2024年9月30日月曜日

『サンショウウオの四十九日』


 

この本を読んだわけではありません。賞(これは芥川賞)を取った本はだいたい面白くないから(わたし的に)。でも、最近の『折々のことば』で紹介されていましところ…興味深いなあ~と。


「自分の体は他人のものでは決してないが、同じくらい自分のものでもない。」


鷲田清一氏によりますと、


「思考や記憶感情だってそうだと、『結合双生児』の一人、杏は言う。杏は5歳になってはじめてこの体を共に生きる瞬を見つけた。」

しかし、両親をはじめ周りの人は、そのことに気が付かないようです。

「もし人が誰かに見つけられることで『私』になるのだとすれば、誰の思いの宛先でもないのは、存在しないというに等しい。」


つまり、鷲田清一氏は、人は周りの人との関係性において存在しているのだと言っているのか?人は、人に見つけられない限り生きられないと言っているのか?ーーー彼が言っているのは、そんな単純なことではないとは思いますが……。



これに刺激されてわたしの妄想が広がっていくわけです。。。


誰かに存在を認められなければいけないの?ーーー人は、無の中では生きていくことが出来ないのか。


他の生き物を見ると、孤独に生きているものもある。例えば、ミミズなんかは土の中でひとり生きている。だからたまに仲間に会ったときに、生殖できるように雌雄同体なのだと聞いた。その時に、どちらかがオスになり、どちらかがメスになるのだ。


また、オオカミに育てられたヒトとかサルに育てられたヒト、ヤマネコに育てられたヒトというのが、極たまに話題になることがある。そのヒト達は、まわりの動物によって認められた存在(オオカミ、サル、ヤマネコ等々)によって「それ」になるのか。


そして人間に見つけられると、彼らは人という存在になる。


まあ、概ね生物は、おのれの存在などに気付いていないと思われる。ヒトは、「己の存在」に気付いてしまったので、複雑になり悩みも多くなったのでしょうネ。それが「吉」なのか「凶」なのか?



『サンショウウオの四十九日』読んでみようかなあ~。





怖いもの見たさ


 

自民党総裁選のことです。


私は高市早苗さんとは思想的に真逆ですが、高市さんの総裁そして総理大臣も見たかったなあ~と。


理由は、


1;女性が内閣総理大臣になるのを見たかった。


2;アメリカ大統領であるハリス氏との日米首脳会談を見たかった。(ガラスの天井を破った二人だ!)


3;衆院選では高市さんでは自民の中道保守が、中道保守となった立憲民主党にながれ、自民の過半数割れとなるやもしれぬ。政権交代を見たかった。


以上です。


野次馬根性ですが……。





2024年9月16日月曜日

こんな事を考えていたら、敬老の日だった。


 

最近、ボケボケで困ったもんだ。身体の耐用年数を超えても生きているのは、人間だけだ。と、ブツブツ言いながら暮らしています。


ドコモショップから、「ケータイの修理期限が切れました。」というお知らせが2回ほど来ました。買い替えろと言うのです。誰が買い替えるちゅーねん。と、思っていましたが、やはり壊れる前に買おうかと。


Yモバイルにしようかな。息子に聞いた見たら、「いいんじゃないの。僕もそうだし。」って、知らんかったわ~。Yモバイルだったんだ。


ということで、買い替えたら、さあ大変。メンドクサイ。



しかし、少々反省しました。そうだ、若い時は新しい物を手に入れたときは、喜んでいたはずだ。まるで新しいオモチャを手に入れたように!


そうだ、新しいものを楽しめなくなっているのね。反省して心を入れかえようと。これが、歳を取ったということなんだと。


ゆっくりでも良いから、前進するよう努めます~。






2024年9月15日日曜日

少し前の「折々のことば」です。


 

「観念は結局、観念のままにとどまり、詩にはならない。」  比較文学者:張競


何のことかと思ったのですが、


戦時中、与謝野晶子が一般誌に寄せた歌は、サークル内で詠んだ歌とはひどく「音階が違う」と張さんは言うと。



つまり、消費者という「読者」の存在を前提にする文芸は、民衆のその時の感受性によって破調すると。


つまり、時制とか民衆の要望とかに作用される歌は「詩」ではないということか。芸術には成り得ないのか。


前回の「現代川柳」に関連しての妄想でした……。





2024年9月2日月曜日

川柳について


 

過去二回ほど川柳(もどき)をUP致しましたが、「川柳とは何か」ということは、全く知りません。


で、先日、新聞記事で「現代川柳」のことを知りました。「現代」が付いているだけに川柳とは、違うとは思いますが…。


先ず川柳とは、「全く自由なもの」のようです。定義ナシ。俳句のように季語はいらないし、短歌のように情感もいらない。短歌や俳句は学ぶシステムが確立していて、集団の中でより高い評価を得るということが、頑張りどころとなります。現代川柳(川柳と現代川柳を混同しているところもありますが)は、違うようです。


現代川柳は、個人が勝手に活動しているようです(現代詩と同じ?なのか?)。そして、現代川柳は、一見意味が通らなかったり、読み手に不思議な感覚を与えるなど、共感を得る(与える)とは無縁のもののよう。


今、蔓延しているSNSで「イイね」を得るのとは無縁のようです。「共感」得ないということでは、現代芸術に通じるようで、難しい芸術論になりそうです。「異化」とか、ダダイズム、シュールレアリスムの「見る者」を拒否するとか。



しかしながら、「大衆」は共感し、感情を共有することを望むので、創作する方としては、たいへん困難な試みとなるでしょう。(というのは、間違いか。初めから共感を求めていないのだから。)。


「大変だ」ということは間違いないです。凡人は、すぐ情に訴えるから。わたしのことです。わたしだって、自分の心地よい言葉を並べて、情に訴えることなく、他者の心に響く音を紡ぎだしたい。です。ラップのように韻を踏むだけとか。。。


それでは、ひとつ…、


焼きピーマン

三個はきつし

一人酒


オソマツ。。。