『絶滅寸前季語辞典』のUPを読んで頂けてありがとうございます。その後も、俳句の自由律とは、何かと考えておりました。
先日、新聞のコラムで」、俳人「兜太」の事を詠みました。わたしは、以前にも書いた通り、俳句の世界の事は何も知りませんが、兜太さんは今年2月に亡くなった大層な俳人のようです。
社会学者の上野千鶴子さんは、「季語や五七五の定型にこだわらない句を詠んだ兜太さんを『こんな人が俳句界の主流だったとは信じられない』」と評したそうです(肯定的な意味で)。という事は、自由律の俳句を詠んでいた人でも、俳句のメインストリームになれたという事ですね。
兜太さんは新聞紙上で、「平和の俳句」の選者を務めたそうです。政治的なメッセージをそのままぶつけるような俳句も多かったそうですが、兜太さんは、「言いたいことがある句が強いんだ。」と、そうした句も選んだそうです。
そういう政治的言葉が詩の言葉になり得るのかという疑問に、兜太さんは「すべての日本語は詩語だ。」と言い切りました。しかし、そのために、「詩的で見えない言葉を詩に乗せる仕組みが五七五と言う定型なのだ。」と。
という事はどういうことなのでしょうか。
詩的でないことも五七五にまとめると詩になるという事か。そして、詩的なことは五七五に乗せなくとも詩になるという事か。まだまだ、わたしの迷走は続きます
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