2024年9月16日月曜日

こんな事を考えていたら、敬老の日だった。


 

最近、ボケボケで困ったもんだ。身体の耐用年数を超えても生きているのは、人間だけだ。と、ブツブツ言いながら暮らしています。


ドコモショップから、「ケータイの修理期限が切れました。」というお知らせが2回ほど来ました。買い替えろと言うのです。誰が買い替えるちゅーねん。と、思っていましたが、やはり壊れる前に買おうかと。


Yモバイルにしようかな。息子に聞いた見たら、「いいんじゃないの。僕もそうだし。」って、知らんかったわ~。Yモバイルだったんだ。


ということで、買い替えたら、さあ大変。メンドクサイ。



しかし、少々反省しました。そうだ、若い時は新しい物を手に入れたときは、喜んでいたはずだ。まるで新しいオモチャを手に入れたように!


そうだ、新しいものを楽しめなくなっているのね。反省して心を入れかえようと。これが、歳を取ったということなんだと。


ゆっくりでも良いから、前進するよう努めます~。






2024年9月15日日曜日

少し前の「折々のことば」です。


 

「観念は結局、観念のままにとどまり、詩にはならない。」  比較文学者:張競


何のことかと思ったのですが、


戦時中、与謝野晶子が一般誌に寄せた歌は、サークル内で詠んだ歌とはひどく「音階が違う」と張さんは言うと。



つまり、消費者という「読者」の存在を前提にする文芸は、民衆のその時の感受性によって破調すると。


つまり、時制とか民衆の要望とかに作用される歌は「詩」ではないということか。芸術には成り得ないのか。


前回の「現代川柳」に関連しての妄想でした……。





2024年9月2日月曜日

川柳について


 

過去二回ほど川柳(もどき)をUP致しましたが、「川柳とは何か」ということは、全く知りません。


で、先日、新聞記事で「現代川柳」のことを知りました。「現代」が付いているだけに川柳とは、違うとは思いますが…。


先ず川柳とは、「全く自由なもの」のようです。定義ナシ。俳句のように季語はいらないし、短歌のように情感もいらない。短歌や俳句は学ぶシステムが確立していて、集団の中でより高い評価を得るということが、頑張りどころとなります。現代川柳(川柳と現代川柳を混同しているところもありますが)は、違うようです。


現代川柳は、個人が勝手に活動しているようです(現代詩と同じ?なのか?)。そして、現代川柳は、一見意味が通らなかったり、読み手に不思議な感覚を与えるなど、共感を得る(与える)とは無縁のもののよう。


今、蔓延しているSNSで「イイね」を得るのとは無縁のようです。「共感」得ないということでは、現代芸術に通じるようで、難しい芸術論になりそうです。「異化」とか、ダダイズム、シュールレアリスムの「見る者」を拒否するとか。



しかしながら、「大衆」は共感し、感情を共有することを望むので、創作する方としては、たいへん困難な試みとなるでしょう。(というのは、間違いか。初めから共感を求めていないのだから。)。


「大変だ」ということは間違いないです。凡人は、すぐ情に訴えるから。わたしのことです。わたしだって、自分の心地よい言葉を並べて、情に訴えることなく、他者の心に響く音を紡ぎだしたい。です。ラップのように韻を踏むだけとか。。。


それでは、ひとつ…、


焼きピーマン

三個はきつし

一人酒


オソマツ。。。