2019年12月31日火曜日

昔の小説や映画が居心地よくなってきた、今日この頃です。







『小栗虫太郎全集』





最近人生の整理をした方がよいかと、本の整理を始めた。そして小栗虫太郎の本を手に取ってみたところだ。彼の本としては『人外魔境』と『日本探偵小説全集(6)小栗虫太郎集』の二冊を持っている。あとは復刻版『新青年』の中に掲載されている作品のみ。



若い頃、大正・昭和時代の日本の探偵小説、冒険小説にはまって、谷譲次や夢野久作、久生十蘭そして小栗虫太郎等を読み漁っていた。山田風太郎の「明治かげろう車」の類のものも読んだが、彼の場合は小栗虫太郎や夢野久作などとはちょっと違うジャンルと思う。



久しぶりに彼の本を手に取ってみて、とても驚いた。大正、昭和初期の話なので当然と言えば当然だと思うが、此処かしこに差別用語が散りばめられていると言うこと。つまり、その頃は差別用語と思われるものが「差別用語」ではなく単なる日常の言葉だったのかと思われるのだ。



もちろん、小説に差別用語を使うことに反対はしない。ずいぶん前の事であるが、筒井康隆さんの作品が、その中に差別用語が入っているという理由で、出版が差し止められた。彼はその言葉を使わなければ彼の言いたい事を表現しえないと、法廷まで行って戦ったが、結局負けてしまった。そして自分の書きたいように書けない状況で、小説は書けないとして、筆を折った。(今はまた書き始めているが)。



わたしも彼の意見に賛成である。読者が著述の意図を理解すればそれが差別用語であろうとなかろうと問題はないと思う。それほど「強い感情」があるということを表現しえるのはその「差別用語」を使うことのみであるのなら致し方ない事である。









もうひとつ驚いたのは、小栗虫太郎の博識振りである。わたしの読んだ「完全犯罪」の初出は昭和八年・「新青年」である。その時すでに、彼は「共感覚概念」を知っていたのだ。



 「音を聴いて色感を催すと云う、変態心理現象があってね」



 「ウンそうなんだ。脳髄の中の一つの中枢に受けた刺激が、他の中枢に滲みこんで行くからだよ」



等と表わされている。そして、この概念が殺人者を露見するヒントのひとつとして利用されているのだ。



今でも、この「共感覚」は一般的な語彙ではないと思うので、昭和の始めをや、と。それともその頃の教養ある人々には常識的なことだったのであろうか。第二次世界大戦でそれまでに日本人が培ってきたモダンな思想や教養が、すべて崩壊してしまったのであろうかとすら邪推してしまう。





とにかく本の整理をしてきて、まだ読み切れていない本や読んでいてもその内容を全然理解していなかったと感じられる本がワンサカあるなと深く反省した次第である。



2019年12月22日日曜日

己の意見を述べるには、先ず、「敵」の意見を知らなくてはね!









文化センターでハイデッガーの『存在と時間』の講座を受けていました。半年間で十回のコース。しかし、ハイデッガーが、『存在と時間』で何を言いたいのかと考察する熱意がいまひとつ起こりませんでした。



その理由のひとつは、講師がハイデッガーの哲学に心酔していない事でした。名古屋大学の哲学の教授ですが、彼はハイデッガーに影響を与えたフッサールの方により重きを置いている様子で、『存在と時間』が未完であることもあるのか(目次だけはあるので、ハイデッガーが何を書きたかったかは構築されていたのでしょうが、出版されたのは第一部だけのようです)、この書で書かれていることは哲学ではなく社会学だというスタンスでした。社会学として読めば非常に興味深く、人間存在の考察の新しい切り口が見えると言っていました。








もうひとつは、自分自身、なんかしっくりこないなと感じたからです。自分の人生を考える上で、何らかの得るところを示してはいないと感じもしました。それは何故かと考えると、ざっくり言えばこれは西洋哲学だからでしょうか。



日本人として育った私の思考経路に沿ってはいないという思いです。西洋哲学の流れとして、キリスト教の思想からの脱却は重要で難しかった事でありますが、そんな絶対的神に頭を押さえつけられていない日本人としての私には、自分の存在を主張する為にどうしても「そこから逃れなければならない」神という物が存在しません。



また、神の似姿として作られた人間は自然界の中で一番でなければならないという思想、そしてその理想の神に近づくあるいは認められる為にどのように振舞わなければいけないかという原則がないわたしには、理想の姿、生き方をどのようにでも始められる。つまり、「神からの脱却プロジェクト」をパスする事ができるという事です。









そこで、先ずは「西洋思想」のお勉強です。



斎藤孝著『さっくり!西洋思想』によりますと、西洋哲学の始まりは知性と理性を推し進め「真理」を追求する事にあります。その後はキリスト教に奉仕するものとなり、キリスト教の原理と合わない思想は排除されるという憂き目を見る事になっていきました。



そして、物事を知覚する科学の発達を阻害する事になります(中世ヨーロッパ)。その後のルネッサンスで、「思想」は神の手から徐々に逃れ出る事となりますが、長年にわたって培われた原則は、西洋社会に今尚存在すと思われます。



つまり、「相手の言う事が正しくない」という事ができる白熱した議論の場を提供している事。新しい原理(革新)とその否定による進歩の道筋です。



一方、東洋思想には経験的に知りたいという欲求があります。手間と時間と根気は必要ですが、結果は得られます。新しいものを求めて議論することではなく、昔ながらの原理を踏襲する事で統計学的な真実を得るという事。正しいかどうかは証明できません。しかし、経験に裏打ちされている。



つまり、お互いが相克しないことが求められ、協調して真理を、経験を、次世代に送り続けることが重要となのです。



「わたしが正しいのだ。違うと言うなら論破してみせよ。」とせまる西洋思想に、「正しいのかもしれないと」東洋思想は沈黙するだけなのです。東洋、はわたしが正しいと「経験的に」知っていてもなんです。



「ざっくり」と『ざっくり!西洋思想』を読んでの感想でした。