ダンテの『神曲』地獄篇を読みました。内容についてとやかく言うことはできませんが、(それから、「詩」なので、わたしに詩を味わう能力があるのかと言う疑問もあります)、興味深いです。わたしの弱点として、本筋ではなく細部にこだわりがいってしまうという事がありますので、その方向で書いてみます。
もちろん翻訳本を読んでいます。それで、興味を引いたのは、キリスト教の「地獄」でありながら、翻訳の言葉に仏教用語が使われているという事。批難している訳ではありません。ただただ、おもしろいなあと思ったので。
例えば、三途の川。アケロンとルビは振ってありますが。その他、地獄の門番の「仁王立ち」とか、です。キリスト教自体が日本特有のものではありませんから、それに相応しい言葉がないことは当然です。それでも宗教らしい雰囲気を出そうとすると、一般の日本語より仏教用語の方がより的確であるのでしょう。
もうひとつ同時に読んでいた本があります。Lafcadio Hearn の『Glimpses of Unfamiliar Japan』
です。こちらは英語で読んでいます。ハーンの興味は見るところ日本の(明治時代ですが)風景と、民間伝承(おとぎ話を含む)、仏教にあるようです。それで仏教用語とか日本特有の単語が頻繁に散見されます。彼は先ずは日本語でそれを示し、それから英語で意味を示します。時々はノートでさらに詳しく解説しています。例えば、Monju Bosatsu---the Lord of Wisdom。The Sai-no-Kawara, which is the place to
which all children after death must go など。またこんなものもあります――innen, the result of errors in a previous life。
こんな本を二冊同時に読んでいたものですから、なおさらそれぞれの宗教の言葉使いに目が行ってしまった訳です。
もうひとつ、仏教の地獄への入口は三途の川で、道は三つしかありませんが(地獄の種類が三個と言う事)、キリスト教の方は九個あるようです。キリスト教の地獄は三角錐をさかさまにしたような形をしています。つまり、じょうろの内側を下って行くと段々と罪深い過酷な層になって行くという物。上層の界の方が広い円周です。翻訳ではひとつの階層が圏谷(たに)となっております。
興味深いのは、第一の圏谷は辺獄と呼ばれキリスト教の洗礼を受けていない人が行くところなのです。実際、ダンテの先達であるウェルギリウスも神によって辺獄から呼び出されてダンテの地獄めぐりの道案内をしています。その彼はキリスト教以前の人。つまり、キリスト教がなかった訳なので、どう考えても洗礼は受けられません。それでも「キリスト教の」地獄に行っちゃうのですね。その他、ホメロスなどの偉大なギリシャ詩人やソクラテス、プラトン、アリストテレスや、カエサル、ブルータス、キケロやユークリッドもいます。第二の圏谷は愛の為に罪を犯した人が行くところですが、そこにはクレオパトラもいます。
さすが、唯一の神、絶対神!キリスト教に全然関係のない人の罪まで引き受けてしまうのですね。どこかに日本の武将もいるかもしれませんよ。他人に暴力を加えた人として。
ダンテの地獄は次のような構造になっています。
第一の圏谷:キリスト教の洗礼を受けていない者
(辺獄)
第二の圏谷:愛ゆえに現世を逐われた者
第三の圏谷:生前、大食いであった者
第四の圏谷:貪欲な吝嗇家、浪費家
第五の圏谷:地獄の下層界ディースの市
第六の圏谷:皇帝党
第七の圏谷:虚偽瞞着
第一の円:人殺し、横領
第二の円:自殺、財産を散財する者
第三の円:ソドム、高利貸し
第八の圏谷:
第一の濠:女衒
第二の濠:女たらし、阿諛追従
第三の濠:聖職売買
第四の濠:魔術、魔法
第五の濠:汚職収賄
第六の濠:偽善
第七の濠:窃盗
第八の濠:権謀術策
第九の濠:分裂分派
第十の濠:虚偽偽造
第九の圏谷:裏切り者の円
第一の円:カインの国―――肉親を裏切って殺した者
第二の円:アンテノーラ―――裏切りによりトロイアを敗北させた者の名前による
第三の円:トロメーア―――客人を裏切って殺した者
第四の円:ユダの国―――恩人を裏切って殺した者
ダンテはこんな地獄をすべてたどって行きます。そして、第二部煉獄篇へと進むのです。
ここまで読んで来て、キリスト教、西洋中心のこの文学が何故世界でも有数の文学になり得るのかと言う疑問がわきました。もちろん、キリスト教文化の国で重要な文学作品の位置を占めるのは理解できます。しかし、キリスト教に関係のない国々ではどうなのでしょう。
例えば、第五の圏谷ディースの市で円屋根の回教寺院が見えます。イスラム教の寺院を悪の城と位置付けているのです。また、第八の圏谷の第九の濠にはマホメットがいます。「俺はめった斬りにされたマホメットだ」と叫んでいるのです。もっと凄いのは、第九の圏谷の第四の円の名はユダの国です。
こんなこと書いていいの、と思って訳者あとがきを読んでみると、翻訳者平川祐弘氏も同じ考えらしく、「イスラム教の始祖を地獄の底に堕としイスラム寺院を下地獄の悪の城に見立てている『神曲』を世界文学の最高峰と呼び続けることははたして賢明なことだろうか」と言っています。
彼によると、『神曲』のアラビア語への翻訳はあるそうです。ただし、地獄篇第二十八歌は削除されていると。また、彼は以前、日本イタリア学会で「『神曲』に見られるキリスト教の厭うべき点」という発表を申し込みましだが、断わられ、その理由の説明も得られなかったと付け加えています。
もう一人川本皓嗣氏も終わりに一文を寄せています。タイトルは『「喜劇」という名の大叙事詩』。その中で、彼もダンテのゆるぎないキリスト教への信仰について述べています。ヨーロッパ中世と古典古代の融合と、逆に真っ向からの対峙という両面を、きわめて高い次元で体現しているのが『神曲』の偉大なる所以であると。
二人ともに、ダンテのこのキリスト教に対する大いなる自負について考察していますが、この事を抜きにしても『神曲』は偉大な詩であることに間違いはないとしています。わたしにとっても、ダンテの描写力は素晴らしいと言い得ます。ビジュアルのないただの言葉だけで地獄のおどろおどろしさを感ずることができました。もちろんこれには翻訳家の技もあるだろうけど。
すばらしい翻訳家の恩恵で、我々読者は階段の第一段をオミットして、二段目から上れるというものです。翻訳家のフィルターを通してより高い段階の観照が得られるなら、日本の翻訳文化に感謝と言うところですね。
にほんブログ村