『小栗虫太郎全集』
最近人生の整理をした方がよいかと、本の整理を始めた。そして小栗虫太郎の本を手に取ってみたところだ。彼の本としては『人外魔境』と『日本探偵小説全集(6)小栗虫太郎集』の二冊を持っている。あとは復刻版『新青年』の中に掲載されている作品のみ。
若い頃、大正・昭和時代の日本の探偵小説、冒険小説にはまって、谷譲次や夢野久作、久生十蘭そして小栗虫太郎等を読み漁っていた。山田風太郎の「明治かげろう車」の類のものも読んだが、彼の場合は小栗虫太郎や夢野久作などとはちょっと違うジャンルと思う。
久しぶりに彼の本を手に取ってみて、とても驚いた。大正、昭和初期の話なので当然と言えば当然だと思うが、此処かしこに差別用語が散りばめられていると言うこと。つまり、その頃は差別用語と思われるものが「差別用語」ではなく単なる日常の言葉だったのかと思われるのだ。
もちろん、小説に差別用語を使うことに反対はしない。ずいぶん前の事であるが、筒井康隆さんの作品が、その中に差別用語が入っているという理由で、出版が差し止められた。彼はその言葉を使わなければ彼の言いたい事を表現しえないと、法廷まで行って戦ったが、結局負けてしまった。そして自分の書きたいように書けない状況で、小説は書けないとして、筆を折った。(今はまた書き始めているが)。
わたしも彼の意見に賛成である。読者が著述の意図を理解すればそれが差別用語であろうとなかろうと問題はないと思う。それほど「強い感情」があるということを表現しえるのはその「差別用語」を使うことのみであるのなら致し方ない事である。
もうひとつ驚いたのは、小栗虫太郎の博識振りである。わたしの読んだ「完全犯罪」の初出は昭和八年・「新青年」である。その時すでに、彼は「共感覚概念」を知っていたのだ。
「音を聴いて色感を催すと云う、変態心理現象があってね」
「ウンそうなんだ。脳髄の中の一つの中枢に受けた刺激が、他の中枢に滲みこんで行くからだよ」
等と表わされている。そして、この概念が殺人者を露見するヒントのひとつとして利用されているのだ。
今でも、この「共感覚」は一般的な語彙ではないと思うので、昭和の始めをや、と。それともその頃の教養ある人々には常識的なことだったのであろうか。第二次世界大戦でそれまでに日本人が培ってきたモダンな思想や教養が、すべて崩壊してしまったのであろうかとすら邪推してしまう。
とにかく本の整理をしてきて、まだ読み切れていない本や読んでいてもその内容を全然理解していなかったと感じられる本がワンサカあるなと深く反省した次第である。