2015年9月18日金曜日

国と文化とロボット


またまたロボットのお話です。また同じトピックですが、今、この問題に囚われています。今回は、ロボットがあたりまえに日常生活に存在する社会はどんなものか、です。ソフトバンクのペッパー君は、まだまだ公道には現れないわけですから、ロボットが普通に公道を歩いている現実は、まだまだ先の事とは思いますが。

 

先ず、ロボットは人間に危害を加えてはなりません。産業用ロボットで世界有数のシェアを持つファナックは、人と協調して働くロボット(産業用で人型ではありません)を製作しています。そのロボットは、アームに衝撃を吸収するウレタン樹脂をまとっています。また、人間に合わせて秒速25センチで動くようになっています。センサーの働きで、人間がどこに触れても自動で止まるようにもなっています。しかし、彼等は人間から離れてひとり作業する場合は、もっと効率よくスピーディに働けるのです。今現在、人間と協同作業をしている産業用ロボットは、そのパワーを制御されているという訳です。

 

1950年、SF作家アシモフが、その著『われはロボット(IROBOT)』で「ロボット工学三原則」なるものを示しました。

 

第一条、      ロボットは人間に危害を加えてはならない。人間の危機を看過してはならない。

第二条、      第一条に反しない限り、人間の命令に従わなければならない。

第三条、      第一条及び第二条に反しない限り、自身を守らなければならない。

 

つまり、第一条が最優先されるという事になります。このSF作家の原則を現実でも受け入れるようになるのかどうかはわかりませんが、人間が傷つかないというのは、プライマリリーでしょう。そして、人を傷つけるということは、なにも身体的な事ばかりではありません。「心」もです。人とのコミュニケーションを目指しているペッパーは、現に、その意味の備えも持っています。人に悲しみや嫌悪などの否定的な感情をロボットが引き起こさないこと、これも安全対策のひとつです。映像と音声から人間の感情をつかみ、幸せや喜びを感じられるように人工知能に学習させているのです。

 



 

ここで問題なのは、まるっきり感情のないパーフェクトに中立であるロボットに対し、人が恣意的に教え込んでいる、と言うこと。何が善か何が悪か、あるいは美とはとか真実とは何か…、こんな哲学的で人間も答えを得られていないことをどうやったロボットに教えるのでしょうか。

 

オックスフォード大学教授、ニック・ボストロムさんも人工知能が人間の能力を超える前にいかに制御するかを真剣に考慮しなければならないと言っています。

 

「真に知的な機械が安全かつ人類に利益をもたらすことをいかに保証するか。そのためには、たとえば正義、公正、美、幸福、喜びなど、どんな価値観を与えたいのか、どんな目的を持たせるのか、そしてそれらをどのようにコンピュータに組み込むのか。人工知能があなたが考えていることを単に理解するだけでなく、実際に行ってくれるように、どうやって動機付けをするのか。まだ解のない、技術的な大きな問題です。」(朝日新聞より抜粋)

 

ここでもうひとつわたしが言いたいことは、それぞれの国の文化です。彼が挙げている要素はすべて文化による違いがあります。もちろん人類普遍の「何か」も存在するのでしょうが、ロボットが活躍する日常生活においては細々とした違いがあるはず。例えば、EUEUは、ヨーロッパ諸国を統一する試みのためいろいろなことを共通にしました。でもできなかったことがあります。ユーモアです。テレビ番組の共通化でどうしても「お笑い番組」は共通化できなかった。それは、笑いの質が違うからでした。

 

ロボットは人間に危害を加えてはならない。人間の感情も傷つけてはならない。が、傷つくことは人それぞれ。そして文化による違いも。どこかの国ではユーモアになることも、違う国ではとんでもない屈辱になることがあります。ロボットのグローバル化を目指すなら、文化の均一化も必要になります。どこの国でも通用するロボットのためです。

 

現在の世界の力関係がこれからも同じように続いて行くなら、その均一化はどの国の文化によるのかは想像できそうですが、どうでしょう。あるいは、このロボットはこの国仕様とかになるのかな。

 

 

いつもの妄想でした。






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