2013年10月15日火曜日

『はだしのゲン』に「いっちょかみ」



「いっちょかみ」は、わたしの母がよく使っていた言葉です。京都生まれなので関西弁なのだろうか。「ひとつ噛んでおく」、つまり「ちょっと首を突っ込んでおく」といったような意味でしょうか。「ひと言物申す」の関西版オチョケ表現といった感じか。

 

とにかく『はだしのゲン』の閲覧制限問題は一先ず沈静化した様相ですが、9月に「新しい歴史教科書をつくる会」が、この作品を「有害図書」として教育現場から締め出すことを求める要望書を文科相に出したと聞きました。このことに関する新聞記事を読みました。

 

 

記者がこの事について被爆二世でもある日本図書館協会・図書館の自由委員会の西河内靖泰委員長(59)に意見を聞いてみたところ、「良書だから開架にせよという主張も、悪書だから排除せよという主張も、ともに間違っています。どんな図書も平等に扱われるべきです。」の答えで少々驚いたとの事。つまり、特に『はだしのゲン』を支持するわけでもなく、右であれ左であれ、自分の考えと違うものは排除しようとする意志が働くものだが、図書館の自由は、多様な本を等しく扱う事・・・そして、対立する意見を等しく提示・紹介すること、なのだとのご意見だったのです。

 

この記者は、また、「ゲン」の著者である中沢啓次さんに生前取材し、「ゲンとは被爆者の怨念の漫画だ」と中沢さんが語るのを聞いたと書いています。著者にとっても、書いたものが良書であるのか悪書であるのかということは関係なく、自分の表現したいものを書くと言う事なのでしょう。

 

 

また、『名作に常識は似合わない』という違う記事も目にしました。その主張は、「図書館は異様な空間だ。残虐で不条理で不道徳な話に満ち満ちている。」というもの。つまり、青年が金貸しの老婆と妹をおので打ち殺す、『罪と罰』。アラブ人を殺した男が動機を問われて「太陽のせいだ」と答える『異邦人』。若者が皇族と婚約した女性を妊娠させる『春の雪』。などなど・・・、著作物は「善」に満ち溢れているものとはとても言えない。

 

すぐれた作品は読者のことなど御構いなし。読者の良識や常識、そんなものを考慮していては作品は書けません。読者はそんな自分と異質なものに向き合うことによって、戸惑い、反発し、考えるのです。そして、作品は読み継がれて行くのです。だから、『はだしのゲン』が良識にかなっているのかと問うことは、無駄なこと。誰かが、自分の考えと違うと言って、教育的配慮や歴史認識の問題を持ちこむと、その作品の世界とは違ったところに議論が行ってしまう。

 

この記事の著者の結論は、「平和を訴える本に感動すれば反戦主義者になる、戦記に夢中になれば好戦的になる、というほど人は単純ではない。さまざまな作品を糧としながら自分の考え方をはぐくむ。だから図書館は豊かで異様な空間であってこそ意味を持つ。そこに常識と衝突する作品があることは異様ではない。」でした。

 

 

わたしは、良い本も悪い本も、いろいろな雑多な本を読むことによって、自らで自分にとって何が正しいのか、有意義なのかということを選び取る力が生じるのであり、誰かが何を読むべきかを選択提示すべきではないと思います。もっと読者(子どもを含む)の良識や知性を信頼すべきです。為政者は、その時々によって変わりますからね。その度に、何が良書で、何が悪書かがコロコロ変わるなんてことはないはずです。と、思いますがね・・・。

 




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