中国・インドの台頭は素晴らしい。インドの事は全くと言っていいほど知らないので、わたしもちょっとインドの「知識」も入れといた方がいいかなと、読んでみました。少々、古い本ですが、中島岳志さんが書いているので、手に取ってみた訳です。
初期の目的と離れて―――インドの現在の状況ではなく、「ホーッ」と思ったことが三つあります。
「使い捨て商品は<捨てさせるためのデザイン>によって装飾されている。」
インド政府はインドの衛生事情が悪いという悪評を払拭すべく、衛生プロジェクトを進行中とのこと。これが紙製品・プラスティック製品・ビニール製品などの使い捨て商品の大量生産・大量消費という形で表れた。
このことからインド13億人の民が使い捨て製品を使うとどうなるかという議論に進んでいくべきではあるが、わたしが驚いたのは「そうか、使い捨て製品には使い捨てさせる為のデザインが必要だったのね。」ということ。
あまりにも綺麗なデザインでは誰も捨てたりしませんね。必然的に凡庸で画一的でチープっぽいもの。人が破棄しても罪悪感を抱かない物であるべきなのです。その指摘に、うなってしまいました。
「<浄・不浄>の概念と<清潔・不潔>の概念」
インドには外部からもたらされた「清潔・不潔」の認識以前に「浄・不浄」の観念が存在していたという事。この2種類の概念は必ずしも一致しない。例えば近代的衛生概念では「不潔」であるガンジス川の水は伝統的には「浄」である。
洗剤できれいに洗った「清潔」なコップはもしそれがカーストの低い他人が使ったものであったら「不浄」である。この二律背反にもうなってしまった。もちろん近年、都市生活者中間層では事情は段々変わりつつあるようだが、まだまだ多くの人が口をつけるコップ等は「浄・不浄」の感覚から抜けきらないところもあり、紙コップなどの大量生産・大量消費に結びついているよう。
もうひとつ、どこまで伝統を守るべきかというテーマもありますね。伝統を大切にする日本もご同様に。
「ヒンドゥー・ナショナリズムの運動」
都市の中間層はこのヒンドゥー・ナショナリズムによって自らのアイデンティティを確立しようとしているようで、アカデミー賞受賞の「スラムドッグ・ミリオネア」にも描かれていたようにイスラム教徒が迫害を受けていますね。
そのイスラム教徒は、カースト制の下部の人たちが、「ヒンドゥー教では一生階級制度に翻弄される。」と言う事で、改宗する人々でもあるとか。二重の迫害ですね。そこでこの本の著者が提示しているのが「多一論」です。
多一論:真理は絶対的で唯一のものであるが、地球世界におけるその現れ方は各宗教によってそれぞれ異なる。相対世界に現れた「多なる宗教」は「一なる真理」へと誘う確かな道である。
つまり、この世の中には色々な神がいますが、名前が違うだけで全部同じ神なのですよということ。それぞれの信じる神の教え・真理を学んでいけば同じ唯一の真理にたどり着く。ですから、真理に近づく過程は違ってもお互いその差異に寛容になり、共通の真理に辿り着くべく精進しよう・・・ということです。
これは、単に「宗教」についての議論ではなく「絶対真理」に関する哲学的考察ですね。
以上、三つの関心事でした。
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