『川端康成異相短編集』を読んで。
文字通り、川端康成の短編集です。しかし「異相」です。そもそもわたしは何故古典文学に親しみがわかず、いわゆる「文豪」と言われる人の作品でも、興味は怪奇とかミステリーの方に行ってしまうのかと考えていました。
先ずは、アカデミックが嫌いだという事。教科書に載っている作品など読まないぞ……、という「意気込み」です。小さく切り取られて、そこでアカデミックが押し付けられると。
もうひとつは、古典作品の中の日常に当然のごとく、セクハラとかパワハラとか、貧富の差による差別とか、LGBT差別等々が描かれているからです。その状態が何も問題視されず、ただ有ります。
フェミニズム運動が盛んになってから、西洋では古典文学の中の女性に関する表現が問題になってきました。意図的に書き直されたりもしました。同様に、最近では他の人権に対しても問題視し、書き直されている向きもあります。
もちろん明治以降の作品にも「人権問題」が扱われているものもあります。しかしそれは、プロレタリアート文学とか左翼文学とジャンル分けされます。
その前の文学、江戸時代の文学とかですが、その中では差別意識はありません。わたしも「士農工商」の身分差別など何も気にせず小説を楽しんでいます。「時代小説」だからです。「そんな時代もあったのネェ~~~。」です。
なので、第二次世界大戦以前の文学は「時代小説」としちゃえばどうでしょうネ~。
そんな折、大江健三郎さんが亡くなりました。彼のようなスーパースターの分析は、私なぞにはできませんが、古典文学のことを考えていて、その流れで大江健三郎さんのことも考えていたところでした。
大江健三郎さんの作品は「古典」になるなあ~、と。誰も彼の小説を「左翼文学」とは言わないでしょうから。日常生活に「権利意識」が常態としてある…かな。しかしながら、彼の訃報を知らせるメディアが、また彼をアカデミズムの方に引っ張っていきそうで、不安です。
というところで、『川端康成異相短編集』です。差別は意識されず当然の事としてあります。が、楽しみは「怪奇」です。編者によりますと、「怪奇」ではなく「異相」と、意図的にしているそうです。
編者解説によりますと、
「川端康成の小説作品には多かれ少なかれ、現世界への平均的な認識に従わない、通常と異なる相を関知していると読めるところがある。しかもその只ならなさがあってこそ作品の主題が生かされている場合がしばしばある。こうした特徴が特によく発揮された作品を集め一冊とした。」
怪談として、川端康成の作品を編んでいるものもあるが、編者はそのような外的なジャンルによる判別ではなく、「飽くまでも川端康成という作家にうかがわれる内的な必然性、その独特な認識の帰結としての常ならない相=異相」に焦点をあてて選択を試みているようです。
小説十六篇、随筆三篇。どの作品も読みごたえのある不思議なお話です(わたしがこんな事を言う必要はないが)。さすが「古典文学」だ!
最初の『心中』などは、2ページの作品ですが、呻ってしまいます。印象に残っている作品は、『死体紹介人』です。全く知らに女性の死体を「内縁の妻」と偽ってお葬式をする。その遺骨から話はどんどん複雑で不思議な展開になって、といって深刻でもなく、知らない者通しが知らないまま絡み合って行きます。最後の「落ち」も素晴らしい。
他の川端作品は一冊も読んでいないので「大きな」事は言えません。