2017年6月30日金曜日

『日本辺境論』について



著者の言う「辺境」とは、文字通り地理的な辺境のことらしい。日本では、国が始まった時から、「日本が世界の中心である」とは考えなかった。古代に文明が起こった国は総て自国が世界の中心であると位置付けて、自国を「主張」してきた。それに引きかえ日本は、はじまりから「中華があっての日本」だった。その根拠は日本の古代の支配者は、日本の支配者であることの承認を「中華」に求めに行ったからである。



で、この「辺境」であることでの「日本」の特徴は何か。たいていの国は自分の国を中心に置く。だが日本は常に「中心」をどこか他に見据え、そことの関係性をはかる。つまり自分を絶対視する「考え」がなく、自己主張はしないのだ。日本とはどういう国かという独自の発想がない。他国と比べることで、相対的に自分を語るのだ。



わたしは常々、日本はパラダイムを与えられたら非常にうまくそれに順応し物事を成功に導く事ができると思っていた。が、パラダイム自体をなぜ発信しえないのだろうか。この本を読んで、少し納得するところはあった。「よその世界の変化に対応する変り身の速さ自体が伝統化している。」と書かれている。時代の先端が何であるか感知し、それに向かってキャッチアップしていくことに長けているという事だ。



もうひとつ、日本人は何故権威に逆らわず、迎合してうまく振舞っていけるのだろうかとも感じていた。これについても同様、「自分自身が正しい判断を下すことよりも、正しい判断を下すはずの人を探りあて、その身近にあることを優先する」と書かれている。しかし、ここには少々トリックがあって、「自分は辺境に住んでいるので、そんなことは知りませんでした」という「作為的な知らないふり」が潜んでいるらしい。つまり、表だっては、自分が従いたくない基準に反対はしないが、知らないふりをして結局は「従わない」で済ますのである。少しは自己主張をしているようでもあるが、何にしても自分の望む自らの基準を新たに発信しない事は同じである。



このように、自己主張もしないでいつも周りとの関係性ばかり意識している国が、繁栄と没落をくり返している世界の国々のなかで、どうして今まで文明を発達させ、植民地化もされず、滅ぼされもせず、二千年も生き延びてきたのか。






この頃、「日本語」が滅びるとか「日本語」が生き延びるにはとかいう記事をよく見かける。なるほどこのグローバルな世界、英語がインターナショナル言語の地位を得てきて、世界で英語が優勢な地位を得てきている。それが「日本語」の滅亡とどう係わるのかはわか。日本人が英語をしゃべったからといって、日本語は死滅しないでしょう・・・という感覚だった。この本を読んで「ある言語が滅びる」とは実際どういう意味なのかが脳味噌に沁み込んだ。



我々が現在の「日本語」というものを手に入れたのは、さまざまな奇蹟があったからだと実感する。先ずは、中国語。漢字が日本に入ってきた四世紀頃には、もちろん我々の祖先は日本語を話していた。この時に、我々は漢字とともに「中国語」を受け入れるというオプションもあった訳だ。そこのところを我々の祖先は踏みとどまって、漢字と日本語の合体をうまくやってのけた。それから黒船来航。明治維新で外国の概念が一気に押し寄せた時、そのひとつひとつの概念を日本語に移し替えてくれた(その概念に合う日本語を作り出してくれた)明治の先人の意気地に多大なる敬意を表したい。その日本語が今あるから我々は自分の言葉で、現在、政治を語れるし、社会を語れるし、文学・哲学を語れるのである。



『日本辺境論』によると、帝国主義列強の植民地支配に屈していったアフリカ・アジア諸国では、母国語で国際政治や哲学を語ることはできない。生活言語としての土着語と知的職業の公用語の二重構造になっているらしい。「その中で、日本だけが例外的に、土着語だけしか使用できない人間でも大学教授になれ、政治家になれ、官僚になれます。」と書かれている。



しかし、これは何も日本人が偉かったと言うことではなく、もともと日本語が「日本語」と「漢字」の二重構造になっていたということである。つまり西洋の概念を日本語に移した時、使われたのは「漢字」であったということ。いうなれば、西洋語を漢語に移し替えたのだ。同じ漢字を持つ中国が「清朝」末になぜ西洋語を漢字に移し替えることができなかったのか。中国は日本が移し替えた「漢字」を流用することとなるのだが、その答えは、「心理的抵抗」らしい。つまり、中華思想を持つ中国は自国語にない言葉の存在を認め得なかったのである。ここに日本の「辺境人」としての特色が生かされたのだ。「外来の知見を正系に掲げ、地場の現実を見下す」という意味で。日本人は、はなから日本を「中心」とは考えていないので。



この「土着語だけしか使用できない人間」でも日本では知的職業に就けるということが、このグローバルな世界では逆説的に不利な状況を作り上げているとも言われている。(ガラパゴス、ニッポン)。現代は「とにかく」英語である。EU内でも英語が共通語として受け入れられている現状で、今、英語圏以外のEU諸国にも同じ問題が生じてきている(イギリスが去っても英語はEUの公用語であり続ける。)。つまり、フランスやドイツなどでも、彼等は土着語だけですべての事を語っていたのであるから。グローバル化に対応する言語戦略を立てなければいけない時である。フランスでは、フランス語の国際化戦略を推し進めている(フランス語での国際テレビ放送等)。



日本語に危機感を覚えている日本の学者たちもいる。彼等も「日本語が国際的な発信力を高める事、そして日本語が日本人でなくとも読み書きしたくなる言語であり続ける事」を唱えている。つまり、日本文化の魅力を伝えること等々。



現在、英語を日本語に置き換える教育が進んで行けば、「我々が我々の言語で我々の文化を語れない日」が来るやもしれぬ。







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2017年6月25日日曜日

『奇跡の大河』の感想


『奇跡の大河』   JG・バラード著





J.G.BALLARDの原題はTHE DAY OF CREATIONを読みました。バラードはわたしの大好きな作家です。この本は、昭和63年に買ったようです。そうなんですが、つい先日読み終えました。つまりこの本も「老後の楽しみ」のために買っていた本だったと言うことです。フィリップ・K・ディックの本も同様なんですが、目についた時にとりあえず買っておいた…、という事。



彼の初期の作品は、シュールレアイスティックな作風で、主に短編小説を書いていました。そのシュールな内容は、その頃のはやりでした。SF小説に分類されるものの、「現代小説」の風格がありました。そして、少々難解。しかし、少々、お話の方はわからなくとも、その奇妙な雰囲気は、十分に魅力的でした。



その後、彼は、長編小説を書きます。彼のテクノロジー長編三部作と言われる『クラッシュ』『コンクリート・アイランド』『ハイ-ライズ』は、内容は、かなりシュールであるものの、話の筋は簡明で理解可能です。





この『奇跡の大河』は、長編であるとともに、後者の流れをくむものと思われます。内容はとても奇妙だけれど、話の流れは、「冒険・探検」ものと言った感じです。舞台はアフリカ。サハラ砂漠の南の方と思います。ポール・ラ・ヌーヴェルと言う所です。名前の感じからも推測できるように、以前フランス領だった所。今は、「いつもの如く」、盟主国が去った後の政府とゲリラの内戦状態。主人公のマロリーは、WHOから派遣された医師ですが、なんやら胡散臭そうな人物。



彼は、干上がったコト湖を灌漑しようと努めています。そのため、フランス軍が置き去りにしていったトレーラーでコト湖を探索していた所、切り株に衝突し、トレーラーが地面に陥没します。そして、あ~~~ら、不思議、そこから、水が噴き出してきたのです。それは、あれよあれよという間に、大河になって、サハラ砂漠に流れ込んで行きます。第三のナイルの登場です。



主要な登場人物は、政府軍の将軍、ゲリラの親玉、獣医であるローデシア人の取り残された未亡人、ゲリラでマロリーを射殺しようとした13歳の少女、そして日本のテレビ局にドキュメンタリーを売り込もうとしているサンガー教授(オーストラリアの血を引くたぶんイギリス人)、その科学顧問インド人のミスター・パル、日本人の女性カメラマン、ミス・マツオカです。これらの人物が、雑然と絡み合って物語が進んで行きます。



マロリーは、政府軍の将軍から強制退去を命じられていましたが、船を盗み、自らが作り出した(?)川に逃げ出します。彼の目的は、この大河を抹消すること。川の源まで辿り枯渇させようとの思惑です。「なぜか」とは、聞かないでください。彼のあやふやな妄想から来たものなのかな~~~。そして、彼を殺そうとしている、13歳のゲリラの少女と付かず離れずの生活。お互いに惹かれあっているのか、目的が同じなのか???





粗筋を書いたところで訳がわからないと思いますが、思うに、以前読んだ『コンクリート・アイランド』の登場人物のように、人が文明から逃避するうちに薄汚れて行き、人の尊厳も無くなっていく……、そしてそこがその人の棲みかとなってしまう、ということでは。現実と妄想の世界も混濁し、どちらがどちらかわからなくなっていく……。もうひとつ、「残忍な少女」というのも著者のキーワードではないかと思います。少女と大人の間の微妙な生物。そして、若さ故の残虐性。






解説で浅倉久志氏は、次のように述べています。



「さて、この新作は、60年代の名作、『沈んだ世界』や『結晶世界』のころに回帰したような作品である。サハラ砂漠のまんなかに突如として出現した第三のナイルという魅力的な設定に加えて、砂丘や、熱帯の密林や、陸揚げされた船や、軍事基地の廃墟など、あの懐かしいバラード風景がぞろぞろ現われるのもうれしい。現実なのか、それとも高熱にうかされた主人公の幻想か、区別のさだかでない事件が連続するが、語り口は克明な写実描写で一貫している。これぞ魔術的リアリズムのラテン・イギリス文学という感じ。」



実際、わたしもこれを読んで、リョサの『緑の家』を思い起こしました。しかし、魔術的リアリズムといえど、ラテン・アメリカの得も言われぬ「どろどろ性」とは違った洗練された「イギリスの魔術」のような「さらっとした」趣ではありました。








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2017年6月16日金曜日

『ヒトの変異』について


『ヒトの変異』  アルマン・マリー・ルロ


著者は、ニュージーランド生まれ。国籍はオランダ。ニュージーランド、南アフリカ、カナダで少年期を過ごし、カナダの大学卒業後、カリフォルニア大学で博士号を取得。この本は何の分野に入るのでしょうか。ロンドンのカレッジの進化発生生物学部門リーダーを務めると紹介されています。



彼がこの本で一番言いたいことは「総ての人がミュータントである」ということだと思う。「第一章ミュータント―――はじめに」で、「わたしたちはみなミュータントなのだ。ただその程度が、人によって違うだけなのだ」と記載している。







人は自分が正常だと思って生きているが、多かれ少なかれ異常なところを持っていると思う。わたしが一番気に入っている話は、わたしの創作だが、『友達のさかなのペット』である。友達は珍しい魚をペットとして飼っているが、一匹だけとても凶暴な奴がいて他の魚を傷つけていると嘆く。わたしは、その魚が悪いのではなく、脳が傷ついているのかもしれないと言う。



近年、科学の進歩は目覚ましく、今までわかっていなかった事が徐々に証明されてきている。共感覚の人がいることや発達障害の子供の事、性同一障害など。これまでは、単なるその人の個性と思われてきた事が、実は彼等にはなんの責任もない遺伝的障害だったのである。人間社会がこれ程発達しなかったら、彼等も少々変わった人として認知され、彼等の真実は発見されず、「友達のさかなのペット」のように訳もなく批難されていたかもしれない。



日常生活には支障はないが、やはりおかしいという事もある。見過ごされているケースだ。例えばこの本で紹介されている例で言うと、肋骨が余分にある人は成人十人に一人、内臓逆位で生まれる人は八千五百人に一人。また、何らかの遺伝的障害によって発達が抑制されたり、逆に大きくなりすぎたりした事例のない器官はほとんど一つもないと述べられている。「筋肉が余分にあっても気がつかないからか、仮に気がついたとしても気に病むほどのことはないからか、記録はされていない」と。



また、祖先から代々変異遺伝子を受け継いでいても、劣性遺伝であるため表面には現れず、そのまま次世代にまた伝えている可能性もある。つまり、人間の完璧なゲノムなど存在せず、生きているほとんどの人がなんらかの変異(ミュータント)を持っているという事だ。





この本では、人が母親の胎内で胚からどのような過程を経て人になるかということが、とても丁寧に詳しく記載されている。わたしが述べていることは絶対的に正しいのだと言う押し付けがましさもなく、とても控え目で真摯だ。遺伝子がどんなに繊細な働きをして、わたしたちの体を作り上げていくのかが、すばらしく「美しく」語られている。これを書くためにどれだけの文献を精査したのだろうかと、素直に驚きと尊敬の念を持ってしまうほど。



ヒト胚から人になっていくのは、その遺伝子情報に基づいている。その遺伝子の意味を変える「変異」は、人が持つ遺伝子のすべての65%にそれぞれ少なくとも一つ発見されると言う。この変異のうちのほとんどは人の形成にほとんど影響を及ぼさない物だ。残りのわずかな数の変異が人の身体に影響を及ぼす。例えば、無頭蓋骨症、結合性双生児など。しかし、これらの変異は時が経つにつれて自然選択され消滅する。(つまり、次世代にこの遺伝子を伝えるまで生きられないということ)。そして、この人の形成に悪い影響を与えない変異が人間の多様性を作り出している。



著者は、人種と言われているものでの皮膚の色の違いとか骨格の違いがどのように遺伝子的に生まれるのかに深い興味を抱いているが、この多様性による遺伝子の違いは、伝統的・民族文化人類学的な人種とは一致しないと述べている。人種間で見られる遺伝子の違いは、同じ民族間でも同様に見られるものであると。さらに、人類の間に境界線は引かれない、遺伝子学者は「人種」それ自体に疑問を持っているとしている。



このような発生生物学に関連して、文化人類学的な事象を考察している点がさらに興味深い。他の例で言うと、老化。老化とは一つの遺伝子疾患と言うより遺伝的疾患の集まりであると述べられている。老化の引き金を引く遺伝子があると仮定すると、それは中年、あるいは老年期に現れるものであるから、自然選択(早死にするほどは悪い遺伝子ではないと言う事)を免れて子孫に代々受けて継がれていく。そして現代にいたるという事。つまり、総ての人が、その老化の遺伝子的疾患を持っているという事だ。



反対に長寿の遺伝子もあるようだ。自然選択により長寿なショウジョウバエをつくるとどうなるか。寿命が延びるにつれて(一匹のショウジョウバエではなく、寿命の長い種ができるにつれて)若い頃の生殖活動が鈍化する。生殖活動を控えるようになるにつれて、エネルギーを体内に溜め込み、脂肪と糖分を備蓄する。動きが緩慢になるので新陳代謝は低下。つまり、著者が言うには、老化は若い頃に子孫を残した代償である。将来、人類は好きなだけ長生きする為に、いろいろな事をするだろうがその代償は中年並みの精力と食欲と魅力しかない二十歳の若者だろうとは、著者の言。(どこかにそんな国があるような。)



また、「美」について。著者が知りたいのは「肉体的な美」についてだ。ここで彼は、哲学者の言を紹介している。「美は生殖を促す。美しいものを目にすると、体全体がそれを複製したくなるものだ」は、現代の哲学者エレイン・スカリー。プラトンはソクラテスとディオティーマの恋愛論を引いている。「簡単に言えば、ソクラテスよ、愛の目的はおまえが考えているようなもの、つまり美そのものなどではない」とディオティーマは語る。「それでは何なのですか?」「愛の目的は子をもうけ、美を生み出す事だ」「本当ですか?」「そうとも断言しよう」。ダーウィンはこう言う。「最も洗練された美とは、メスを引きつけるものであり、それ以外の何物でもない」。これが美の定義である。



著者の考えでは、「基本的に、美は生理的な条件に関連し、実際、健康の証明書である」という。美は健康を現わしている。きれいな肌、輝く瞳、白い歯は美と共に健康を示している。しかし現代、先進国では健康が行き渡った結果(基本的に)、総ての人が平均的に美しくなったのだろか。否、美は偏在する。これはある程度、美が健康の結果であると同時に富の結果でもあるからだ。では、総てが平等である社会を考えてみる。しかし、そこにも美の偏在はある。そこに、彼は遺伝子の変異を見る。わたしたちの顔は変異に非常に影響されやすい。奥深いところに現れた遺伝子の秩序の乱れも顔に現れる。



変異は人の意志ではどうにもできない、「運に左右されるゲームのようなものだ」と著者は断わってはいるが、美しいということは、遺伝的エラーが比較的少ないことを意味するのではないだろうか?と疑問を投げかけている。この疑問を証明するには至らないが、彼は例として血族結婚に見られる美の低下とブラジル人のように混血の祖先をもつ人たちの美しさの面で劣性の変異が出てこない有利さを例に上げている。わたしとしては、心情的に、そんなにスッキリ割り切れない気はする。





最後に、興味深かった事がひとつ。それは、いま現在生きている生物、人間も過去に絶滅した生物の遺伝子を受け継いでいるということ。度々、指が五本ではなくそれ以上を持つ動物(あるいはヒト)が現れる。これは遺伝子の変異による奇形だと思われてきたが、新しく発見された化石から、四肢動物すべてには多指の祖先がいたという事がわかった。三億六千年前ごろデボン紀の沼地に住んでいた三種類の両生類だ。それらは、それぞれ八本とか六本とか七本の指がある。つまり、多指の哺乳類は過去の名残を示しているという可能性が出てきたのだ。指のない魚からデボン紀の多指の両生類を経て五本指の四肢動物に至る五億年の旅。



如何に。









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2017年6月11日日曜日

AIについて ③



AIについて詳しいことは知らないが、アルファ碁の結末については、何か怒りを感じる。「何故わたしは怒っているのか」は、まだわからない。今、分析中。



言えることは、アルファ碁もしくは「その研究をしている人々」にとっては、囲碁の勝負などに、何の関心もないという事である。そんなモノたちが、囲碁界をかき回した後、引退を宣言したのだ。もう、ヒトとは碁を打たないと。






AIは、「ディープラーニング(深層学習)」という手法を取り入れてから格段の進歩を遂げている。今回の囲碁界世界王者の中国棋士との三番勝負についても、先年の李との対戦の時のアルファ碁であったなら、柯は勝てたとの見立てもある。「アルファ碁の一年=人間の百年」との新聞の見出しである。



シンギュラリティ(人工知能が人類の能力を超える時点)は2045年に訪れると言われているが、現在ではあと3年で人間は追いつかれるとの見解もある。しかし、例えシンギュラリティが訪れても、人の生活にそんなに影響はないと思う(あるいは、根本的に影響されて人類の歴史が変わってしまうかのどちらかだ)。



人類の能力を超えた物体が現れても、それは単なる物体であり使用者は人間であるからだ。アルファ碁についても、それは人間に勝つ、が、アルファ碁はなぜ勝ったのかあるいは自分の打った手をどうして打ったのかは、説明できない。AI自体には「目的」も「動機」も存在しないのだ。単なる無機質な解答なのである。



医療の分野では、MRICTスキャンの断層写真から病巣を発見する画像診断で、AIが実用の段階に入っているというが、AIはなぜそうした診断をしたのかは説明できないという。診断が100%正しいなら、理由はわからずともその診断を受け入れることはできる。が、少なくとも命をあずける限り説明だけはしてもらいたい。



囲碁の程度なら誤謬もあまり影響はない。しかし、自動運転自動車とか生活のあちらこちらにAIが侵入してくるとなると、その影響は多大なものとなってくる。人類より知能が高いAIがそう判断したからといって、人間はそれをそのまま自身の考えもなしに受け入れることができるのか。



まして、AIは道具であり人間が操作しているとなれば、その人間の恣意性をAIの御宣託として受け入れてしまうことになる。あるいはAIは人間の手を離れた存在になるのか。人間はAIを神のように受け入れ、その命を無批判に実行するのか。



ここからがわたしの妄想であるが、人類はAIのおかげで次なる進歩のステージへと進むのであろうか。生物の生きる目的は、「繁栄」である。もうそろそろ繁栄に翳りを見せ始めた人類は、AIを頭としてAIが作り出す合理的な理想の世界で言われるままに個性や人格を捨てて、蟻や蜂のように集団としての繁栄を志向するのか。そして、人間はAIが提供するエンターテイメントを享受し、人類世界の一員となって幸せな生を甘受するのである。









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2017年6月4日日曜日

『命売ります』を読んで



『命売ります』 三島由紀夫著





三島由紀夫は彼の著作が好きと言うよりは、彼の人生に興味があります。彼がなぜ割腹自殺をしたのかということは未だ謎でありますが、それは、わたしが高校2年生の時に起きました。



同じクラスの男子生徒が2~3人、昼休みに学校から脱走し、そのままサボるところを、喫茶店でニュースを見たと教室に戻って来たのです。「三島由紀夫が死んだ。」と。クラス全員が、「ウォー」と叫びました。



この本は、新聞の下段の単なる広告で見て、すぐ買って、一気に読んでしまいました。なぜでしょう。多分この本は、彼の著作のメイン・ストリームではなく傍系路線だからでは…、と思います。わたしの「へそ曲がり精神」に火が点いたのでしょう。



広告では、



三島由紀夫、極上エンタメ小説!

隠れた怪作小説発見!

これを読まずして三島を語るべからず!



などの文字が飛び交っておりました。



興味深いのは、彼がなぜ「割腹自殺をしなければいけなかったのか」というような彼の心の闇が、メイン・ストリームの作品ではないからこそ、この作品に素直に現れているのではないかと思うからです。『仮面の告白』のように。









主人公の羽仁男は、なにやら「新聞の文字がゴキブリの如く動き出して逃げていった。」と言って、この世も終わりだと自殺します。が、目が覚めると病院のベッドの上。自殺に失敗しました。自殺に失敗したからには、こんな命どうにでもなれと「命売ります」の新聞広告を出すのです。その広告に反応して羽仁男のところ訪れる訳のわからない人々と、その人たちに命を売りながら、結局は助かってしまう羽仁男のドタバタ喜劇の連続です。



自殺に失敗した彼は、「命を売る」という広告を出し、誰かが彼の命を買い、そして彼は死ぬ。この死に方に対し、彼は「自分の責任のない死」と面白がります。命を売るというのは無責任を全うできる素晴らしい方法であると彼は思います。



それから、2回ばかり命を売って、いろいろなドタバタの末に死から免れた後、彼の意識は少々変化します。吸血鬼に命を売ったものの、その美人の吸血鬼に先立たれ、彼も彼女の後を追うべく「命を売ろうか」と思ってしまうのです。それは、初期の「純粋な死」から少々道を外れた行為なのでは。この段階では、羽仁男は「しかし、そんなことはどうでもよかった。死んでゆく人間の動機なんかどうでもよかった。」と言っています。



その後も命を売り続けますが、どう言う訳かいつも助かってしまいます。命を売ったお金も溜まり何もしなくても十分生きていけるようになった頃、「命売ります」をちょっと休憩しようかと、新聞広告で公となっていた自分の棲みかを離れるべく全財産を持って旅立ちます。



その頃、羽仁男はこんなことを思っています。



すべてを無意味からはじめて、その上で意味付けの自由に生きるという考えだった。そのためには決して決して、意味ある行動からはじめてはならなかった。まず意味ある行動からはじめて、挫折したり、絶望したりして、無意味に直面したりするという人間は、ただのセンチメンタリストだった。命の惜しい奴らだった。

戸棚をあければ、そこにすでに、堆い汚れ物と一緒に、無意味が鎮座していることが明らかなとき、人はどうして、無意味を探究したり、無意味を生活したりする必要があるだろうか。



「終わりのない小説」などはなく、この小説もついに大団円を迎えます。今まで、命を買いに来た人々には何らかの繋がりがあったのです。彼等は羽仁男を殺害しようと彼を追い詰めます。羽仁男は、訳もわからず命を脅かされる身になりました。ホテルに身を隠しますが、そこにも彼らの手が伸びてきます。



「命を売っているときは何の恐怖も感じなかったのに、今では、まるで、猫を抱いて寝ているように、温かい毛だらけの恐怖が、彼の胸にすがりつき、しっかりと爪を立てていた。」



と、書かれています。



羽仁男は、交番のおまわりさんに保護を求めますが、警官はまともに受け止めません。逃げ回っているので、彼は住所不定です。住所不定の奴が何を訳のわからないことを言っているのか…、と言うことです。



「まともな人間というのはな、みんな家庭を持ち、せい一杯女房子を養っているものだ。君の年で独り者で住所不定と来れば、社会的に信用がないのはわかりそうなものじゃないか。」



「あなたは人間はみんな住所を持ち、家庭を持ち、妻子を持ち、職業を持たなければいけないと言うんですか。」



「俺が言うんじゃない。世間が言うのさ。」



です。





新聞の文字がゴキブリのように動き出し逃げていったことから、羽仁男は自殺しました。そして、その命が助かると命を売りに出します。そこには、羽仁男が思う「死に対する意識」があります。しかし、その意識も死と戯れているうちにあやふやなものと堕してしまう。そして、最後には、巨大な「凡庸」が羽仁男の前に立ち塞がります。もはや、彼にはなす術もなく、夜空を見上げて……、



「絶望」を感じたのか?



少しだけ、三島の自殺の意味が汲み取れると思うのは、考えすぎでしょうか。










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2017年6月1日木曜日

今日の新聞

AI、アルファー碁が、現在世界最高位のプロ棋士(中国)と対戦し、全勝しました。それを経て、アルファー碁は、囲碁界からの引退を表明。

だから言ったでしょ、って感じ(以前そのことをUPしました。)。彼らは、囲碁を好きで楽しんで、勝負しているわけではないのだから。所詮何かの実験データが欲しかっただけでしょ。

AIに囲碁の哲学はないのだから。そして、その実験をしている人たちにも、囲碁に対する何の「思い入れ」もないのだから。この一連の対戦で、結局、後に残るのは、囲碁のゲームソフトのみ。


ですよ。








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