2018年5月18日金曜日

春、昆虫の季節です。

『昆虫はすごい』を読んで


昆虫に学術的に興味があるわけではありませんが、昆虫の存在自体に興味があります。なんせ、太古の昔からこの地球に存在し、地球上の生物のほとんどは昆虫が占めていると言っても過言ではないようですから。そして今なお、新しい「種」が発見されています。著者によりますと、新種発見というのはすごい事のようですが、それ自体はあまりたいしたことはないとのことです。なぜなら、今知られている昆虫の種の同数あるいはそれ以上の知られていない種が存在するからと。それよりも、それが新種であると科学的に判定することがたいへんなようです。



著者は、丸山宗利氏。1974年生まれの農学博士。アリやシロアリとの共生昆虫の多様性がご専門で、アジアでは第一人者です。彼は、あとがきで「昆虫により親しみを感じていただくために、ところどころ昆虫とわれわれヒトとを対比している。……、昆虫の本能的な行動と、人間の学習的な行動では意味が異なるし、昆虫の種間の関係と、ヒトの個体間、集団間の関係とは全く別物である。……、そのことだけは念を押しておきたい。」と述べていますが、そのことを踏まえつつも、「ヒトで言うとこんなことか」という例えは、とてもおもしろいですよ。とりわけ、学術的な興味を欠くわたしのような者は、そんなところに魅かれてしまうのです。













昆虫の種がものすごく多彩なのは、変態と飛翔に関係があります。昆虫では、「無変態」が一番原始的な状態です。そこから翅を持つものが現われ、さらに変態という武器を手に入れました。昆虫が翅を持ったこと、そしていろいろな場所に移動できたこと、そしていろいろな環境に適応していったこと、このようなことから、昆虫の多様性が生みだされたのです。



環境への適応、これがまた凄い。他の生物との共生です。植物との共生関係はご存じの通り、食べ物(蜜・花粉など)を頂いて植物の繁栄のお手伝いをすること等々。そして、共生相手との関係性において、より良いように進化していくという事になります。



植物の方もただ搾取されているままではありません。彼等もそれによって進化していきます。例えば、虫を殺す毒を生成出来るようになる。虫の方は、植物がその毒を分泌する腺を断ち切る方策を考える。共に切磋琢磨して向上して行くのですね。また、昆虫が寄り付かないように殺し屋(蜂など)を飼っている植物もいるそうです。



「植物を食す」のではなく、肉食の昆虫同士での切磋琢磨では、食料である昆虫の死体が日持ちするように、麻酔薬で生かさず殺さずの状態にしておくとか。また、親が用意したそれを頂く幼虫もその昆虫が死なないような場所から食していくのです。残酷なようですが、これが生の営みなんですね。



あるいは毒ガス攻撃、秘薬で引きつけて捕獲するとか。また、ゾンビ状態にして巣穴まで誘導するとか、「わたしは毒を持っているわよ~」とばかり、肢体を極彩色にしてあらかじめ警告を発し、襲われないようにするものもおりますよ。



擬態もあります。強い腕力のある虫に擬態する、食べると毒のある虫に擬態するなどです。ここで、おもしろい指摘がありました。擬態する昆虫の個体数は、擬態される昆虫の個体数に比べるとほんのわずかだということです。もし、真似している方が多いとすると、「なんのこっちゃ」ということになります。つまり、強い奴だと思ったら、弱かったとか、毒があるかと思ったら美味しかったとか。こういう「なんのこっちゃ体験」をする昆虫が増えると、擬態する意味がなくなるということですね。





この世界のすべての生き物の目的は、自分の遺伝子をより多く残すということです。「利己的な遺伝子」ですね。とりわけ昆虫の一生は、生まれて生殖作業をして、「死ぬ」です。そのためにも、いろいろな技術を昆虫たちは手に入れました。メスがオスを引き付けるフェロモンの感知能力、オスがメスを呼ぶための「声(振動)」など。また、贈り物作戦もあります。と言っても食料ですが。メスのためあるいは生まれてくる幼虫が餌を探さなくてもよいようにと…です。著者によりますと、究極の「贈り物」は自分自身。言わずと知れたカマキリです。



自分の遺伝子を最優先にするための作戦もあるようです。交尾後に粘液を出して、メスの生殖器を閉鎖するもの、ずっと交尾したままの状態を保つもの。つまり他のオスに交尾のチャンスを与えないのだね。しかし何事にも対抗策はありますよね。生殖器を封印されたメスが自らそれを取り除く手段を考案するとか、先を越されたオスが、先のオスの精子を取り除いてから事を運ぶとかです。何事もままならぬ人生ですよね。





このように、昆虫のお話の「種は尽きまじ」ですが、最後にとても唸ってしまったことありました。それは「人が作り出した昆虫」です。昆虫は環境に応じて種に変化が現われると書きましたが、その伝で人類がこの世界で繁栄をし出してから、人類に合わせて進化した昆虫たちの存在です。例えば、ヒトにしか共生しないヒトジラミ。イノシシが家畜化したブタにつくブタジラミ。人がブタを作りだしたのだから、これも人が作った昆虫となるでしょう。また、カイコは世界で唯一の家畜化昆虫で、彼らは自らの力で自然の中で生きることはできません。ミツバチなども人の手により品種改良が進んでいます(今では、サイボーグ昆虫も人は作り出しています。)。













以前、『動物が幸せを感じるとき』という本を読んだ時、豚とか牛、鶏と人の関係を著者は「共生」と述べていましたが、共生ではなく「搾取」だとわたしは思いました。今回の本の著者は、動物の使命がただ自分の遺伝子を残すことであるとするならば、逆説的に、家畜は人を利用して繁殖に励んでいるのかもしれないと言っています。昆虫の共生関係からの言及です。もちろん、著者は本気でそういっている訳ではありませんが。



という事は、動物が幸せかどうかとか、そんなことは抜きにして、彼らが「生まれて、子孫を残し死ぬ」という循環で生きているのであれば、その生活の充実度を度外視する時、人はその循環(彼らの望み)のお手伝いをして、食べ物を頂戴していると考えても良いのかもしれませんね。「家畜」の為に言い訳が必要ならば。








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2018年5月7日月曜日

『アンチクリストの誕生』  レオ・ペルッツ著



この著者をわたしは残念ながら知りませんでした。本の帯のキャッチコピーに、「ボルヘス、カルヴィーノをはじめ多くの作家たちを魅了した稀代のストーリーテラー、いよいよ文庫に初登場!」とあったから、興味を持ちました。



読み終えると、「わたしって小さい時からこんな本ばっかり(古典や純文学と言われるものではなく中間小説、エンターテインメントと言われているもの)読んでいるなあ。」と思いました。しかし、それがわたしの誇りでもあります。



解説の皆川博子さんが「花も実もある絵空事の作家」と書いているように、表題を含む8編の短編(あるいは中編)は、素晴らしいストーリー構成の「ホラ話」です(あるいはゴッシク・ホラー)。ある作品はマーク・トゥエインのようなバカバカしい「オチ」の付くホラ話、ある作品は、ドイツ・ゴシック小説と言った感じです。



「花も実もある絵空事の作家」と言うのは、柴田錬三郎の言だと解説を書いている皆川さんは言っています。わたしもシバレンの作品は多数読んでいます。その他「訳者あとがき」などにも紹介されている山田風太郎、夢野久作、久生十蘭、カルヴィーノ、ボルヘス、シャーロック・ホームズやグスタフ・マイリンク等々、悉くわたしの幼い頃から読み親しんだ作家でした。



さて、わたしはこの著者について全く知らないので少々紹介しますと(これを読んで下さる人はご存知か――、と茶々を入れる)、1882年、プラハ生まれウィーンで活躍したユダヤ系作家とありました。ユダヤ系作家と特筆されているのは、ユダヤ人迫害にあったということを意味しているのでしょう。



1915年に第1次世界大戦に従軍。翌年に重傷を負って、ウィーンで暗号解読に携わる。その後ナチスの台頭によりウィーンを追われ、パレスチナのテル・アヴィヴに移ります。しかし、彼はドイツ語で著作しているので、彼の作品がドイツでの出版を許可されなくなると、徐々に忘れられた存在となります。1970年代から再び世界で脚光を浴びるようになって来ました。シュールレアリスムや前衛的なものの流行、あるいは純文学と「そうでないもの」の評価の垣根が少し低くなって来たという時代背景でしょうか。








この本は中短編集です。各タイトルは、「主よ、われを憐れみたまえ」、「一九一六年十月十二日火曜日」、「アンチクリストの誕生」、「月は笑う」、「霰弾亭」、「ボタンを押すだけ」、「夜のない日」そして「ある兵士との会話」です。それぞれが違う時代、違う背景で書かれています。なのでわたしは、「東ヨーロッパとロシアの歴史を少々勉強した方がよさそうだぞ。」と、思いました。



西ヨーロッパの歴史はそれなりに見聞きする機会があり、多少なりともわかりますが、オーストリア、ルーマニアそしてロシアとなると……。(ところが、その辺の国の小説を読むと何故か変な臭いがしてくるのです。学生の時、実存主義の小説を読むと嫌な臭いがしてくるので、それでこれは実存主義の小説とわかると言った人がいました。気のせいでしょうかねえ。)



短編の作品は概ね大法螺のオチ付きの「なるほどね。」と思う作品です。その中で「月は笑う」は少々怪奇小説的な推理小説的な趣があります。中編小説の「アンチクリストの誕生」と「霰弾亭」は、素晴らしいストーリーテリングで、引き込まれます。



「アンチクリストの誕生」は、最初は純愛の夫婦の物語のように、おとぎ話のような優しい雰囲気で始まります。が、徐々にその夫婦の過去が暴かれて、おどろおどろしいお話に。さて、「アンチクリスト」とは何だったのでしょう。誰が誕生したのでしょうか。お楽しみにお読みください。



「霰弾亭」は、一番気に入りました。こちらの方は「大法螺話だあ」という感じで始まります。主人公のフワステク曹長が自殺します。しかし、話はその弾がどうなったかの方向へ。つまり、曹長が自らを撃った弾丸は、曹長を殺した後、その体を突き破り、曹長の部屋を横切り、皇帝の肖像画を粉砕し、隣の兵舎で寝ていた新米兵の膝をぶち抜き、背嚢にめり込み中に詰まっていたものを台無しにし、たまたま開いていた窓から飛び出し、云々かんぬんと続いていきます。



「だがこれらすべてはこの物語に何も関係がない。」と、おもむろに主人公の「人となり」にバック。曹長は毎日酒場でバカ騒ぎを繰り返していますが、その過去に何かがあり、彼自身過去に囚われている。この話は、この事件当時18歳であった新米兵が、12年後に思い出として語っています。



曹長の部屋で彼は一枚の写真を見つけます。曹長と若い美しい女性とのツーショット写真。その御夫人は、彼も幼い時知っていた女性。彼が、「親密な関係だったのでしょうか。」と嫉妬心も込めて曹長に尋ねました。



「覚えておけ」と曹長は言います。「人は人と親しくならない。覚えておけ、いいか。最上の友でさえ隣に立つにすぎない。同じ景色の前でだ。それを友情と呼ぼうが愛とか結婚と呼ぼうが、同じ額縁にむりやり押し込むことでしかない。」



ある時二人が道を歩いていると、写真の女性にばったり出会します。その隣には立派な夫である中尉が。曹長は亡霊にでも会ったように真っ青になります。その後、曹長が兵士に語ったことは、「いいかお前、だしぬけに己の過去に出くわすほど恐ろしい災難はない。サハラ砂漠で迷おうとも己の過去に迷ったよりはたやすく脱出できる。―――――――、ひとつだけ言わせてくれ。過ぎたことは振り返らんよう、くれぐれも気をつけろ。振り返っちゃおしまいだ。――――。」



そして、その日の夜、曹長は自殺しました。





訳者あとがきでは、曹長は過去に迷って自殺したと書かれています。わたしが思うには、曹長は、人間に絶望していたのではないかと。「過去からの亡霊」に会って、その日の夜、いつもの「霰弾亭」で、彼は彼の周りを見回した。そこにたむろしていた人々は、「クズどもや悪党やいかさま師や取り持ち屋」。彼を理解しない人々、理解しようとも思わない人々。



三島由紀夫の『命売ります』の最後で、主人公の羽二男が「人生のドタバタ劇」の後に見たものと同じ。羽二男は泣きたくなって星を見上げたが、曹長は……。










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2018年5月3日木曜日

AI社会を是とするか非とするか、それが問題。



全ての人間の身体にGPS機能付きのチップが埋め込まれている社会を想定して、その状態で人類はどうなるのかの考察しています。



著者は、「案外」幸福な社会かもしれないと示唆します。全ての人の行動が記録されるので犯罪がなくなるだろうと。また、警察官とか政治家、その他の権力者の身体にもチップが埋め込まれていて、それがコンピュータ管理されているので、彼らの横暴な権力行使も抑制できるとのこと。究極の監視社会です。監視社会で自由がなくなると言われるが、なくなるのは、「罪を犯す自由」だけではないのかとの著者の意見です。



この本を読んで、津田大介さんが言っていたことを思い出しました。津田さんはIT関係に肯定的な意見の持主です。時代の最先端のテクノロジーの解説などもしています。それで、スマホの話。今、wearable 携帯の時代が来ています。腕にはめるとか、メガネに付帯しているとか、そんなような事の解説をしつつ、津田さんは、「その内、みんな頭にチップを埋め込むことになるでしょうね。」と発言されました。



その時は、わたしは「オイオイ、それでいいんか。」と思ったんです。と言うのは、ハッカーがいるじゃないですか。コンピュータ制御の車でさえ、ハッカーによれば、乗っ取られてしまう世の中ですよ。ハッカーに頭の中まで乗っ取られてしまうじゃないですかと。



でも、そこで「そうか!」と思いました。全ての人が…、一人残らず制御されてしまえば解決です。犯罪の余地はなくなります。コンピュータが神となって、全てをコントロールしてくれたら、人類は平和に暮らせるでしょう。まるで、竹宮恵子の『地球(テラ)へ』ですね。その他のSF小説でもこんなシチュエーションは、よくあることです。まあ、90%の人類の日常生活にとっては、こんな監視なんてなんの影響もないでしょう。日々、平和に楽しく平穏無事に、なんの感慨もなく暮らしていけると思いますよ。



それ以上に、全ての人の頭の中にチップが埋め込まれれば、考えるだけで人と話ができるかもしれません。テレパシーです。そしてそこでは、言語の問題もなくなるでしょう。全ての人が一瞬で意思の疎通ができる世界―――わたしが理想とする「ハチやアリ」の世界の出現です。全人類が一つの集団ということ。女王蜂がコンピュータと言う訳です。一人一人は、何も考えることなく、頭の中に浮かんでくる指令を受けて毎日をすごせます。楽なシチュエーションですよ。











近代に西洋で編み出された「自我」とか「自由意志」の概念は打ち砕かれるでしょう。西洋啓蒙主義の敗北です。人類の発展の歴史にとって、そういう概念は必要だったかも知れない…、が、さらに人類が発展する為にはじゃまな概念になってしまうのかも。そこで、もしこの進化があるべきしてあるのなら、思うのは、「ヒトってなんなのだろうか」と言うことです。



「人類よ、進化せよ」という生命の命令に従って繁栄してきましたが、振り返れば、人の「魂とか自我」なんて、そのために「脳が創りだした幻」かもしれません。


さて、そんな世界はユートピアなんでしょうかディストピアなんでしょうか。












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