少々以前の作品ですが・・・、
「ピュリツァ賞、全米批評家協会賞、ダブル受賞作!新世紀アメリカの青春小説」が、この本の帯のキャッチ・コピー。作者はドミニカ系アメリカ人。第二作目にしての快挙。
読んでいると、どこまでが真実でどこからがフィクションかがわからない。ちょっと眩暈モノの作風である。内容は、1930年から1953年に暗殺されるまでドミニカ共和国を支配したトルヒーヨ・モリナと、その独裁政治に翻弄された一族の物語である。こう書いてしまうと、何かどこにもありそうなお話であるが、そこは南アメリカ文学の流れを汲むもの(「中南米マジックリアリズムのポップ・バージョン」と解説されている)、そんな素直に読み進められない。
当然日本語訳で読んだが、オリジナル本は英語とスペイン語が半々。しかもそのスペイン語がドミニカバージョンであったり、地方独特のものであったり、俗語であったりで、翻訳も一筋縄ではいかなかったようだ。また、作者は特にスペイン語に英語の注釈は与えず、相当読みにくい本であるよう。ディアス氏は「アメリカ合衆国にはたくさんのスペイン語話者がいるって事実に、もうそろそろみんな慣れ始めてもいいころでしょう?」とインタビューに答えた。実際、アメリカは英語を公用語と規定していないのだから、もっともな話だ。
お話は、主人公であるらしきオスカー・ワオから始まる。彼はもうアメリカに住みついており、独裁者の影は希薄になっている。が、彼の母、祖母のジェネレーションは、独裁者から逃れられたとは言え、まだまだその存在(すでに死んでいるとはいえ)を引きずっている。それほど、このトルヒーヨの治世は、ハチャメチャなものだったのだ。それから話は、ワオから母、祖母、祖父の時代に遡り、この独裁者と彼の一族の接点の恐怖を明確に描き出していく(もちろん、写実的にではありませんよ)。
オスカーのオタクぶりを筆頭に、それぞれの家族の個性的で波瀾に富んだ人生が、南米文学らしき幻想的でSF的でおとぎ話的残酷さの中で描かれていく。彼等のその人生すべてが、トルヒーヨの暴力的治世とリンクしているのだ。と言う事は、ドミニカ人の総ての人生がトルヒーヨに侵されている・・・いまだに、と言う事か。
オスカーのオタクぶりが、二番目の翻訳者泣かせの部分。至る所に、コミック(日本のコミックも含む)、ビデオゲーム(同様)、SF・ファンタジー本からの引用が散りばめられている。その解説だけでも膨大。トルヒーヨの行為を単に今までのような正統的小説で書きすすめていけば、到底ドミニカ共和国の独裁者であるトルヒーヨを描ききれないというのが、作者の意図である。つまり、オタク文化を武器として、まじめに書いていてはかえって浮かび上がらせることができなかったトルヒーヨの残虐性を表現し得たという事か。滑稽に描写された中に、ドミニカの悲惨な時代が浮かぶ。最後に蛇足ながら、絶対ハッピーにはならないであろうと思われたオスカーの人生で、最後に思わぬ事が起きたのには、本当に心からホッとできた。
翻訳について:
訳者都申幸治さんが「訳者あとがき」で書いている。「多くの新しい試みに満ちた本書を訳すにはたくさんの困難があった」と。英語とスペイン語の混在に苦労したとのが一番。スペイン語に堪能な久保尚美さんを共訳者とした。オタク的知識も岡和田晃さんの協力を得た。「二人の超人的な努力の結果、日本語版は世界最初の『読んでわかるオスカー・ワオ』になったと自負している。」と表明している。
オオッ、日本人のオタク根性を見た思いだ。
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