2013年11月16日土曜日

学校で「議論」をすると…


今、朝日新聞夕刊に『英語をたどって』というコラムが連載されています。連載「7」まで来ました。「日本の学校の英語教育はどうあるべきか」ということを検討し続けています。

 

連載1,2では、高校のディベートクラブが、世界大会に行ってどうだったかという話。

 

彼等の高校生は、優秀で、普通の英語授業はカッタルイ。それで、英語で議論をさせたら、ノッテキタ。英語そのものの発音とかは帰国子女にかなわないが、弁論はバツグン。それで、全国大会で優勝し、世界大会に行ったという訳。世界大会に行ってどうなったかと言うと、予選で、8カ国と戦って、1勝7敗。記事によるとこの「一勝」は快挙だと言うこと。日本代表として3年ぶりの勝ち星。

 

この世界との差は何かというと、日本の学校では普段から授業で議論をしない。下手に自分の意見をクラスで言うと疎まれる。「英語クラブで議論はできるが、うっかりクラスで議論をしようものなら友達がいなくなる」というのが高校生の感想だ。議論が当り前の国の住民と議論が特別な国の住民の違いかと、記事は分析している。しかし、大会でコテンパにやられた高校生たちは、大会後のパーティでは、明るく外国の生徒たちと談笑していたとのこと。

 

 

ここまで読んでわたしが思うには、詰る所、結局は文化の問題になっちゃうのね。でも、最後にパーティで、みんな談笑していたと言うように、どの国だって、日常的に議論しているわけではないのよ。少々の他国での英語学校経験から言いますと、クラスの授業としては(テキスト)議論を促す内容が多いけれど、その態で、他の生徒と授業後に会話をすると、「なんだ、お前は」という感じになっちゃう。一生懸命、話題を探そうとしていたら「政治問題が好きなの」とも言われた。つまり、ディベートとかクラスの中は日常ではない空間なのだ。

 

当然と言えば当然ですネ。学ぶ場所なのだから。と言うことは、「議論」と言う観点から考えると、英語の授業だけ議論している場合ではないでしょう・・・と思います。他の授業は、先生の言うことを拝聴するだけで、英語の授業の時だけ、「ハイッ、議論をしましょう」と言う事にはならないでしょう。となると、英語教育の問題は、学校の教育問題・制度の問題にまで行っちゃいます。

 

でもそこで、日本の文化(?)である「空気を読む」ということをしなかったら、先の高校生が言っていたように「友達がいなくなる」と言うことになってしまう。帰国子女が日本の学校で苦労するように、すべての学校のすべての教科で、クラスで「議論」を始めると、「日本文化の崩壊」という保守派(?)の議論がまきおこるカモ。「婚外子を認めると日本の家族制度が崩れる」と言った議論のように。論理の飛躍か???







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