『里山資本主義』を読んで
この本は多分一年くらい前に買いました。また最近、新聞広告などで見かけるようになったので、「ああ、早く読まなきゃあ」と。早く読まないと時代遅れになるかもと。つまり、今読まないと、新鮮さが失われる本の類のような気がしましたから。
読みましたところ、内容は新聞やその他で今までに「記事として報道されてきたもの」の集大成という感じでした。目新しいところはナシ。と言って、役に立たなかったと言う訳ではありません。いろいろな事を考えました。
里山資本主義は「マネー資本主義」に追従しないで、お金のやり取りのない「おだやかな経済」を志向しようという提言です。例えば、裏山で薪を拾ってきて、自分で育てたお米でごはんを炊いたら、電気やガスを使わなくてもよい、何も買わなくてよい。つまり全然経済活動には貢献していないという事です。今の世の中は、お金を媒介にして取引をしないと世の中の役に立っていないと錯覚させる仕組みです。なんでもかんでも大量に生産し大量に消費させること。そしてそれが、GDP/国内総生産を押し上げることになります。GDP世界第三位と実生活の豊かさは必ずしもリンクしていないのです。
「そもそも人はなぜ職業を持たなければいけないのか」というのがわたしの疑問です。いつからそうなったのでしょうか。端的に言えば、「お金」というものができてからでしょう。ギリシャのアテネ金貨が一番有名ですが、その前から、お金は存在していました。お金の存在は、人が仕事をしてお金を得て何かを「買わなければいけない」ということを強要します。自然の恵みを狩猟採集して生きていた時からの大転換です。
しかしイギリスで起った第二次産業革命前までは、人はまだ自然の営みの中で生きていたような気がします。この産業革命から「マネー資本主義」が湧きだしてきたのでしょうか。(イギリスは何も無いものを売る天才だ。銀行然り、金融業然り、特許、知的財産権然り…、CO2の売買権などなど。)それもまだせいぜい200年というところです。つまり、現在の体制が「人類が理想の形態を手に入れた」という最終段階ではないのです。本書では、「懐かしい未来」と表現しています。以前のような「お金を媒介」としない関係を結ぶことによって、新しい未来を築いていこうという事。なにもほんとうに原始時代の狩猟採集生活あるいは物々交換生活に戻ろうと言っているのではなく、せめて「無からお金を生みだす」ようなシステムは考え直した方が良いのでは。
もうひとつ思うことは、職住近接の問題。人がお金で物を買うようになってからは、職を得てお金を稼がなければいけないことになりました。そして、「都会」の出現です。お金を稼げない「田舎暮らし」を捨てた人々は都会に群がります。そこでは、生活の場所と働く場所が異常に離れています。わたしがまだ子供の頃は、小学校の友達の親はたいてい近所で働いていました。小さな商店を営んでいたり、近くの市場で働いていたり、工場で働くのも近所の工場でした。大人たちがいつも近くにいたような気がします。そこには「家族」が存在していました。里山ではそんな生活があると著者は紹介しています。そしてまた、少子化の問題や高齢者介護、老人福祉の問題もこんなところから解決していくのではと提言しています。問題は、いかにお互いを縛り付けない「絆」を築けるかですかねえ。
また、里山資本主義と企業が押し進めるスマートシティの近似性を著者は指摘しています。これに関連して最後に、ひとつ新聞記事を紹介したいと思います。『日本企業の「善意」震災復旧早めた』というもの。英国エディンバラ大学の研究者が発表した論文です。
2011年の東日本大震災で、部品供給網を寸断された複数の日本企業が、限られた資源を時には競合企業との間で調整し共有したことが、迅速な生産復旧につながったと論文は指摘しています。大きな被害を受けた企業の多くが、単なる契約上の義務の範囲やグループ企業の系列を超えて協力し合ったことに着目し、企業間コミュニティを通じて「社会資本」が働いたと指摘。各社が知的財産権やその他の商業的利害について法的保証を要求していたら実現しなかっただろうと論じています。
日本には「個」よりも「和」を優先する独自のモラルがあり、米国(多国籍企業、グローバル経済)に押しつけられても、軽やかにそれを有耶無耶にし、密かに独自路線を走っているところもあります。そんな「日本的資本主義(?)」をこれからも守ってもらいたいものだと思っています。
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