2018年9月24日月曜日

『絶滅寸前季語辞典』



俳句に興味はありますが、70歳くらいから始めても良いかなあと思っています。と言うのは、現在、囲碁に夢中だからです。何事も極めるには少なくとも10年はかかると考えていますので、まあ、このご時世80歳くらいまでは生かしてもらえるのではと思いつつ。



また、70歳くらいまでには、囲碁の方も何らかの形が出来ているんじゃないでしょうかと。そして、80歳の脳みそでは、囲碁を上達させるより俳句を上達させる方がより難しくないのではとの個人的な意見です。



しかしながら、俳句の方にも触手が伸びる今日この頃。ついつい、『絶滅寸前季語事典』という本を買ってしまいました。今、テレビにも登場して大人気の夏井いつきさんの著書です。テレビで拝見していると、「ほんとに見事に下手くそな俳句を蘇えらせるなあ。」と感服いたします。



この本の紹介で「俳句を詠んでいない人も楽しく読める。」とのコメントがあり、まさにその通り、面白く読めました。先ずは「絶滅寸前」の季語を示し、その意味の解説、そしてその季語を使った俳句の紹介と進みます。または、夏井先生自らその季語に挑戦し俳句を詠んでいらっしゃいます。絶滅寸前季語の意味の解説も、たまに少々脱線し、小噺のような趣もあります。








さて、なぜ「絶滅寸前季語」なのか。「まえがき」によりますと、「最近、俳句の世界では、歳時記を見直そう、新しい季語を探そう、季節感のズレてしまった季語を修正しよう、古くなった季語を一掃しようといった議論がかまびすしい。」とあります。夏井先生は、その議論に反対のようです。



彼女の意見は、



「聞いたことも、見たこともない季語でも、空想の産物でもなんでもかんでも、今の時代に生きる私たちが、ともかく詠んでみたらどうなるのか。ひょっとすると、古い革袋に新しい酒を注ぐような新鮮な俳句が飛び出さないとも限らない。もしも、万が一、私にそんな俳句が詠めたとすれば、少なくとも私が生きている間、その季語は私とともに生き残れるはず。」



そうしているうちに、彼女の意見に賛同する人が出てきて、今では「絶滅寸前季語保存委員会」というものできたとの事。そして、「あとがき」によりますと、この本で例句として挙げてあるものは、著作権の切れている俳人の作品、そして絶滅寸前季語保存委員会のメンバーの作品という事です。









この本を読んだ後、わたしは俳句について考えました。先ず、「わたしがなぜ俳句か」というと、俳句は5・7・5の17文字、そして季語を入れなければいけない。この縛りがあることで、ちょっと手掛かりがあって取っ付きやすのではと思ったからです。しかしまた、この縛りがある分、難しいともいえます。アンビバレンスです。



季語のことを調べなければいけない、勉強しなければいけない。この本の中でも夏井先生は、度々、「『大歳時記』を調べてみると」とか、「『大辞典』を調べてみると」と述べられています。先生でも未だにいろいろ調べて書いていらっしゃるのですから、「わたしをや」です。



そして、その季語の事を調べるという行為を考えると、俳句とは季語が先行する(面白い季語があるからその季語で俳句を創る)のか、または、自分の言いたいことに合う季語を探すのかと疑問です。たぶん両方だとは思いますが。もうひとつ、俳句は自然を詠むという事。自然を全然観賞しない私が、俳句を詠めるのか。この季語先行と自然観賞を考えると、わたしが俳句を選ぶことは正しいのか?



夏井先生の番組に渡辺えりさんが、たまに出ます。渡辺えりさんは、あのユニークな劇団を率いている通り、その俳句も特異です。5・7・5、季語を無視した自由律。彼女の作品は、才能ナシだったり、才能アリだったりの両極端。夏井先生が評して曰く、自由律の俳句は難しい。自分で律を奏でなければいけないし、自分で季語を作り出さなければいけない。自由律は嫌いだが、「良いものは良いと認めなければいけない。」と、渡辺さんが「才能アリ」を獲得した時の言です。この俳句でお芝居が出来たなら、わたしは金を払って見に行きますよ、と。



わたしがもし俳句を創るなら、または創れるなら、そんな俳句が良いです。でも、渡辺えりさんのような才能はありませんねえ。










最後に本書からの例句を示したいと思います。



絶滅寸前季語は「川止め」。意味は、「河川が増水した時、渡ることを禁じた事。」

私たちにも、水戸黄門のテレビ番組など時代劇でお馴染みですね。



芭蕉の句では、



さみだれの空吹おとせ大井川



夏井先生の解説。



止められる焦燥感は、江戸時代も現代も変わらないでしょうが、昔なら腹をくくって水が引くのを待つか、死ぬのを覚悟で泳ぎ切るかの選択。現代で当てはめると、飛行機が欠航してしまう感覚か。



夏井先生の一句。



川止めの宿に私と九官鳥



興味のある方は、是非一読を。









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2018年9月17日月曜日

メゲル。

ブログを書き始めて、まあ、たぶん、2005年、上海から帰って来たときからだから・・・、十数年?


始めたサイトのブログが閉鎖されたので、ここに移って来ました。それから何年でしょうか。

十数年、書き続けて、少々、文章力も付いたかと、自負。

しかし、最近UP出来ていません。理由は、囲碁。なによりも囲碁を優先しているからです。

で、

考えました。

日々、1センチでも前進すれば、人生、「良く生きた」という事にならないかなあと。1ミリでもいいです。

そして、このUPが、その1ミリです。









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2018年9月2日日曜日

『オリオン座はすでに消えている?』


題名に惹かれて購入しました。

オリオン座の一等星「ベテルギウス」が超新星爆発しているかもしれないというキャッチ。ベテルギウスは640光年離れているので、もし、この過去640年の間に爆発していたとしても気がつかない訳で、その640年目が今年か来年か、はたまた2~3年後かも知れません。



なのでェ……、「えッ、ほんと?もう爆発しちゃって今年にでもそれが見られるの。」と、この題名を見て早とちりしてしまいました。読んでみると、実際にはわかりませんが、過去の他の超新星爆発をした星の例から考えると、わたしたちが生きている間に「見られるかもしれない」ということです。もし、ベテルギウスが爆発を起こすと、3~4ヶ月は満月の100倍の明るさで輝き、昼間でも見えます。そして4年後には見えなくなります。



さて、本の内容はと言いますと、とてもシンプルで読みやすいです。わたしは宇宙の話も大好きで、他の本も少々読んでいますが、それらの本から得たわたしの雑多な知識をスッキリ整理してもらったような――感じです。



「わたしたちの」宇宙がいつ、どのようにできたかというお話がとても簡潔にわかりやすく書かれています。興味はあるが、どうも「わかりづらい」とお思いの方にはピッタリの本です。











近年、「理論上はこうだ」ということが、いろいろな観察機器の発達によりちゃんと証明されるようになってきました。「ヒッグス粒子」しかりです。「まだわからない暗黒時代の謎」というのも興味津津です。



ビッグバンが起きて、水素とヘリウムと少々のリチウムが生まれました。それが38万年後に原子として安定したのです。それらの原子から星が生まれることになるのですが、星が生まれなければ光が生まれないので、第1番目の星が生まれるまでの10億年の間は、我々人類は光をとらえられないということになります。つまり、光をとらえてわかる宇宙の誕生物語は、その期間だけは知る手段がないという事です。それがダークエイジ、暗黒時代と言う訳です。



南米のチリでALMAという電波望遠鏡が日本、アメリカ、ヨーロッパ共同で建設されました。宇宙に最初の天体ができた時の光や電波をとらえることができるかもと。これで暗黒時代の謎を解く「手がかり」が得られると期待されています。また、次世代の望遠鏡も研究されており、暗黒時代に何が起ったのかを知る事ができるようになりそうです。



1999年、ハワイ島のマウナケア山頂に日本の望遠鏡「すばる」が設置されました。この日本の技術が結晶された望遠鏡は、「宇宙の謎を解く」と、世界的にも期待されています。



2011年の8月、ハワイ島に行った時、見てきましたよ~~~。標高4200メートルのマウナケア山頂に行くには、いろいろな条件、試練が(ちょっと大袈裟)あるのです。そこを乗り越えて(ツアーですが)「すばる」と雄大な夕日と天体ショーを満喫しました。このような本を読むと、「オオッ、マウナケアに行ってよかった!」という気になりますね。



日本は世界でもアマチュア天文学者が多いそうです。平安時代にも1054年の超新星爆発を見た人がいます。鎌倉時代初期の歌人である藤原定家が残した『明月記』に平安時代の出来事の伝聞として、超新星爆発(客星)のことが記述されています。中国の『宋史』にも客星(一度だけ現れる星)として記述があり、1054年の7月4日から1056年の4月5日まで見ることができたと記されています。



過去から(そして未来の人もと想像しますが)、人類は星を見ながらいろいろ哲学するのだなあと感嘆します。








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