俳句に興味はありますが、70歳くらいから始めても良いかなあと思っています。と言うのは、現在、囲碁に夢中だからです。何事も極めるには少なくとも10年はかかると考えていますので、まあ、このご時世80歳くらいまでは生かしてもらえるのではと思いつつ。
また、70歳くらいまでには、囲碁の方も何らかの形が出来ているんじゃないでしょうかと。そして、80歳の脳みそでは、囲碁を上達させるより俳句を上達させる方がより難しくないのではとの個人的な意見です。
しかしながら、俳句の方にも触手が伸びる今日この頃。ついつい、『絶滅寸前季語事典』という本を買ってしまいました。今、テレビにも登場して大人気の夏井いつきさんの著書です。テレビで拝見していると、「ほんとに見事に下手くそな俳句を蘇えらせるなあ。」と感服いたします。
この本の紹介で「俳句を詠んでいない人も楽しく読める。」とのコメントがあり、まさにその通り、面白く読めました。先ずは「絶滅寸前」の季語を示し、その意味の解説、そしてその季語を使った俳句の紹介と進みます。または、夏井先生自らその季語に挑戦し俳句を詠んでいらっしゃいます。絶滅寸前季語の意味の解説も、たまに少々脱線し、小噺のような趣もあります。
さて、なぜ「絶滅寸前季語」なのか。「まえがき」によりますと、「最近、俳句の世界では、歳時記を見直そう、新しい季語を探そう、季節感のズレてしまった季語を修正しよう、古くなった季語を一掃しようといった議論がかまびすしい。」とあります。夏井先生は、その議論に反対のようです。
彼女の意見は、
「聞いたことも、見たこともない季語でも、空想の産物でもなんでもかんでも、今の時代に生きる私たちが、ともかく詠んでみたらどうなるのか。ひょっとすると、古い革袋に新しい酒を注ぐような新鮮な俳句が飛び出さないとも限らない。もしも、万が一、私にそんな俳句が詠めたとすれば、少なくとも私が生きている間、その季語は私とともに生き残れるはず。」
そうしているうちに、彼女の意見に賛同する人が出てきて、今では「絶滅寸前季語保存委員会」というものできたとの事。そして、「あとがき」によりますと、この本で例句として挙げてあるものは、著作権の切れている俳人の作品、そして絶滅寸前季語保存委員会のメンバーの作品という事です。
この本を読んだ後、わたしは俳句について考えました。先ず、「わたしがなぜ俳句か」というと、俳句は5・7・5の17文字、そして季語を入れなければいけない。この縛りがあることで、ちょっと手掛かりがあって取っ付きやすのではと思ったからです。しかしまた、この縛りがある分、難しいともいえます。アンビバレンスです。
季語のことを調べなければいけない、勉強しなければいけない。この本の中でも夏井先生は、度々、「『大歳時記』を調べてみると」とか、「『大辞典』を調べてみると」と述べられています。先生でも未だにいろいろ調べて書いていらっしゃるのですから、「わたしをや」です。
そして、その季語の事を調べるという行為を考えると、俳句とは季語が先行する(面白い季語があるからその季語で俳句を創る)のか、または、自分の言いたいことに合う季語を探すのかと疑問です。たぶん両方だとは思いますが。もうひとつ、俳句は自然を詠むという事。自然を全然観賞しない私が、俳句を詠めるのか。この季語先行と自然観賞を考えると、わたしが俳句を選ぶことは正しいのか?
夏井先生の番組に渡辺えりさんが、たまに出ます。渡辺えりさんは、あのユニークな劇団を率いている通り、その俳句も特異です。5・7・5、季語を無視した自由律。彼女の作品は、才能ナシだったり、才能アリだったりの両極端。夏井先生が評して曰く、自由律の俳句は難しい。自分で律を奏でなければいけないし、自分で季語を作り出さなければいけない。自由律は嫌いだが、「良いものは良いと認めなければいけない。」と、渡辺さんが「才能アリ」を獲得した時の言です。この俳句でお芝居が出来たなら、わたしは金を払って見に行きますよ、と。
わたしがもし俳句を創るなら、または創れるなら、そんな俳句が良いです。でも、渡辺えりさんのような才能はありませんねえ。
最後に本書からの例句を示したいと思います。
絶滅寸前季語は「川止め」。意味は、「河川が増水した時、渡ることを禁じた事。」
私たちにも、水戸黄門のテレビ番組など時代劇でお馴染みですね。
芭蕉の句では、
さみだれの空吹おとせ大井川
夏井先生の解説。
止められる焦燥感は、江戸時代も現代も変わらないでしょうが、昔なら腹をくくって水が引くのを待つか、死ぬのを覚悟で泳ぎ切るかの選択。現代で当てはめると、飛行機が欠航してしまう感覚か。
夏井先生の一句。
川止めの宿に私と九官鳥
興味のある方は、是非一読を。
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