谷川俊太郎さんがお亡くなりになりました。わたしは、彼の本を読んだことはありませんが、お名前は当然存じ上げております。
「詩」というものをどう読んだら良いのか、わかりません。引き込まれるきっかけがないからです。きっと理屈ではなく、感じるままに味わえばいいのではと、「理屈」ではわかります。
谷川さんは、「言葉」を疑い続けていたそうです。
「僕は詩を書き始めたときから詩を疑っていたし、言葉も疑っていた。」ーーー「言葉と世界はどうしてもズレがある。そのことを人はのんきに忘れて、言葉で何かを書けたつもりになっている。」
ほんとうにそうだと思います。ヒトは、便利な言葉や文字を手に入れたけれど、その代わりになにか大事なものを無くしてしまったと。「言葉や文字」は、普通の人にはとても有効で、知識を一般化しすべての人に恩恵をもたらします。
しかし、「普通でない人」は、その言葉のために葛藤します。自分の言いたいことが、言葉では表現できないから。「真実」伝えることができないから。
西洋文化は、音符というものを発明しました。音楽が一般化され普通の人も楽曲を楽しめるようになりました。しかし、音符で表すことが出来ない「音」を無くしてしまった。その音を表すため、♯とか♭などを発明し、より複雑な表現を模索します。でもダメです。
そんなようなことで、人は「無くしたもの」を見つけるためにもがき続けているのです。
そして、谷川さんはどうしたか。ーーー次回につづく。。。
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