2014年2月24日月曜日

ネアンデルタール人とヒトの関係


2010年に『ネアンデルタール人、ヒトと交雑の可能性』という新聞記事を読みました。ドイツにある国際研究チームがネアンデルタール人のゲノム配列を解析し、ヒトとネアンデルタール人の交雑を突きとめたのです。現時点でネアンデルタール人のゲノムの約6割が解明されています。この記事によりますと、アフリカ以外のヒトのゲノムの1~4%がネアンデルタール人由来と言います。ヒトは約10万年前にアフリカから旅立ち、ヨーロッパ、ユーラシアに到達しました。その時、先にアフリカを離れ、ヨーロッパに定住していたネアンデルタール人に遭遇したのです。ですから、アフリカに留まっていたアフリカ人にはネアンデルタール人のゲノムは見つからない訳です。

 

ヒトとネアンデルタール人は共通の祖先を持っており、約50万年前に枝分かれしました。両者は分岐してから数10万年しかたっていないので生物学的に交雑が可能と言うことです。この時点では、研究者は「交雑したと確定するには、より古い時期のネアンデルタール人のゲノムを調べるなどもう一段階上の調査が必要だ。」としていました。

 

 

そしてつい最近、再び同種の研究成果が発表されました。わたしは、以前に読んだものの焼き直しなので、たいした興味はなかったのです。が、最近はじめた英会話の先生にこの話をしたところ、彼、全然信じないのです。「人とネアンデルタール人だって。STUPID!」ってことです。彼等お得意の「STUPID!」が出ましたよ。彼はカナダ人です。それで、NATUREに発表された研究に関する英語の記事を見つけ出しました。彼等は、英語の記事じゃないと信用しませんからね。

 

 

Modern human genomes reveal our inner Neanderthal』という記事です。この記事では、ふたつの研究グループの成果を取り上げています。この二つのグループの共通認識は、「ネアンデルタール人は絶滅している。だから、ヒトがネアンデルタール人のゲノムを持っているということは、ネアンデルタール人が現存していた時に交雑したということであり、最近の話ではない。」ということ。確かにね!!!

 

David Reich率いるグループは、この交雑によりヒトが得たネアンデルタール人のDNAは、病原菌との戦いに有効に働いているということと、紫外線に対する耐性を人類に与えたということです。彼等はヨーロッパの北の方に生存していたので、そのような特徴を獲得したのでしょう。Joshua Akey率いるグループは、現人類に役立っているネアンデルタール人のDNAはケラチンの中にあり、皮膚や毛髪に関係していると言っています。やはり、寒さや病原菌に対する耐性ですね。

 

両グループとも言語を司る遺伝子などにはネアンデルタール人のDNAは見られず、知能の面には貢献していません。もうひとつ、それではなぜ二種族のハイブリッドは現存していないのか。ヒトとネアンデルタール人は交雑するのは可能であったが、そのギリギリの線だったのか、ハイブリッドは不妊体質だったということです。つまり、二世はできなかった。彼等の遺伝子は残せなかったということ。あるいは、何か人類にとって有害なものがあったので、十数世代のあいだに自然淘汰されたのか。

 

興味深いことは、古代のゲノムが化石の骨から見つかるのではなく、今、現に生きている現代人の体から発見できるということです。また、他の科学者はアフリカの人々はネアンデルタール人とは雑婚していないが、他の絶滅した種族との交雑の証拠のDNAを発見できるかもしれないと、超人種差別的に聞こえる発言をしております。

 

 

 

この記事の結果にしても、英会話の先生は信じませんでした。「まだ、確定はしていない。引き続きの調査が必要だ。」とのこと。考えてみれば、そうかもしれませんね。こんな真実をキリスト教徒が信じる訳ないもの。というか、信じたら自分のアイデンティティがなくなっちゃうんじゃないの。その点、仏教徒はいいですね。仏教は、ヒトを特別な存在と規定してはいませんからね。「万物皆兄妹」ということで、めでたし。




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2014年2月23日日曜日

『ヒトの変異』  アルマン・マリー・ルロウ



著者は、ニュージーランド生まれ。国籍はオランダ。ニュージーランド、南アフリカ、カナダで少年期を過ごし、カナダの大学卒業後、カリフォルニア大学で博士号を取得。この本は何の分野に入るのでしょうか。ロンドンのカレッジの進化発生生物学部門リーダーを務めると紹介されています。

 
                                                                ***
 

彼がこの本で一番言いたいことは「総ての人がミュータント(遺伝子が変異しているということ)である」ということだと思う。「第一章ミュータント―――はじめに」で、「わたしたちはみなミュータントなのだ。ただその程度が、人によって違うだけなのだ」と言っている。

 

以前からこのブログでも主張しているように、「自分は正常だ」と思って生きているが、多かれ少なかれ人は異常なところを持っているものだ。一番気に入っているわたしの創作話は、『友達のさかなのペット』である。友達は珍しい魚をペットとして飼っているが、一匹だけとても凶暴な奴がいて他の魚を傷つけていると嘆く。わたしは、その魚が悪いのではなく、脳が傷ついているのかもしれないと彼を諭す話だ。

 

近年、科学の進歩は目覚ましく、今までわかっていなかった事が徐々に証明されてきている。共感覚の人がいることや発達障害の子供の事、性同一障害など。これまでは、単なるその人の個性と思われてきた事が、実は彼等にはなんの責任もない遺伝的障害だったのかもしれないのである。人間社会がこれ程発達していない時なら、彼等も少々変わった人として認知され、彼等の真実は発見されず、「友達のさかなのペット」のように訳もなく批難または排除されていただろう。

 

日常生活には支障はないが、やはりおかしいという事もある。見過ごされているケースだ。例えばこの本で紹介されている例で言うと、肋骨が余分にある人は成人十人に一人、内臓逆位で生まれる人は八千五百人に一人。何らかの遺伝的障害によって発達が抑制されたり、逆に大きくなりすぎたりする事例のない器官はほとんど一つもないと述べられている。「筋肉が余分にあっても気がつかないからか、仮に気がついたとしても気に病むほどのことはないからか、記録はされていない」と。

 

また、祖先から代々変異遺伝子を受け継いでいても、劣性遺伝であるため表面には現れず、そのまま次世代にまた伝えている可能性もある。つまり、人間の完璧なゲノムなど存在せず、生きているほとんどの人がなんらかの変異(ミュータント)を持っていると言える。

 

 

この本では、人が母親の胎内で胚からどのような過程を経て人になるかということが、とても丁寧に詳しく記載されている。わたしが述べていることは絶対的に正しいのだと言う押し付けがましさもなく、とても控え目で真摯だ。遺伝子がどんなに繊細な働きをして、わたしたちの体を作り上げていくのかが、すばらしく「美しく」語られている。これを書くためにどれだけの文献を精査したのだろうかと、素直に驚きと尊敬の念を持ってしまうほどに。

 

ヒト胚から人になっていくのは、その遺伝子情報に基づいている。その遺伝子の意味を変える「変異」は、人が持つ遺伝子のすべての65%にそれぞれ少なくとも一つ発見されると言う。この変異のうちのほとんどは人の形成にほとんど影響を及ぼさない物だ。残りのわずかな数の変異が人の身体に影響を及ぼす。例えば、無頭蓋骨症、結合性双生児など。しかし、これらの変異は時が経つにつれて自然選択され消滅する。(つまり、次世代にこの遺伝子を伝えるまで生きられないということ)。そして、この人の形成に悪い影響を与えない変異が人間の多様性を作り出している。

 

著者は、「人種と言われているもの」での皮膚の色の違いとか骨格の違いがどのように遺伝子的に生まれるのかに深い興味を抱いているが、この多様性による遺伝子の違いは、伝統的・民族文化人類学的な人種とは一致しないと述べている。人種間で見られる遺伝子の違いは、同じ民族間でも同様に見られるものであると。つまり、人類の間に境界線を引くことはできない。遺伝子学者は「人種」それ自体の存在に疑問を抱いているようだ。

 

このような発生生物学に関連して、文化人類学的な事象を考察している点がさらに興味深い。他の例で言うと、老化。老化とは一つの遺伝子疾患と言うより遺伝的疾患の集まりであると述べられている。老化の引き金を引く遺伝子があると仮定すると、それは中年あるいは老年期に現れるものであるから、自然選択(疾患のために早死にするほどは悪い遺伝子ではないと言う事)を免れて子孫に代々受けて継がれていく。そして現代にいたるという事。つまり、総ての人が、その老化の遺伝子的疾患を持っているという事だ。

 

反対に長寿の遺伝子もあるようだ。自然選択により長寿なショウジョウバエをつくるとどうなるか。寿命が延びるにつれて(一匹のショウジョウバエではなく、寿命の長い種ができるにつれて)若い頃の生殖活動が鈍化する。生殖活動を控えるようになるにつれて、エネルギーを体内に溜め込み、脂肪と糖分を備蓄する。動きが緩慢になるので新陳代謝は低下。つまり、著者が言うには、老化は若い頃に子孫を残した代償である。将来、人類は好きなだけ長生きする為に、いろいろな事をするだろうがその代償は中年並みの精力と食欲と魅力しかない二十歳の若者だろうとの著者の言。

 

また、「美」について。著者は「肉体的な美」について言及している。彼は、哲学者の言を紹介している。「美は生殖を促す。美しいものを目にすると、体全体がそれを複製したくなるものだ」は、現代の哲学者エレイン・スカリー。プラトンはソクラテスとディオティーマの恋愛論を引いている。「簡単に言えば、ソクラテスよ、愛の目的はおまえが考えているようなもの、つまり美そのものなどではない」とディオーティーマは語る。「それでは何なのですか?」「愛の目的は子をもうけ、美を生み出す事だ」「本当ですか?」「そうとも断言しよう」。ダーウィンはこう言う。「最も洗練された美とは、メスを引きつけるものであり、それ以外の何物でもない」。これが美の定義である。

 

著者の考えでは、「基本的に、美は生理的な条件に関連し、実際、健康の証明書である」。美は健康を現わしている。きれいな肌、輝く瞳、白い歯は美と共に健康であるということ。しかし現代、先進国では健康が行き渡った結果(基本的に)、総ての人が平均的に美しくなったのだろか。否、美は偏在する。これはある程度、美が健康の結果であると同時に富の結果でもあるからだ。では、総てが平等である社会を考えてみる。しかし、そこにも美の偏在はある。そこに、彼は遺伝子の変異を見る。わたしたちの顔は変異に非常に影響されやすい。奥深いところに現れた遺伝子の秩序の乱れも顔に現れる。

 

変異は人の意志ではどうにもできない「運に左右されるゲームのようなものだ」と著者は断わってはいるものの、美しいということは、遺伝的エラーが比較的少ないことを意味するのではないだろうかとの疑問を投げかけている。この疑問を証明するには至らないが、彼はその例として「血族結婚に見られる美の低下」と「ブラジル人のように混血の祖先をもつ人たちの美しさの面で劣性の変異が出てこない有利さ」を上げている。わたしとしては、心情的にそんなにスッキリとは割り切れないのだが。

 

最後に、興味深かった事がひとつ。それは、いま現在生きている生物・人間も過去に絶滅した生物の遺伝子を受け継いでいるということ。度々、指が五本ではなくそれ以上を持つ動物(あるいはヒト)が現れる。これは遺伝子の変異による奇形だと思われてきたが、新しく発見された化石から、四肢動物のすべてに多指の祖先がいたという事がわかった。三億六千年前ごろデボン紀の沼地に住んでいた三種類の両生類だ。それらは、それぞれ八本とか六本とか七本の指がある。つまり、多指の哺乳類は過去の名残を示しているという可能性が出てきたのだ。指のない魚から…デボン紀の多指の両生類…を経て五本指の四肢動物に至る五億年の旅。これもまた美しいかな。




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2014年2月22日土曜日

Subspecies of Humans


2010年にドイツの科学者が、ネアンデルタール人のDNAが我々人類のDNAの中に2~3%含まれていると、米科学誌サイエンスに発表しました。そこでは、まだ、引き続きの研究が必要と指摘されています。

そこで、つい最近の研究結果です。2014年1月29日の新聞記事によりますと、アメリカの科学者がその後の人類およびネアンデルタール人のDNA分析でわかったことを発表しました。

『Subspecies of Humans』 は、その前に書いた文章です(2009)。しかし、今も変わらず、わたしの気分はこんな感じです。次回、2014年1月に29日に発表されたことについて書きたいと思っています。

 

   In October, 2009, the complete female skeleton was reconstructed from the Ardipithecus ramidus fossil. She was nicknamed “Ardi”, the oldest ancestor of humans.

 

   According to LIFE---An Unauthorized Biography, by Richard Fortey, we have evolved through the process of Anthropoid, Ape-Man, Primitive Man and Human beings, simply speaking. But there is an interesting idea that some different kinds of ape-men coexisted in the earlier stages. For instance, anthropologists think that the Neanderthals (600,000~350,000 to 24,000 years ago) are either classified as a subspecies of humans (Homo sapiens neanderthalensis) or as a separate species (Homo neanderthalensis). In other words, there existed a diversity of “would-be humans” in those days and the human beings at the present time won the race of the biodiversity in the end.

   Although we won the game, there could be a lot of examples that seemingly extinct creatures have been barely alive somewhere in a nook of the earth. Furthermore, in the case of plants or insects, researchers have continued making discoveries of new species. Then there’s no wonder that different “humans” have been still surviving in unknown places. Homo floresiensis, discovered in 2003 on the island of Flores in Indonesia, is classified as the subspecies of Homo sapiens and said they remained until 12,000 years ago. Humans also have been living there since 35,000 years ago, so it is true that different “would-be humans” existed together down to recent times. Or there was the eye-witness evidence of their existence until the 19th century and some people still believe that they are alive even now. In a sense, not only are we “humans” in this world, but some subspecies of humans like the Abominable Snowman could possibly exist somewhere on the earth.

   While thinking about these, it reminded me of Katikujinn Yapoo, written by Numa Shouzoh. The book title, Katikujinn Yapoo, comes from Gulliver’s Travels, Part A Voyage to Houyhnhnms by Jonathan Swift. Yapoo is an analogy of Yahoo and Katikujinn means domesticated people. This narrative appeared in a magazine serial for the first time in 1956. The book belongs to the literary genre of SF/SM. The author, Numa Shousoh was an anonymous author who has not been revealed his identity yet. It is said that the famous writer wrote this long sequence under an assumed name such as the famous French novelists Mandiargues or Bataille had written pornographic books anonymously. There have been floated some famous writer’s names since it was published, in which the names of Mishima Yukio or Shibusawa Tatsuhiko are shown.

   The book is like this. In the future world, the Imperial Government, called the EHS (The Empire of Hundred Suns), rules the earth. The world consists of the white race (Human beings), the black race (Semi-humans) and Japanese (Yapoo). The yellow races except the Japanese somehow were extinct. The rulers state that the Japanese is not human beings but a kind of the intelligent Ape-Man. Consequently, they mate Yapoos to improve the breed and utilize them for a variety of purposes like from food to pets.

 The Japanese young man named Rin-itiroh and his German fiancée Klara, who are alive at the present time, are involved in an accident in which a flying saucer, which has come from the future world, has crashed into the earth. Then they are invited to the EHS. The white women rule the EHS and the males do not have even property rights. Klara, who is a white woman, and Rin-itiroh, who is a Japanese man, come into this future world. So Klara, of course, is treated favorably as a noble, and on the other hand, Rin-itiroh is reborn as a modified dog and becomes her pet. The story is about his conflict before being modified and his way of living after being modified.

   This book, which I read when I was around twenty, is such an awful one but nowadays the science and technology has broken into other creatures’ lives and also has toyed with them. To say more, while the science is growing interminably, it could occur that someday a person might be pointed out, “You are not a human. Your DNA subtly includes something different from humans’.” It is possible that DNA from a subspecies of human are in hiding in the body because “they” and “we” once lived together in the same field, isn’t it? My fancy is also interminable……..

 

 

   It is redundant, but Katikujinn Yapoo has been filmed and would be released in 2010.




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2014年2月14日金曜日

STAP細胞から…、考えたこと。。。


一人、喫茶店フレンドがいます。たまに、喫茶店でおしゃべりする仲間です。彼女のお嬢さんは、30歳で、博士です。STAP細胞の小保方さんのよう。お母さんであるわたしの友達は、小保方さんみたいな「すぐれ者」ではないと言っていますが、どうも動物の糞の研究でその動物の体のサイクルを研究している模様。希少動物の繁殖などに役立つそうです。

 

話がそれました。

 

彼女と最近話した話題は、STAP細胞のこと。そんな話題が普通の人々の間で取り交わされるなんて、スバラシイなあ…と思います。さすが、皆が新聞を読んでいる日本の美点です。で、彼女曰く、京大のお譲さんの隣の研究室は「iPS細胞」の研究をしているのですが、「その先生がアメリカに今いるんだけど、STAP細胞のせいでもう日本に帰って来ないョ、って娘と言ってるの。iPS細胞も時代遅れになっちゃったからね。」です。

 

それから話題は、150歳平均寿命説に移り、「150歳どころかSTAP細胞で、人間は死ななくなっちゃうね。」と。

 

「だからさあ、なにか極めたいものを持っている人なら、何百年も生きて道を究めたいだろうけど、我々凡人はさあ、何百年生きたって、やることがないよ。」と言うと、

 

「そうだね。いつもの通り、毎朝掃除して、今日の晩御飯は何にしようか考えるのが落ちだね。」って。

 

「何百年も、献立考えて生きるんだあ~~~。」

 

 

 

「人間は何故人間になったか」についての本を読んだことがあるが、そこに教育について書かれていたことを思い出した。人間はDNAで引き継がれていく「知識」を教育でより早く伝達して行くことができる。つまり、動物は、いろいろな経験がDNAを通して子孫に引き継がれていくが、人間は体を通さなくとも「学ぶ」ことができるということ。誰かが研究した成果は、即、他の人の知識にもなる。

 

だから、このメマグルシク技術革新がなされていく現代を生きることは大変なことだ。膨大な学習能力を要求される。今日覚えたことは、明日は古くなっており、また、新しいことを学ばなければいけない。

 

今朝のラジオでアメリカ人のジャーナリストが、アメリカの経済格差と教育格差の問題について話していた。アメリカで「金持ちの側」に居られるのは、あるいは仲間入りできるには、最新の知識が必要。それが、お金を稼ぐ道に繋がるからだ。同感である。最新の情報を自分のものにして、支配する者の側に立つのだ。同時に、そのための教育にもお金が掛かる。つまり、金持ちしか最新の知識を得られないということ。こうして、負の連鎖が始まる。そして、格差は広がるばかり。

 

もちろん、「お金だけが人生じゃない」というスタンスが取れれば問題はない。「お金持ち」の存在は忘れて、晴耕雨読の日々も悪くはない。しかし、そういう人生にも才能が必要。自分自身で自らの楽しみを構築できる才能だ。凡人はどうすればいいのか。

 

今の世の中、すべてお金が絡んでいる。そこら辺のものを採集して食料にすることはできない。「そこら辺」は人の土地であるし、魚を取れば漁業権なんてものにも引っ掛かる。もはや、狩りや採集の技術を取得するだけでは生きていけない時代になってしまったんだね~~~。





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2014年2月12日水曜日

『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』――ジュノ・ディアス


少々以前の作品ですが・・・、

 

「ピュリツァ賞、全米批評家協会賞、ダブル受賞作!新世紀アメリカの青春小説」が、この本の帯のキャッチ・コピー。作者はドミニカ系アメリカ人。第二作目にしての快挙。

 

読んでいると、どこまでが真実でどこからがフィクションかがわからない。ちょっと眩暈モノの作風である。内容は、1930年から1953年に暗殺されるまでドミニカ共和国を支配したトルヒーヨ・モリナと、その独裁政治に翻弄された一族の物語である。こう書いてしまうと、何かどこにもありそうなお話であるが、そこは南アメリカ文学の流れを汲むもの(「中南米マジックリアリズムのポップ・バージョン」と解説されている)、そんな素直に読み進められない。

 

当然日本語訳で読んだが、オリジナル本は英語とスペイン語が半々。しかもそのスペイン語がドミニカバージョンであったり、地方独特のものであったり、俗語であったりで、翻訳も一筋縄ではいかなかったようだ。また、作者は特にスペイン語に英語の注釈は与えず、相当読みにくい本であるよう。ディアス氏は「アメリカ合衆国にはたくさんのスペイン語話者がいるって事実に、もうそろそろみんな慣れ始めてもいいころでしょう?」とインタビューに答えた。実際、アメリカは英語を公用語と規定していないのだから、もっともな話だ。

 

お話は、主人公であるらしきオスカー・ワオから始まる。彼はもうアメリカに住みついており、独裁者の影は希薄になっている。が、彼の母、祖母のジェネレーションは、独裁者から逃れられたとは言え、まだまだその存在(すでに死んでいるとはいえ)を引きずっている。それほど、このトルヒーヨの治世は、ハチャメチャなものだったのだ。それから話は、ワオから母、祖母、祖父の時代に遡り、この独裁者と彼の一族の接点の恐怖を明確に描き出していく(もちろん、写実的にではありませんよ)。

 

オスカーのオタクぶりを筆頭に、それぞれの家族の個性的で波瀾に富んだ人生が、南米文学らしき幻想的でSF的でおとぎ話的残酷さの中で描かれていく。彼等のその人生すべてが、トルヒーヨの暴力的治世とリンクしているのだ。と言う事は、ドミニカ人の総ての人生がトルヒーヨに侵されている・・・いまだに、と言う事か。

 

オスカーのオタクぶりが、二番目の翻訳者泣かせの部分。至る所に、コミック(日本のコミックも含む)、ビデオゲーム(同様)、SF・ファンタジー本からの引用が散りばめられている。その解説だけでも膨大。トルヒーヨの行為を単に今までのような正統的小説で書きすすめていけば、到底ドミニカ共和国の独裁者であるトルヒーヨを描ききれないというのが、作者の意図である。つまり、オタク文化を武器として、まじめに書いていてはかえって浮かび上がらせることができなかったトルヒーヨの残虐性を表現し得たという事か。滑稽に描写された中に、ドミニカの悲惨な時代が浮かぶ。最後に蛇足ながら、絶対ハッピーにはならないであろうと思われたオスカーの人生で、最後に思わぬ事が起きたのには、本当に心からホッとできた。

 

 

翻訳について:

 

訳者都申幸治さんが「訳者あとがき」で書いている。「多くの新しい試みに満ちた本書を訳すにはたくさんの困難があった」と。英語とスペイン語の混在に苦労したとのが一番。スペイン語に堪能な久保尚美さんを共訳者とした。オタク的知識も岡和田晃さんの協力を得た。「二人の超人的な努力の結果、日本語版は世界最初の『読んでわかるオスカー・ワオ』になったと自負している。」と表明している。

 

オオッ、日本人のオタク根性を見た思いだ。






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2014年2月8日土曜日

いまの、わたしの「わくわく」

ついつい囲碁に感けてしまう。「その時、自分が一番やりたい事をする」というのを信条にしているので、別段それで良いわけだが、実は『謎の国家・ソマリランド』と言う本を2、3日前に買ったのだ。もちろん、非常に興味があって、買ったわけであるが・・・、未だ手つかず。今でも、非常に読みたい。でも、囲碁に走ってしまう。ジレンマ。

また、James Joyce の Dubliners もある。『ダブリン市民』だ。ダブリンの市井の人々を描いた短編集。短編なので読みやすいと思い、一日一遍を読む計画を立てた。英語の読書会のためにも、10ページ程度の作品なので良いかなと。しかし、二日で計画倒れ。どうしても、囲碁の本に目がいってしまうのだ。

昨日は、囲碁講座の日。クラス仲間の会話をそれとなく聞いていると、井山裕太棋聖と山下九段の棋聖戦の話。

「どうなっているか、わくわくする。」
「今は、昼休みよ。」
でも、井山棋聖がニ線に走っていってるのよ。どうなるの?」

なんて新鮮な会話だ!囲碁初心者の私は今まで考えたこともなかった。でも、少しずつ囲碁を知るに及んで、その「わくわく感」が理解できるようになってきた。まるで、サッカーや野球の観戦のように、棋士の一手一手にドキドキする。不思議な感覚、不思議な世界に足を踏み入れてしまった感。

先週は、講義で、わたしの棋譜を先生が解説した。生徒が順番に棋譜を持ち寄り、先生がそれを教材として、皆に講義する。わたしの棋譜など他の生徒の方々には退屈そのものと思う。低レベルの戦いだからね。参考にする所はないだろう。しかし、わたしにとっては、先生の解説に、まさに「目からウロコ」。ちょっとコツなんかが、掴めたような気がする。

先生の解説後、「コンピュータの6級」に勝てるようになった。格段の進歩である。だ・か・ら、囲碁から離れられないのよ・・・、い・ま・は。仕方ないね。ジョイスとソマリランドには、もう少し待ってもらうことにしよう。。。






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2014年2月2日日曜日

プレゼンのためのストラクチャー

 

三題噺というのが落語であります。お客さんから「お題」を三つ頂いて、そのお題で一つの話をまとめ上げます。今回、英会話クラスでプレゼンが復活しました。それで、わたしもその手で行こうかなと。お客さんからの「お題」ではないので、ちょっとインチキですがねえ。

 

わたしの選んだ「お題」

 

1.『元気な高齢者、まだ働ける』新聞の読者投稿からです。

 

2.『寿命百歳以上の世界――20××年、仕事・家族・社会はこう変わる』以前もUPしましたが、ソニア・アリソンさんの著作です。(読んではいません。書評を見ただけ。)

 

3.『人工知能が雇用を奪う未来』最近の新聞記事です。

 

4.『STAP細胞』言わずと知れた、日本人女性科学者の快挙です。

 

5.『死の権利「安楽死のできる国」』オランダ、その他の安楽死が明文化された法律を持つ国々があります。

 

 

3題ではなく5題になってしまいましたが、このストラクチャーで話をまとめて行こうとの魂胆です。

 

『元気な高齢者、まだ働ける』は、66歳、パートで働いている方からの投稿です。定年退職して2年ほど、年金の目減り防止にと、パート勤務をしていらっしゃるようです。しかし、65歳以上で仕事を見つけるのは大変とのこと。年齢不問と求人広告に書かれていても、実際は65歳まで。「65歳以上でも元気で、働きたい意欲のある人は沢山います。これからも、ますます高齢者は増えて行きますから、企業は元気な高齢者を有効に活用し、雇用できることを忘れないでもらいたい。」と言うのが、彼の御意見です。

 

なんと日本人は真摯な事…とは、わたしの意見。わたしたちはいつまで働くの。いつ、労役から解放されるの。もちろん、「好きな仕事」なら話は別ですが。就職先を求めるより、豊かな老後を「政府」に求める方が、理にかなっていると思うけどな。

 

そこで、「お題」の2です。『寿命百歳以上の世界――20××年、仕事・家族・社会はこう変わる』。この本の著者は、近い将来の人類の平均寿命を150歳と予測しています。20世紀の前半までは、先進国の平均寿命が80歳になるとは夢にも思わなかった。だから、150歳という数字も現実性があるということ。彼女は、平均寿命が延びるとともに、健康寿命も延びるとしていますから、100歳になっても、まだ健康で元気に「働ける」と言うことですネ。今、日本での「健康寿命は70ウン歳」と言うことですから、150歳まで生きるとなると、何歳まで健康なんだろうか。現在、たいてい60歳定年なので、その倍(実質的には3倍弱か。)の120歳くらいまでは働かなければいけないのだろうか。なんとシンドイ話でしょうか。

 

そして、お題の3、『人工知能が雇用を奪う未来』。国立情報学研教授・新井紀子さんは、人工知能を東京大学に合格させるプロジェクトを推進中です。大手予備校の模試では、私大579校のうち403校で合格確率が80%以上になったそうです。東大はまだ圏外とか。しかし、数学などの問題では、受験生が回答できないような問いもスラスラとあっという間に解いてしまいます。このプロジェクトの狙いは、知的作業のうち何を機械にさせ何を人間がするのが効率的かを探ること。

 

彼女は、人工知能が「深い言語理解能力」を持った時、ほぼ全ての事務職が機械に置き換わるだろうと言っています。人間に残される「お仕事」は、機械化するには費用がかかり過ぎる「単純労働」だけ。接客業は単純労働とは言えませんが、税理士の仕事は機械が代替するが、居酒屋の店員は機械にはならないということです。

 

機械に仕事を奪われても、その構図がそう単純ではないので、人間としては、どこに怒りをぶつけるべきかわからない事態のようです。例えば、1980年代に職を追われたタイピストや電話交換手。失業したのが女性ばかりだったので大騒動にはならなかったが、男性たちは自分たちの雇用が危うくなって初めてその深刻さに気付くでしょう。職を追われた彼女たちは、自分が悪いからだと、すべて「自己責任」を問われたのでした。

 

どうですか、人間は150歳まで生きて、仕事を続けなければいけないが、その仕事も機械に奪われるという事態です。

 

次に、お題4、『STAP細胞』。ES細胞とかiPS細胞などの研究により「人間は死ななくなる」と言われましたが、今度はSTAP細胞です。より、簡単にステム・セルができます。今までも、iPS細胞により、いろいろなもの(?)を作りだす研究が進められています。例えば、最近のニュースでは、『iPSから赤血球を大量生産!』。『血小板を作製!』、『iPSで免疫力強化!』、『歯茎の骨を再生!』などなど。もうほとんど「フィリップ・K・ディック」の世界ですよ。

 

STAP細胞の今回の報道によりますと、そのままでは胎児になれないように細工した受精卵にSTAP細胞を注入し、子宮に戻したところ、全身がSTAP細胞からなる胎児ができたということ。「切断した指が生えてくるような究極の再生医療への応用」までつながる可能性があるそうです。

 

はい、これで人間は150歳ばかりか、死ななくなったので~~~す。仕事も機械に奪われました~~~。

 

そこで、人に何ができるか。先の国立情報学研教授・新井紀子さんは、「教育の抜本的な見直しが求められる」と言っておられます。「例えば、機械翻訳が発達すれば英語教育に10年も掛けることが必要か」とか。コンピュータに勝てる高度人材を育て、人間に残される仕事を見つける…なんて、これで人類は、究極の「自分探しの旅」に旅立たなければいけないことになってしまいました。

 

 

そこで、大団円……お題5の『死の権利「安楽死のできる国」』です。オランダでは、2002年に、安楽死が法律で認められました。日本で言う「尊厳死」ではありません。日本では、人生の最後、もう延命の治療もなく本人自らの力で生きていけない植物状態の患者が人間としての尊厳を保つために死が与えられます。

 

オランダで安楽死を選んだアネカさんの話を新聞記事で読みました。アネカさんに持病はありません。ただ、75歳頃から、耳が遠くなり視力も衰えました。家中、手探りで生活を営む日々です。「もうこれ以上、このような形で暮らし続けたくない」と安楽死を選びました。もちろん、家族は反対しました。でも、決心したアネカさんは、自分の死ぬ日を定め、それまでの日々を家族と自分が思い描いた日程で過ごして行きました。そして、最後の日、時間きっかりに家庭医が彼女の家を訪れました。医師から手渡された薬を飲んで、娘たちが見守る中、20分程で死に至ったそうです。89歳でした。

 

2002年にオランダで安楽死の法律が施行された時は1882件だった安楽死の報告数が、11年には、3695件で全死亡率の3%弱になるそうです。緊縮財政が続く中、福祉予算のカットも余儀なくされます。そのために生活の質が低下した人たちが、「人生に疲れた」と安楽死を求めることに批判はあります。生活の改善が先だと。

 

しかし、今まで見てきたような世界が現実になりつつある時、そう単純に安楽死を否定はできない。実際、長寿になって、健康に裕福に「自分探しの旅」などを始められる人がどのくらいいると思われますか。たいていは、そんな能力もない、時間もなく日々の糧に追われる、そんなところでは。もうそんな「未来」が始まっているような気がします。ただし、まだ「先進国」でのお話ではありますが。

 

 







追記:(2014・8・31)STAP細胞は、現在、存在するかどうかの検証中です。この文章を書いた頃は、国を挙げて喜んでおりました。




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2014年2月1日土曜日

The Institution of Marriage



New figures show 50% of marriages end in divorce

 

The institution of marriage is not for the common people.  Historically speaking, they did not marry in the face of institutional marriage. It was for governors.  The question is who need the marriage as an institution. 

 

People might say that it ensures property rights or children’s prosperity.  But, it is doomed that the present regime protects only “legitimacy” and differentiates people slipping out of it.

 

There is an example in Europe.  That is “Pacte Civil de Solidarete(PaCS for short; in English, Civil Solidarity Pact).  It is that over 18- year- old people can make a contract of a communal life with each other and the Government approves it as the marriage equal to.  Especially in France, since the law was adopted on Nov. 15, 1999, more than 130,000 such contracts have been signed nationwide (2004).  Owing to it, the birth rate has been increasing there. 

 

It seems that the government respects individual rights of people, however, their aim was not to maintain the liberal relationship between men and women but to just evade responsibility to settle the matter, whether they should approve marriages of homosexual couples.  The Government could improve the appearances of peoples’ equality by giving the same rights and obligations coming from the institutional marriage for homosexual couples by means of the pact, without integrating them into the marriage as an institution.

 

At present, people have to be approved their legitimate existence by being integrated into institutions.  And after, they can demand their rights lawfully.  It means, for example, that homosexual couples firstly need to be approved their legitimacy by institutions, and secondly they can tell their right as legitimate ones. 

 

In a sense, if people, who are rejected in the present society, joined the society by means of approved by institutions, and all people had the same equal rights and were treated equally, it would mean that roles of the institutions would finally finish at that time, paradoxically.  There is no need to tell “we love each other” to the government, and also we don’t need to tell “we DON’T love each other anymore” to the government.





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