2020年5月31日日曜日

言葉と文化








「日本人の英語」――― マーク・ピーターセン著


「著者はアメリカ人なので、本書を読むと英語というより米語の使い方がよくわかります。ユーモアたっぷりの語り口で一気に読めて、読み終わった後には確実に英語で論文を書く技術が上がります。驚くべき事に、著者は日本語で本書を書き下ろしています。著者自身が日本語に詳しく、外国語でものを書く事の苦労を知っているためか、解説のポイントは非常に的を射ており、その点でも他のネイティブの著書とは一線を画しています。」

これは、アマゾンでSecondopinion さんが書いたレヴューの一部です。この本を買う前にこのレヴューを読んだのですが、なぜこの方が特に「米語」ということを強調したのかが疑問でした。

読み終わってなるほどと。ピーターセンさんは「アメリカ」という事をところどころで強調しているのです。例えば、「国際英語(アメリカ英語)」と描写している事。また、「as because since の意味で使うことは、現在の習慣にはない。むろん、教育のあるアメリカ人にとって、この ”as” は理解できない表現でもないが、古く、英国めいており、改まった感じがする。」と書いています。

この本を評価するにあたって、このピーターセンさんの「米語の強調」は、わたしにとって主要な事でなく、単なる「そう感じました。」程度のものです。この本に対するわたしの意見は Secondopinion さんと同じく「素晴らしい」です。




わたしの一番の「目から鱗」は、”a” の意味でした。日本語では「ひとつ」ということは、余程強調したい時にしか使いません。が、英語では自然に単語についています。つまり日本人は英語を話す場合、先ず単語を思い浮かべそれからこの単語には”a” が必要かどうかを考えます。しかしネイティヴは先ず”a” が在りきで次に単語がきます。ピーターセンによると「単語にaが付いているのではなく、a に単語が付いている」と言う事です。

それで、この事を英会話の先生に聞いてみました。本格的に聞いた訳ではなく、話のついでに聞いただけですけど。その先生は、「そうかもしれない。」と言いました。これからどこへ行くかと聞かれた場合、Um, I’m going to a…(考える時間)…restaurant. とか、a……movie theatre. とか、「a」と「単語」の間で考えているとの事。

と言うけれども、やはり”a” には「ひとつ」という意味もあるんですよね。この本の帯に書いてある文章です。

I introduced the coach of my tennis club to an ex-wife of my brother.

このan ex-wife は、弟が2回以上は離婚している事を示しているそうです。たくさんいる「元・妻」の中の一人という意味になってしまうという意味で。そう言えば、「of 何々」の場合はof で単語を特定化しているのでその前にくる単語にはthe を用いると聞いたことがあるような・・・。

そこで「the coach」です。このthe はこのテニスクラブにはコーチが一人しかいない事を意味しているそうです。このセンテンスが話される前に皆がどのコーチの事を話しているのか知っているという前提があれば、the で良いようですが。

初めての場合は「a」というのは、耳ダコですね。でも何回でも間違えます。マルタの学校でわたしが「ホームレスのボス」について話していた時、「a boss」と言ったら、先生に「そのホームレスの集団にはボスが何人もいるのか」と突っ込まれたのを思い出しました。う~~~ん、むつかしい~。






実は、ピーターセンさんの書かれた事に関して二つ感じた事があります。ひとつは、論文を書く時に「日本人は受身を使い過ぎである」と指摘されている事です。

ピーターセンさんは、次のように述べています。

英語の感覚でいうと、受身は場合によっては著者が自分の書いたことに対しての責任を回避しようとしている印象を与えるケースがよくある。・・・・・日本人はとかく慎重な傾向も確かにあるような感じがする。少なくとも、一般的に「・・・と思われる」や「・・・と考えられる」などの控え目な表現に対する強い抵抗感はあるまい。

考えるに、彼の言いたいことは、日本人は自分の意見を断定的にせず、文章が弱腰になると言う事かと思います。だから、It is thought that…….ではなく、I think that….と書く事を薦めています。

しかし、わたしが受けた英文添削の通信教育では、論文では「絶対」にIとかweとか theyという主語を使ってはいけないと習いました。わずか3カ月のコースですが、何回なおされたかわかりません。同じアメリカ人の先生なので、文化の違いではなさそう。単に、英語能力の差の問題かしらん・・・。

もうひとつは、forを接続詞として使うこと。Sincebecauseの代わりにforが使えると。ただし、これは文学的表現に多いと彼は書いています。

例えば、Eat, drink, and be merry, for tomorrow may not come.

小説を読んでいるとこのような表現はよく見かけます。しかし、たいていのアメリカ人の先生は、「for」は、接続詞としては使えないと言います。しかし辞書をみるとたしかに接続詞としての使い方の例は記載されています。だから、いつも疑問に思っていましたが、使ってもよさそうですね。イギリス英語では、使われています。


最後に、わたしの心に残ったピーターセンさんの「お言葉」を記しておきます。

「国際化が英語で行われている限りは、競争が自由とは言えない。」

つまり、ひとつの文化である「英語の言葉」で、「国際」(いろいろな文化)を語ることは出来ないという事です。

日本語の環境の中で長らく暮らしているために、「変な英文」が出て来るのは、それなりの理由があると考えられます。それが外国語を学んで得られるもう一つの「学び」であり、それは言葉以上の何かであるように思います。

変な英文とは日本人がよく間違えて書く英文のことです。・・・わたしの注です。)

でも、わたしの根本的な疑問は、「英語を学ぶ時、わたしはどこまで英国人にならなくてはいけないのか。日本語の考え方のまま、何故(変な)英語を話してはいけないのか。」です。この問題に答えてくれる先生には、まだお会いしておりません。




2020年5月25日月曜日

頑張る、わ・た・し





数学研究者の言葉が、新聞に載っていました。

「朝起きた時にきょうも一日数学をやるぞと思っているようでは、ものにならない。数学を考えながらいつの間にかに眠り、目覚めた時にはすでに数学の世界に入っていないといけない。」


なるほど!

この境地に達するぞ!囲碁で!



2020年5月21日木曜日

別役実さんに対するオマージュです。







『数字で書かれた物語―――第4戯曲集』





先日、別役実さんがお亡くなりになりました。訃報が新聞の一面に掲載されたのは流石です。

別役実さんは、わたしの好きな作家の一人です。青春の思い出でもあります。新聞に訃報が載ったあと、2~3の追悼コメントが出ました。それらを読みながら、「そうだ、そうだ。」と、わたしも一緒に追悼いたしました。

彼の本を5~6冊持っています。そのひとつに『数字で書かれた物語』があります。本屋さんで、ブラブラと本を眺めておりましたところ、数学の専門書コーナーで見つけました。

わたしは、内心、店員さんが間違えたんだあ~、と思いました。後に別役実さんが、「わたしが本屋さんに頼んでいろいろな場所に自著を置いてもらっているのです。」と書いておられるのを見ました。


「思わぬところに思わぬものが置いてある」という日常性を壊す意図なのでしょうか。そう言えば、彼の別の作品の『虫づくし』という本も文学書ではない棚に置いてありましたねえ。



本棚を見たところ、彼の本は6冊ありました。5冊は若い時分に買った本、1冊はつい最近買いました。『ジョバンニの父への旅/諸国を遍歴する二人の騎士の物語』です。今回は、ず~~~と昔に買った『数字で書かれた物語』を読み直してみました。










読み終えました。もちろん戯曲であるのだから、人々の会話だけで成り立っています。メインの登場人物は、たいてい45人です。そうですね、この本は、「数字で書かれた物語」と冠された話のほかに5話掲載されていますが、どの話も45人です。



その会話がどおも噛み合わないのです。そのズレからいろいろなものが噴出してくる感じですか。



第一話『青い鳥』は人形劇として書かれたものです。内容は童話の様に単純でかつ残酷です。うらぶれた町にうらぶれた夫婦が萎びたリンゴを持って現れ、そのリンゴを不幸な子供たちに「恵む」お話。恵んでやろうとした小さな姉と弟が、「わたしたちは不幸ではない。」と言います。その「不幸・不幸ではない」の会話の中で、状況が微妙にズレはじめ、悲劇へと進んで行きます。



第二話の『海とうさぎ』では、男が舞台にぶら下がっているヒモ男に引き留められ、「あなたを3年待っていた。」と告げられます。それから、この二人の会話から事態があれよあれよと展開し、そして悲劇的結末に。何か、安部公房の『砂の女』を思い出してしまいました。言葉の魔力・威力を感じてしまいました。



第三話の『死体のある風景』では、言葉により「他人に『規定』されるわたし」を感じ、その他のお話でも登場人物が一つずつの単語に引っ掛かり、こだわりを持ち、会話がすれ違い、空回りしていく……、又は、わかった振りをして辻褄を合わせているうちに、悲劇が始まっていくというような。





読み終わって、ああ、これは漫才でも有り得るなと思いました。または、赤塚不二夫のある種の漫画。漫才とか漫画は、言葉のすれ違いによる不安定な状況が笑いの内に終わりますが、別役実の場合は、それが心の奥底まで浸透し、悲劇に陥っていくのか。





「あとがき」で、別役実さんは、時限爆弾を仕掛けたと予告電話をかけてきた人間について書いています。予告の最後に「これは冗談ではない。」という。この意味は何か。「これは冗談ではない。」と言うことには説得力はない。「これは本当だ。」と言うべきである。しかし、「本当だ。」というと冗談と思われるかもしれない。



彼は言います。「その一言を付け加えることによって、それは事実であると保証するような言葉などはないのである。」



爆弾魔は、妥協して「これは冗談ではない。」と言ったのである。居直りと諦めとの中での、言葉に対する「絶望」である、と。



これが、この作品集の総括なのであります。