2019年9月15日日曜日

今日の新聞





コラムで『折々のことば』と言うのがあるのですが、今日は、

あらゆることを勉強して一つの物を完成したというのが、本当の専門家だ。

です。

この言葉に対し、作家の荻野アンナさんが、

いまは、『千門家』ではなく、『一門家』になっているのですね。

と返しています。


実際、そう思います。「科学者は哲学者でなくてはならない。」とどこかで、読みました。あらゆることを考えて、一つの事を決定しなければ、それは偏向してしまう、と。






少し話は逸れますが、

最近、わたしの車がリコールされて、その修理、点検は済んだのですが、以前、何かおかしい。変なメッセージが出る。それで、もう一度クレームを付けたのですが、

「コンピュータが変なことがあると記憶していますが、何もメッセージはありません。」と。

あなた、メンテナンスとして、それで良いのか?と。自分で考えないのか?と。

AI時代、そんなことになってしまうのですね。「考えない人が増える」という事は、ちょっと危険なのでは。





2019年9月13日金曜日

『アナキズム』、流行遅れの感もしますが、私たちの日常に潜んでいますよ。








『アナキズム入門』を読んで



この本は、二年くらい前に読み終えたのですが、感想文を書く気がしなかったのです。というのは、「アナキズム」は私の中では完結しているからです。わたしは、「ナチュラル・ボーン・フェミニスト」と標榜しています。そして、高校の時に「アナキスト」となりました。



と言って、「アナキズムとは何か」という概念は全く知らなかったのですが。何となく、「わたしはアナキストだ。」と。違う本を本屋さんで探していた時に、たまたまこの本を見つけ、「何故、わたしは、わたしをアナキストだと思っているのだろうか。」というところをこの際はっきりさせようと、購入しました。



今回、書く気になったのは、著者である森元斎氏が「あとがき」で、『今、日本の政界でアナキストとして期待できるのは、山本太郎氏くらいだ。」というような意味の事を述べているので、時期を逸してはいけないと……、思いまして。



前置きが長くなりました。








さて、『アナキズム入門』は、アナキズムの始まりから、アナキストの活動を年代順に記述しております。第一章のプルードンから、第二章バクーニン、第三章クロポトキン、第四章ルクリュ、そして第五章マノフまで。



「各人は能力に応じて働き、必要に応じて受け取る。」あるいは、「各人は能力に応じて働き、要求に応じて消費する。」―――この原理に基づいて、お互いの財産や能力を使い合う関係―――これがアナキズムであり、アナルコ・コミュニズムと言う事。



つまり、人は能力の成果分を受け取るのではなく、必要な分だけ受け取る事。どれだけわたしはあなたに贈与したか、そして、あなたはそのお返しにどれだけ贈与を返したかを計量しない事。



このような事は、資本主義の経済活動では全く意味をなさない事ですが、あらゆる人間社会では、日常的に行われています。あるいは、現在の会社の中でさえ労働には、このような原則が働いています。例えば、「ちょっと、ペンを貸して。」と言われて、貸したら見返りを要求するか?あるいは、「そこの本を取ってくれ。」と言われて取ってあげたら見返りを要求するか?



人類が誕生して共同生活を営んでいる限り、根底にはこのような関係が存在し、それが、アナルコ・コミュニズムなのです。「生そのものの在り方」が、そもそもアナルコ・コミュニズムではないのか―――という主張です。



文明の発達によってこの関係性が侵されてきた、―――アナキズムの歴史は、この関係性を

取り戻す歴史だと思います。近代国家では、「国民国家」という観点が鮮明になりました。アナキズム始まりのプルードンは、「人間に対する人間の統治は、いかなる名称を装おうとも抑圧である。」と言います。







彼の主張を簡単に列挙しますと、



国家制度がなくとも、あらゆる生物は生きていける。

所有、それはと盗奪だ。

所有権は自然県ではない。生きたいように生きるという平等の権利―――これが自由だ。

人間が自由に生きる平等な社会には政府は必要ない。



このような事から、アナキズムは「無政府主義」と訳されているのでしょう。その後のアナキスト達も同じような理論を発展させていきます。



しかし、アナキズムとは、そう大層な事ではなく、私たちが日々行っていることなのです。何らかの共同体の中で、私たちは毎日助け合って生きている。それに「気付く」だけなのです。最近の日本で起きている「過疎集落」対策においても実行されていることです。また、里山資本主義と呼ばれているものも、一種のアナキズムです。



第四章のルクリュは、「本当は、みんな優しい。ちょっと資本主義のせいで意地悪な気持ちになってしまっただけなのだ。ちょっと権力のせいで嫌な奴になってしまっただけなのだ。」と言いました。





国家なき社会を考えた時、どんな制度が必要か。その答えはこのように示されています。中央集権の国家ではなく、それぞれの自治体制の自主的活動、より小さな団体による自治。



アナキズムは永久の革命を促しています。革命により何かの体制が出来上がっても、その中で疎外される人は必ず出てくる。そこで、また、革命が起きる。起こすべきだ。そして、また……、と言った具合です。より小さな団体の自治であれば、軌道修正がより速やかにできると考えると、暴力革命なしに人類は自由で平等な社会に向かって行けるのではないかと思います。





自分がアナキストとは思わず、アナキスト的考えを持っている人はたくさんいます。考えてみると、わたしが好きな小説やその他ノンフィクションの本は、すべてそんなアナキスト的思考によって書かれてものではないかと思います。私は高校時代からずっとそんな本を選択して来たのでした。