナキストでもあると思いました。この本を読んで、「わたしはアナキストであった。」と確認できました。その感想はまたの機会に!










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2018年4月6日金曜日

人類とは違う形の「知性」に気付きましょう。



『植物は<知性>をもっている』という本


著者は、ステファノ・マンクーゾ+アレッサンドラ・ヴィオラ、久保耕司訳です。わたしは、植物についてはまったく興味はありません。どんな種類の植物が存在するのかも植物の名前も全然知りません。ほんとに一般的な植物のみわかります。例えば、松とか菊とかチューリップとか。



以前、エジプトにツアー旅行に行った時、現地のツアーガイドさんが、「日本人はなんで木の名前に興味があるのか。エジプトには、木の名前はない。木は、ただ太陽から逃れるためのものなんですよ。屋根を葺く木だけ名前が付いています。」と言っていました。日本の観光客が、「あれは何の木だ。あれは、あれは。」と聞くのにウンザリしたのでしょう。わたしもその伝で、「あの木は、何。その木は何。」と言っている周りの人達に「ああそうですか。」と返事するのみです。「何々の見ごろになりましたね。」と言われても、サッパリ見当がつきません。



しかし、植物の構造については興味あります。動物が進化したのは、ミトコンドリアを手に入れたからですが、植物は葉緑素を手に入れました。彼らは、太陽から栄養を吸収しているのです。日本の科学者で葉緑素の研究をしている人が(女性と思う)います。つい最近、人工的に葉緑素を作りだす第一歩に成功しました。人類が、人口葉緑素を手に入れれば、食料問題は解決します。もし、人が植物のように葉緑素でエネルギーを獲得するなら、人間の大きさは、サッカー・コートくらい必要だと聞いた記憶があります。



もうひとつ興味を魅かれることがあります。それは、植物は植物同士でコミュニケーションを図れるということ。化学物質を出して、「ここは、俺のテリトリーだ。」とよそ者に伝えることができる。あるいは、仲間に同様に化学物質で危険を知らせることができるとか、そんなことを聞きました。そんな訳で、この本を読みました。









この本のスタンスは、植物には知性があるということ。それも、人類以上の能力を持っているということ。植物には、「脳」がないので知性を持っていないというのは間違いであると提言しています。どんなにちっぽけな動物でも、それらが「脳」を持っていれば、人間はそれらに植物以上の地位を与える。それは、それらが「動く事が出来る」という特性を持っている事に一因があると言います。人間は、動かないものに冷淡であると。そこに著者は疑問を投げかけているわけです。



現在、動物は法律的にも守られています。動物保護法とか何とかかんとか。ですから、この著者は、将来植物に関する研究が進んで、彼らにも動物と同じく保護される権利があると見なされる時が来ると断言します。その時、人類は「植物保護法」を持つことになるでしょう。むやみに木を切ることはできなくなりますよ。





本を読んで、一番「なるほど」と思ったことは、「植物はモジュール構造である」という指摘です。動物の器官は一つしかありません(二つあるものもあるが)。腕を切られたら、もうその腕はない。頭を食べられたら、その物は死ぬしかない。が、植物はどこを食べられても、その他の部分は生き残ります。たくさんの構成要素が機能的に集まっているので、どこかが失われても他のところがそれを補完することができるのです。だから、動物は人類も含め、植物を食べることができます。つまり、植物は昆虫とか動物に食べられても死ぬことはなく、引き続き食料を供給していけるのです。



しかし、彼等が存在しているのは、動物の食料となるためではありません。それは、彼らの策略なのです。彼らの方が動物を操っているのです(あるいは、共生)。もちろん人間も例外ではありません。彼らは、「二本足で歩く奇妙な動物と無理にでも友人となる価値はある。」と著者は述べています。繁栄の頂点に位置する人間は、彼らの世話をよくしてくれます。人間が好むような果実や味、香り、色を与えること。つまり、人間の好みに合わせることによって、人間が世界中に彼らの仲間を広げてくれる。世界中での彼らの繁栄が約束されるのです。



『植物には、さらに15の感覚がある』という章があります。人の五感プラス15という意味です。例えば、湿度を計ること、あるいは重力、磁場、空気中や地中の化学物質を感知し測定する能力…などなど。こういった感覚で植物は日々生き延びています。簡単に言いますと、根は重力を感知してその方に向かう、茎は反対の方へ向かう。そして、有毒な化学物質を避ける、有益な化学物質の方へ向かう等。



地球上の生物で、多細胞生物の99.7%は、植物が占めているそうです。それは、人類とすべての動物を合わせても0.3%ということになります。もし、宇宙人が地球に来たら、植物が地球を支配していると見ても不思議ではない。地球は植物が支配している生態系なのです。植物は、動物よりはるかに地球という環境に適応し、繁栄しています。



では、植物に「知性」はあるのか。著者は、「知性」の定義の問題だと述べています。人間は、自分の姿からしか他の物を判断することができない。動物は、姿かたちは違っても、持っているものはほぼ同じ。脳もあれば肺もある。消化器官は胃である。つまり、同類と理解できます。しかし、植物となればどうか。植物は異なった方法で、地球で生き延びています。「生き延びる知性」を有していると言う事が可能です。



著者は、人類が植物のような他の「知性」を理解できるようになった時、この宇宙に「知性」を持つ他の生き物が存在するかどうかを「知る」ことができると言います。今、知性を持つ何かが、人間の前に姿を現したとしても、人類は、そのものが「知性」を持っているのかどうかを判断できないという意味です。植物の知性を研究することによって、人類は、宇宙に向かってどういう風にメッセージを送信すべきなのかということもわかって来るだろうと著者は主張している訳です。





私、スタニスワフ・レムの『ソラリスの陽のもとに』を思い出してしまいました。 












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