2013年10月6日日曜日

続・カタカナと外来語


「カタカナと外来語」は英語クラスでの発表のために書いたのだが、その発表が一週間延びた。そのため、引き続きこの問題について考える破目になった。

 

前回の三人の意見は、微妙に論点が違っている。前の二人は、英語が世界中に侵入してきて、他の文化に影響を及ぼしているという主張だが、最後の岡康道さんの意見には、その論点はない。それ以上に、英語の侵入を取りこんで自らのものにし、そのパワーを跳ね返す勢いを感じる。

 

わたしの意見として、「英語のみがインターナショナル言語として世界に受け入れられ席巻して行く事には反対である。言葉は文化である。ひとつの言葉のみが、全世界で席巻すると、他の文化が廃れていく。その文化を表現できる言語がなくなってしまうからだ。世界には文化的多様性が必要である。異なった言語で、異なった表現がされ、異なった意見がたくさん出ることで、互いが刺激し合って、発展が促される。」――と書いた。しかし、反対に、英語がインターナショナル言語となることは、英語にとっても不幸な事だと考えている。というのは、岡さんが指摘しているような「英語の侵入を跳ね返す」力である。

 

今、世界で話されている英語の50%以上は、英語ネーティヴではない人々が話していると言われる。その人たちが全て正しい英語を話しているとは考えにくい。あるいは、彼ら自身の文化に沿って英語を話しているのかもしれない。つまり、反対に英語の方が崩壊しているのである。

 

わたしは、このあたりで、英語を一括りに「英語」と呼ぶのはもうやめにした方がいいのではないかと思う。イギリス英語・アメリカ英語・カナダ英語・オーストラリア英語等などと、区別すべきではないのか。そして、それぞれの国の文化を担う言語であるとして認知すべきだ。日本に「正しい日本語」を規定する協会があるように、正しい英語を保守して行く協会があると言われるかもしれない。カナダ人の先生は、イギリスにそういう協会があって、カナダもそれを遵守していると話していた。しかし、アメリカはどうか。想像するに難くはない。

 

私の結論としては、「インターナショナル言語は自然発生的な言語ではなく、人工に作られた言語であるべきだ。」と言いたい。破壊される文化を内包していない言語という意味で。

 

 

もうひとつ英語をインターナショナル言語として受け入れたくない理由は、それが、昨今の世界のグローバル化を背景としたマルチ・エンタープライズの存在と関連しているのではないかと思うからである。それはまた別のお話と言うことで…、また、考えます。。。





にほんブログ村 その他日記ブログ ひとりごとへ
にほんブログ村

0 件のコメント:

コメントを投稿