『飼育』 大江健三郎著
先日、新聞を読んでいたら、いとうせいこうが、『大江を読む』というコラムを書いていました。「大江って何?」と思ったら、大江健三郎の事でした。彼も「大江」と言われるようになったのかと……、複雑な心境。過去の人になってしまったのか、あるいは、「大江」と言われるほどの権威者になってしまったのか。
そういう訳で、そのコラムはでは違う作品が取り上げられていましたが、わたしは『飼育』を読み直しました。
大江健三郎氏初期短編集の3作目の短編です。昭和33年に書かれた作品で、大江健三郎氏は、これで芥川賞を受賞しました。
簡単に粗筋を書きますと、第2次世界大戦の頃、田舎に住む少年の村に、米軍機が落ちてきます。3人の乗組員のうち黒人兵ひとりのみがパラショートで脱出し、生き延びます。村人たちは山狩りをし、黒人兵を確保します。村の代表が町役場まで出かけそのことを報告しますが、町の役人たちは責任逃れで、結論はでません。少年の父親は猟師ですが同時に村の実力者です。彼が、その黒人兵を町役場の結論が出るまで「飼う」ことになります。
少年の家の地下倉で彼は飼われることになりました。少年が食事を運んだりと、彼の世話を引き受けることに。町役場の方は、町の役場と駐在だけでは、捕虜をどのようにしたらよいか判断できないので、県庁の結論を待つと。県庁が結論を出すまで、村で黒人兵を預かっておくようにということ。
こうして、少年とあるいは村人と黒人兵の交流が始まります。交流と言っても黒人兵は家畜のようにただ養われるだけでしたが。しかし、ここで興味深いのは、捕虜が黒人であったということ。村人の白人に対する感情と黒人に対する感情は、違ったものであると言う事実です。つまり、彼らは黒人を見下していたので、かえって彼に対しての親しみが生みだされたのでしょう。
県庁の結論が出る日が来ました。黒人兵を県に引き渡すというものです。しかし、県は護送する為の兵は出せないので、村人が捕虜を県庁まで連れてくるようにと。その村人たちの動揺に黒人兵が反応し、彼は少年を人質に地下倉に閉じ籠もります。少年は、今まで親しく付き合っていた彼に捕虜にされたことに、怒り、屈辱、裏切られた苛立たしい哀しみ、恐怖に包まれます。
村人たちは、地下倉に続く揚蓋を砕く作業を進めます。追いつめられた黒人兵は、凶暴さを見せ始め、少年の首に手を掛けます。彼が少年の首を絞め始めた時、少年の父親が揚蓋を鉈で打ち破り、黒人兵の頭めがけて、鉈を振り下ろします。黒人兵は、鉈を避けるために少年の左腕を掴み自分の頭の上に。父親の鉈は振り下ろされ、黒人の頭を砕きました。少年の左腕とともに。
というところで、わたしの感想は(内容とは関係ありませんが)、「戦争」です。以前UPした、ブレヒトの『アンティゴネ』も第2次世界大戦を過ごしたブレヒトが、その思いをギリシャ悲劇『アンティゴネ』で表現していました。大江健三郎も戦争を過ごしてきました。つまり、あの頃の作家(あるいは芸術家)は、戦争というものを無視できなかったのです。戦争を抜きにして何かを表現することは出来なかった…。
芸術は「今」何を表現するのか。人間性を失いつつある「人の精神」の葛藤か。小説はリアリズムを失ってしまったと言われています。リアリズム小説でまだ感動を与えられるのは、ラテンアメリカ文学の「マジックリアリズム」のみと。しかしそれは、南アメリカにはまだ、表現するに足りるリアリズム社会が残っているからだと思います。アマゾンの源流には、自然とともに暮す人々がいる。また、そのほんの隣に文明社会が存在する。その混在一体感が、小説のリアリズムとなり得ます。
また、現代の中国文学も興味深いリアリズム小説となっていると思います。それは、中国の田舎の自然と都会の超近代化の混在かも。『愉楽』は面白かったです。西欧諸国の倦み疲れた病んだ社会の小説より、これからまだまだ、アフリカ諸国とかアジアの小説などが活躍しそうな…、と思った次第です。
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