この本を買った理由は二つあります。ひとつは、円城塔氏がフィリップ・K・ディック特別賞をアメリカで獲得したという事です。ディックはわたしの大好きな作家なのです。1960年代の作家ですが、今でも、いろいろな映画の原作になっています。一番有名なものは、『ブレードランナー』でしょう。『ペイ・バック』とか『トータルリコール』等も。ほんとにたくさんの映画があります。彼の原作と意識されていなくても。円城氏のこの本を読んだところ、なるほどフィリップ・K・ディックの賞に相応しいなと感じました。
そしてもう一つの理由が、日本語の本が英訳されてアメリカで賞を取ったということです。つまり、日本語がコンテキストなのです。ワールド・リタリチャーには、「ワールド・リタリチャーと複数形のワールド・リタリチャーズ」があります。単数形のワールド・リタリチャーは、それぞれの国の文学の中で「世界的な観照」に耐えられる作品を意味します。
そして、それらの国々の作品が日本語に訳される時、日本語とその言語との微妙なニュアンスの違いが生じます。完璧に日本語には訳しきれません。そんな作品をわたしが読むとき、その真実は彼らの側(書いた側)にあるのです。訳された日本語が間違っているわけではないのですが、日本語に訳しきれないということです。同じ意味を持つように表現することが困難なのです。
日本の文学もワールド・リタリチャーあるいはワールド・リタリチャーズとして、英語に訳されます。彼等がそれを読むことになると、真実は我々の側にあるという状況が生まれます。英語の文章と日本語の文書に齟齬がある場合、日本語が正しくて、英語の表現が間違っているのだということに。そんなこと当り前だと思われるかもしれませんが、英語スピーカーたちはなかなかこの真実を受け入れません。
『Self-Reference Engine』の中で、「明後日(あさって)の方向」という表現が度々出てきます。この本の根幹は時間軸が崩壊し過去も未来もぐちゃぐちゃにこんがらがっている状況です。そんな中で話が展開しています。だから、「明後日の方向」というのは、文字どおりの意味で理解されうるということですが、日本語としては、「明後日の方向」とは、「デタラメ」という意味を含んでいます。この二つの意味が相まって、日本語での本は話に厚みが出ます。が、英語では、意味が一つとなります(英語にはそんな表現方法はないと確認済み)。
あるいは、主語を明確に表現しない日本語でも我々は、何が主語かわかりますが、訳された英語では、主語が間違っていることがあります。そんないろいろな間違いに、「真実は我々の側にある」と主張できる幸せ(倒錯してますね、わたし)。とにかく、わたしが言いたいことは、文化の違いを謙虚に受け入れること。我々は、パーフェクトにお互いを理解し合える存在ではないのです。
それは、時間軸が狂った世界で、お互いが別々の違った方向に進んでいるのと同様に、時間軸の狂っていないこの現実世界でも、我々の意識は必ずしもリンクしないのだという事実。つまり、我々は、「ひとりひとりが常に異次元の世界に住んでいる」のです。
この本は円城氏の処女作のようですが、処女作にありがちな、あらゆるものが詰め込まれた装飾過剰な作品になっていると思います。第一に「イベント」が余分なのでは。イベントとは世界の時空間が混乱した瞬間のことを指しています。そのイベントが起きてからの混乱した状態の描写です。それぞれのショート・ストーリはイベントに関連していますが、イベントを中心に置かなくとも、それそれぞれの話だけで「ある時イベントが起った」という事実を暗示した方がスッキリするような……。
あとがきの解説文を読むと、円城氏はこの「イベント」というものを出汁にして、ただハチャメチャな世界を書きたかっただけだと感じます。彼は「あさっての方向」という言葉に惹かれてこの本を書きだしたのではとさえ思えます。芸術家とはそんなものでは。人々は、つい、芸術家の意図を読み取ろうと勝手に難しい理論を組み立てて「こんなことを言いたいのだ」と解説します。が、実体は、ほんとに単純な動機だと思いますよ。
ある作家は、「単なる状況をただどれだけ長く描写する事ができるかを試してみたかっただけだ。」と作品について述べています。また、画家にしても「ある色とある色の組み合わせが美しかったから、その組み合わせの美の極限を描いてみたかった。」と。わたしは芸術家ではありませんが、わたしの彫金の作品を見て、「これは何を表わしているの?」とよく聞かれました。わたしはいつも適当に答えていましたが、作品制作の動機は、「平らな面に滑らかな曲線を持った凹みを入れたら美しいだろう」と言ったような単純なものでした。
円城氏の文を読んでいると、星新一氏の影響を受けているんじゃないかと思わされます。または、落語。言葉あそび。だから、それだけに留めておけばよかったのにと。イベントを中心に添えると、勢いその説明に追われてしまいます。通常ではない世界を舞台にするのは、フィリップ・K・ディックの得意なところですが、彼の場合は、その正常でない世界が、ただ「ある」と言うだけです。そんな世界で、人々はその世界の説明を求めるではなく、普通に普通ではないことをしています。円城氏は、too much あるいはtoo lessです。つまり、通常でない事を描き過ぎる、世界を説明し過ぎる、そして、その世界に生きる人々の日常性を描き切れていない。そんな感想を持ちました。
余分ですが、ひとつ面白いことに気付きました。英語の先生と『Self-Reference Engine』のプロローグと一作目の「Bullet」を読みました。二人には感じ方の違いがあったのです。
わたしは、Bullet を読んで、この主人公の3人は、中学生くらいの少年・少女と思いました。イギリス人の先生は、「大人の男と女」と感じたようです。それは、言うことがスマートだからと。わたしは、彼らの言うことは、どことなく、コミックブックの主人公の子供たちの表現と似ていると思いましたが。実際には、13歳の少年・少女でした。
先生は(イギリス人の男性、30歳くらい)、想像の世界にスンナリ入っていけないようです。つい最近聞いたラジオ番組で、ゲームのイベントをしている人(かなり有名なようですが、名前を忘れてしまいました)が言っていました。「いろいろな国でゲームのイベントをしているが、想像の世界にスッと入っていけるのは日本人だけのようだ。」と。カフェで、「ここは列車の車室です。」と設定すると、日本ではたいてい「はあ、そうですか。」となるが、他の国では、「なぜだ。ここはカフェじゃないか。」と言いだす人が必ずいるそうです。
Bulletの中で、「リタ(少女)は頭の中に弾丸を持っているのだが、それは、母親が撃たれた時、リタが母親のお腹の中にいたからだ」、という描写がありました。先生の反応は、「頭の中に弾丸があって、彼女は死なないの?」でした。わたしは、「ああ、弾丸が入っているのか。」という反応。
それなら、過去でリタが撃たれたことになるので、明後日の方向に銃を撃ちまくるのはおかしい。過去の方向に打つべきなのではと思いました。で、読んで行くと、「リタはある時点で撃たれた。そしてその衝撃で過去の方向に押しやられ、母親の子宮に戻ってしまった。そして、この世に生まれて現在の13歳の時点に来た。この時、リタの頭の中に弾丸はあるがまだ撃たれてはいない。だから、これから彼女を撃つであろう未来の方向の人物に向けてガンをぶっ放し続けているのだ。」と。どうですか。
わたしは、「はあ、そうですか。」と思いました。先生は、「それでは、リタは2回生きているの?」って。どうでもいいじゃん、そんなこと。でしょ。
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