2024年11月26日火曜日

妄想 ②


 

谷川俊太郎さん追悼の続きです。言葉を疑っていた詩人はどのように詩を創造したのか。


詩人・吉増剛造さんが思いを述べています。吉増さんはアバンギャルドな実験的表現者の詩人だそうです。平易な言葉を使う谷川さんとは対照的な存在でした。


谷川さんの詩について、「ひとりぽっち性」と表現しています。「孤独」とは違う原始的で、無邪気で、純粋な魂と。


「平易」と「極端」とかけはなれた態でしたが、「ひとりぽっち性」というところは同じだと。



「一貫して学問や知識に頼らずに、裸で話していた。」と話されています。「意味」や「思想」から逃れようとなんて考えず、最初から一番最初から谷川さんは魂の中にそういう感覚があったと。


これが解なのではないかと思います。言葉を疑いながらも詩を創作できたこと。何も表現しようとせず、ちゃんと表現していた。言葉では表せ得ないものを。


吉増さんは、それを「骨の声」と言っています。頭ではなく、自然な、骨から出てくる声。そしてそれは人間だけでなく、動物・植物・鉱物さえ感じられるような感覚が息づくと。


「骨の声」、いい言葉ですね。脳からではなく体自身から出てくるような~。古武道の達人も言ってました。筋肉で動くのではなく「骨から」動くと。


ですから、超一流な人達は、捏ね繰り回したものからでなく、「無」から何かを取り出しているのでしょう。凡人が生意気ですが、そう思いました。






2024年11月25日月曜日

妄想 ①


 

谷川俊太郎さんがお亡くなりになりました。わたしは、彼の本を読んだことはありませんが、お名前は当然存じ上げております。


「詩」というものをどう読んだら良いのか、わかりません。引き込まれるきっかけがないからです。きっと理屈ではなく、感じるままに味わえばいいのではと、「理屈」ではわかります。


谷川さんは、「言葉」を疑い続けていたそうです。

「僕は詩を書き始めたときから詩を疑っていたし、言葉も疑っていた。」ーーー「言葉と世界はどうしてもズレがある。そのことを人はのんきに忘れて、言葉で何かを書けたつもりになっている。」




ほんとうにそうだと思います。ヒトは、便利な言葉や文字を手に入れたけれど、その代わりになにか大事なものを無くしてしまったと。「言葉や文字」は、普通の人にはとても有効で、知識を一般化しすべての人に恩恵をもたらします。


しかし、「普通でない人」は、その言葉のために葛藤します。自分の言いたいことが、言葉では表現できないから。「真実」伝えることができないから。


西洋文化は、音符というものを発明しました。音楽が一般化され普通の人も楽曲を楽しめるようになりました。しかし、音符で表すことが出来ない「音」を無くしてしまった。その音を表すため、♯とか♭などを発明し、より複雑な表現を模索します。でもダメです。


そんなようなことで、人は「無くしたもの」を見つけるためにもがき続けているのです。



そして、谷川さんはどうしたか。ーーー次回につづく。。。





2024年11月20日水曜日

ちょっと考えてみました。


 

現在、棋院と囲碁の同好会と、週一回のペースでで通っています。


わたしとしては、棋院のレーティングでの対局の方が性に合っています。同好会の友達は、「あんな陰気臭いところ嫌だ。」と言います。わたしが、棋院の方が気楽で良いと言うと、「えーっ!」と言います。


わたしは、棋院の対局者は何も言わないし、無駄なおしゃべりをしなくてもよいと。と言って、交流がないわけではなく、顔なじみの人も出来て気遣ってくれる方もいます。



それで思ったのですが、棋院はレーティング・クラスということもあって、全員が平等なのではないかと。同好会の方は、仲良し和気あいあいですが、上下関係が出来てしまいます。何かを争う同好会では、何によらず、どうしても上手な人と下手な人で上下関係が出来てしまうのではないかなあ~。


30数人いる同好会では、いろいろな人がいて、マウント指向の人もいるのです。対局途中に、その手はないと、わたしが打った碁石を返してきます。「うッ」と思って、投了してやろうかと思います。


紹介してくれた友達の手前もあり、強い行動はできません……のです。


なんで人が集まると上下関係ができるかなあ~。


囲碁界で女性が活躍できなかったのも、この目に見えぬ上下関係。AIの発展により、女性も(若い人も)一人でのびのびと研究できるようになり成績が伸びてきました。


わたしも、ひとり考えて囲碁研究に励みます。






2024年11月11日月曜日

『人はどう老いるのか』という本


 

この本は読んでいません。新聞の書評欄で見つけました。


最近、高齢者向きの本を多々見かけます。昔売れていた作家が、80代・90代になって自分の老いの生活を語ったりとか。たいていは、高齢になっても「若々しく、元気に暮らそう」というもの。


しかしこの本の著者は、それに反対のようです。著者は、高齢者向きクリニックで診察をしていた医師であり著述者です。


老いに抗おうとしても、結果的に抗しきれず高齢者の生活は「不満だらけ」のものになってしまうという主張です。できる限り死を遠ざけようとするよりも、老いとともに歩むこと、適当な時期に死を受け入れることーーーのようです。


書評では、そんな著者の思いに同意する人が多いので、この本が売れているのであろうと言っています。



大賛成です。。。


以前も書いたように、「身体の耐用年数を超えて生きているのは人間だけだ。」ということ。医学が進んで、生かして頂けるのはありがたいが、適当な時期に死なしてもらいたい。だから、病気のひとつは、治さずに残しておこうと思う今日この頃です。